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第25話 「化石には、勝てない」

「今日、行きたいところがあるんだけど」


休診日の朝、珍しくおみくんの方からそう切り出された。


「珍しいね、おみくんからお誘いなんて」


「たまには。健康のためにも、外出た方がいいから」


その「健康のため」という枕詞に、若干の胡散臭さを感じたけれど、深くは追及しなかった。連れて行かれたのは、電車で小一時間ほどの場所にある自然史博物館だった。


「ここ?」


「うん」


入り口をくぐった瞬間からおみくんの様子がなんだかいつもと違った。

常設展の入り口、恐竜の骨格標本が展示されているエリアに差し掛かった瞬間、おみくんの目が明らかに輝き始めた。


「これ、見て。アンモナイトの化石。この巻きの美しさ、螺旋の比率が黄金比に近いんだよね」


早口だった。いつもの感情の起伏が薄いあの喋り方はどこにもなかった。


「え、なにその早口」


「ここ、線が入ってるでしょ。縫合線っていって、殻の内側の仕切りが本体にくっついてた跡なんだけど、この形が種類ごとに全然違って、複雑なほど後の時代のものが多い。つまり、この一枚を見るだけで、だいたいの年代の見当がつく」


「一息で喋りすぎじゃない?」


「これは、白亜紀のものだと思う。地層の年代測定とか、興味ない?」


「興味ないとは言わないけど、今のおみくんの方が興味ある」


完全に無視された。展示ケースに顔を近づけて、食い入るように化石を見つめている横顔は普段の淡々とした表情とは別人だった。


「診療の合間とかに、こういうの、調べたりするの?」


「する。休憩時間、大体、論文読んでる」


「歯科医師の休憩時間の使い方じゃなくない?」


その質問には、答えなかった。

代わりに私の手首が掴まれた。


「こっち」


そこからはほとんど拉致だった。

おみくんは、私の手首を掴んだまま次の展示エリアへぐいぐい歩いていった。歩幅が明らかにいつもより広い。私は小走りでついていくしかなかった。


「三葉虫。これ、目が残ってるやつ。すごくない?」


「すごいのかな」


「複眼のレンズが、方解石でできてるんだよ。要するに、石でできた目。生き物の目が、そのまま鉱物として残ってる」


「石の目……」


「しかも、種類によっては、二重焦点になってて、近くも遠くも同時にピントが合う構造をしてた可能性があるって説がある。人間が眼鏡でやってることを、五億年前にやってた」


「五億年」


「五億年」


そこで、十五分、動かなかった。


私は途中で壁際のベンチを見つけた。座ろうとして、腰を下ろしかけたところで、また腕を引かれた。


「まだ座らなくていいでしょ」


「まだって何」


「次、こっち」


順路を半分ほど進んだあたりでおみくんが急に立ち止まった。


「……さっきの、もう一回見たい」


「え」


「縫合線の。さっきは光の角度が悪かった」


そう言って、今度は来た道を逆走し始めた。矢印が思い切り反対を向いていた。すれ違う家族連れが不思議そうにこちらを見ていた。私はその視線を全部引き受けながら手首を引かれて戻った。

恐竜の卵の化石の前では、二十分だった。


「殻に、細かい穴があるの、分かる?」


「見えない」


「あるの。中の胚が呼吸するための穴。厚さと穴の数のバランスで、その恐竜がどんな環境に卵を産んでたかまで推定できる。土に埋めてたのか、地表に置いてたのか」


「卵からそこまで分かるんだ」


「分かる」


そう言って、おみくんは、私にスマホを押しつけてきた。


「撮って」


「私が?」


「俺だと、ガラスに映り込む」


言われるがまま、しゃがんで角度を変えて何枚も撮った。


「もうちょっと下から」


「これでいい?」


「光ってる。左に半歩」


いつの間にか私は化石専門の撮影係になっていた。


「そろそろ、疲れたんだけど」


正直に訴えても、


「あと、少しだけ」


と、軽く流された。「少しだけ」が、体感で四回くらい繰り返された。


極めつけは、出口のミュージアムショップだった。

入った瞬間、おみくんの動きが変わった。

恐竜のぬいぐるみもレプリカの詰め合わせもキーホルダーの回転ラックも全部、素通りだった。迷いのない足取りでまっすぐ店のいちばん奥に向かっていく。


そこに鍵のかかったガラスのケースがあった。

中に並んでいるものには一つずつ小さな札がついていた。産地と、年代と、それから、値段。


「……これ、なに」


「本物」


「本物?」


「さっきまで見てたのは、展示。これは、売り物の本物」


私は、札の数字を目で数えた。数え直した。もう一度、数えた。


「……ゼロ、いくつある?」


「六つ」


「六つ!?」


おみくんは、私の悲鳴を。完全に聞いていなかった。ガラスに顔を近づけて、真ん中に置かれた大きなアンモナイトをじっと見つめていた。


「これ、縫合線が全部出てる。この状態で、この大きさは、あんまり出ない」


「おみくん」


「産地も、いい」


「おみくん」


店員さんが、静かに近づいてきた。おみくんは、振り返りもせずにこう言った。


「これ、ください」


即答だった。


「ちょっと待って。一回、落ち着こう」


「落ち着いてる」


「桁がおかしいって」


「相場より、安い」


「相場を知ってる人の発言なんだよなあ、それが」


店員さんが白い手袋をはめてケースを開けた。うやうやしく取り出されたそれをおみくんは両手で受け取った。

そのときの顔は、私が今まで見たことのない顔だった。診療室で見せる顔でも、家で私をなだめる顔でもなかった。もっと、ずっと、子供みたいな顔だった。

会計は、カードで一括だった。


「……普段、あんなに合理的なのに」


「これは、投資」


「投資って、何に対する投資?」


「知的好奇心への投資」


真顔で、そんなことを言うものだから、逆に、何も言い返せなくなった。

外に出た頃には、おみくんの表情はいつもの淡々としたものに戻っていた。それでも、緩衝材で厳重に包まれた箱を、両手で、赤ちゃんみたいに抱えている姿は、どう見ても、いつも通りではなかった。


「持とうか?」


「大丈夫」


「重くない?」


「大丈夫」


一ミリも渡す気がなかった。


「今日、楽しかった?」


「うん」


「私より、化石の方が主役だったけど」


「化石は、裏切らないので」


妙に含蓄のある一言だった。それでも、そう言いながら空いている方の手で、当たり前のようにこちらの手を握ってくる手つきには、ちゃんといつもの優しさが残っていた。


この人にも、こんなに分かりやすく少年みたいな一面があったのか。健康のため、という建前で連れ出されたはずが、結局、一番はしゃいでいたのはおみくんの方だった。

ちなみに、帰りの電車の中でも話は終わらなかった。

膝の上に箱を乗せたまま、おみくんは、ずっと喋っていた。私は、途中で力尽きて、肩にもたれて寝落ちした。目が覚めたのは、乗り換えの二駅前だった。

おみくんは、まだ、縫合線の話をしていた。

そのアンモナイトは、今、うちのリビングの棚に飾られている。

私は最近、その棚を拭く係になった。拭くたびに、六桁の数字が頭をよぎるので、毎回、手が少し震える。

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