第26話 「朝五時の、非常事態」
あの投稿を見てからしばらく経っていた。
SNSアプリは消してもらったし、表面上は落ち着いたつもりでいた。それでも、心の奥底に沈んだ不安の残骸は、完全には消えてくれていなかったらしい。
その日の明け方、私は久しぶりに悪夢を見た。
一つの、はっきりしたストーリーがある夢じゃなかった。むしろ断片の寄せ集めだった。元彼に全財産を持ち逃げされたあの日のがらんとした部屋。会社の休憩室で、向けられた冷たい視線。実家に戻った時の、父の「ふうん」という一言。うつで、何も感じられなくなっていたあの空虚な日々。過去の、あらゆる嫌なことと、悔しかったことが脈絡もなく次から次へと入れ替わり立ち替わり襲ってきた。
誰かに責められている場面もあれば、誰もいない部屋に一人きりで取り残される場面もあった。感情だけがやけにリアルだった。悔しさ、悲しさ、情けなさ。それらが渾然一体となって、胸を押し潰してくる感覚だけが、はっきりと残っていた。
「もう、やだ……」
夢の中で、そう呟いた気がする。
目が覚めた瞬間、涙が、勝手に溢れていた。全身が、汗でびっしょりだった。心臓が、痛いくらい早鐘を打っていた。カーテンの隙間から、まだ薄暗い光が差し込んでいる。時計を見ると、朝五時。
隣でおみくんが規則正しい寝息を立てて眠っていた。その寝顔を見た瞬間、張り詰めていたものが決壊した。
我慢しよう、と一瞬思った。こんな時間に起こすのは、さすがに迷惑すぎる。それでも涙は止まってくれなかった。むしろ、我慢しようとすればするほど、しゃくり上げるような嗚咽に変わっていった。
その音でおみくんが目を覚ました。
「……どうした」
寝ぼけた声だった。それでも、私の顔を見た瞬間、一気に覚醒したのが分かった。
「ご、ごめん、こんな時間に……」
「いいから、どうした」
有無を言わせない声だった。私は、しゃくり上げながらなんとか説明しようとした。それでも、うまく言葉にならなかった。
「なんか、色々嫌な夢……全部、混ざってて……」
「うん」
「元彼のこととか、会社辞めた時のこととか、お父さんに何も言われなかったこととか……全部、一気に出てきて」
話しながらも、自分でも要領を得ない説明だと分かっていた。それでも、おみくんは途中で遮ることなく黙って聞いていてくれた。
「怖かった。すごく、怖かった」
最後は、その一言しか出てこなかった。
おみくんはしばらく黙ってこちらを見ていた。それから、何も言わずに腕を伸ばしてそっと抱き寄せた。
「大丈夫。もう、覚めてる」
その一言だけでなぜか涙腺がさらに緩んだ。
おみくんの手が背中をゆっくりと一定のリズムで叩き始めた。トン、トン、トン。特別なことは何もしていない、ただの単調な動作だった。それなのに、その規則正しいリズムに合わせて暴れていた呼吸が少しずつ落ち着いていくのが分かった。
「……子供扱い?」
「そう見えるなら、そうかもしれない」
悪びれもせず、そう返された。それでも、その手を止める気配はなかった。
トン、トン、トン。
規則正しいリズムと、規則正しい心臓の音をすぐ近くで聞きながら私は少しずつ瞼が重くなっていくのを感じていた。
「……ありがとう」
消え入りそうな声でそう呟いたのが最後の記憶だった。
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次の日、目を覚ますと隣に、おみくんの姿がなかった。
リビングに顔を出すと、おみくんが猛烈な勢いで身支度をしていた。
「……どうしたの、その慌てぶり」
「寝坊した」
珍しく、余裕のない声だった。時計を見るといつもの出勤時間をとっくに過ぎていた。
「え、大丈夫? 診療、大丈夫なの?」
「今、電話して、遅れるって言った」
慌ただしく着替えてそう答えた。目の下に、うっすらとクマが見えた。
「……もしかして、私のせいで、寝れてない?」
おそるおそる聞くと、おみくんは動きを止めた。
「まあ、多少は」
「ごめん! 本当にごめん!」
「別に、いい。トントンしてる間に、こっちもなんだかんだ寝落ちしてたし」
それにしたって、朝五時に起こされて二度寝もそこそこにそのまま朝を迎えたのだから寝不足になるのも当然だった。
「今度からは、我慢するから」
「我慢しなくていい」
あっさりと、そう返された。
「我慢されて、後でもっと大変なことになる方が、面倒だから」
その理屈は、いつも通り身も蓋もなかった。それでも、なんだかんだ言いながら玄関で靴を履くその横顔に嫌そうな色は一切見当たらなかった。
「行ってきます」
慌ただしく、おみくんは出勤していった。
その日、私は一人でリビングに座りながらぼんやりと昨夜のことを思い返していた。トン、トン、トンというあの一定のリズム。子供扱いだと分かっていても、あの手のひらの感触だけであんなにも安心できたことがなんだか不思議だった。
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それから、時々同じようなことが起きるようになった。
頻繁に、というわけではなかった。それでも、月に一度か二度、深夜か明け方にあの寄せ集めの悪夢を見る夜があった。そのたびに、私は隣で眠るおみくんを申し訳なさを抱えながらも起こしてしまった。
おみくんは、一度も面倒くさそうな顔をしなかった。むしろ、回数を重ねるごとにその対応はどんどん手慣れていった。目を覚ますスピードも、抱き寄せるタイミングも、背中を叩くリズムも、まるで専用のルーティンでも確立したみたいだった。
「今日も、ダメだった?」
目を覚ました瞬間、聞かれることも多くなった。無言で頷くと、それだけで腕が伸びてくる。トン、トン、トン。
最初は、迷惑をかけている自覚に押し潰されそうだった。それでもある夜思い切って聞いてみたことがあった。
「本当に、嫌じゃないの? こんな、夜中に何回も起こされて」
おみくんは、少し考えるように黙った。それから、いつになくはっきりとした声で言った。
「嫌じゃない。むしろ」
「むしろ?」
「これをしてる間だけ、のんちゃんが、俺のことを、ちゃんと頼ってくれてる気がする」
その一言に、何も言い返せなくなった。
いつの間にか、おみくんにとってもこの「トントン」という行為は面倒な義務ではなく大事な習慣の一つになっていたらしい。
それからも、私の悪夢は完全にはなくならなかった。それでもその悪夢の後に待っているあの規則正しいリズムと温かい体温のことを思うと朝五時の非常事態も、少しだけ悪くないものに思えてくるのだった。
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