第24話「歯磨き、代行いたします」
同棲生活が、すっかり板についてきた頃だった。
寄生虫時代からの悪癖は、正式な同居人になった今もしぶとく生き延びている。。その一つが、歯磨きへの圧倒的なやる気のなさだった。
その日の夜、いつものようにソファに寝転がって動画を眺めていた。
「歯、磨いた?」
おみくんの声がキッチンの方から飛んできた。
「……後で」
「後でって、もう十一時」
「あと少しだけ」
あと少し、が体感で三十分は続いていた。目の前の動画が面白すぎるとか、ソファから起き上がる気力がないとか、理由はその日によって色々だったけれど結論はいつも同じだった。歯磨き、後回し。
気づけば、うとうとと、まぶたが重くなってきていた。
「……ちょっと」
肩を、軽く揺すられた。
「寝落ちしかけてる」
「してない」
「してた。歯、磨いてないよね」
図星だった。それでも体は完全に休眠モードに入りかけていた。
「明日、朝一で磨くから」
「虫歯菌、寝てる間に増えるんだけど」
歯科医師らしい、容赦のない正論だった。それでも体が動かない。指一本、動かすのすら億劫だった。
「無理……眠い……」
半分、寝言のような呟きだった。おみくんは、しばらく、こちらを見下ろしていた。それから小さくため息をついた。
「……分かった。座って」
「え?」
「磨いてあげるから、座って」
寝ぼけた頭で、その意味を理解するのに少し時間がかかった。
「……磨いてくれるの? おみくんが?」
「このまま寝られる方が、正直、困る」
半分呆れたような、それでいてどこか諦めたような口調だった。
言われるがまま、洗面所の椅子に座らされた。目の前に歯ブラシとコップの水が用意されていく。手際がやけに良かった。
「口、開けて」
「……子供扱いされてる気がする」
「事実、子供みたいな行動してるので」
言い返す元気もなく、大人しく口を開けた。
磨かれる感覚は、思っていたよりずっと丁寧だった。奥歯の一本一本、歯と歯茎の境目まで几帳面に順番通りに磨いていく。以前、鏡越しに指導されたあの時の記憶が蘇った。
「上手すぎない、これ」
「仕事だから」
「仕事で恋人の歯、磨くことある?」
「ないけど、応用は利く」
軽口を叩き合いながらも、その手つきは、途中で一度も、雑になることはなかった。むしろ、こちらの眠気が邪魔にならないよう、優しく、丁寧な力加減を保ち続けていた。
「はい、終わり」
仕上げに、口をゆすぐよう促されて、ようやく、一連の作業が終わった。
「……ありがとう」
眠気でぼんやりした頭で、それだけなんとか絞り出した。
「次は、寝落ちする前に自分で磨いて」
「善処します」
「その返事、絶対、守る気ない」
図星だった。それでも、おみくんは、それ以上、追及してこなかった。呆れながらも、こちらの背中を支えて、寝室まで連れて行ってくれた。
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それから、この「歯磨き代行」は、月に一、二回のペースで、密かに繰り返されるようになった。
毎回、おみくんは「次はちゃんと自分でやって」と、律儀に釘を刺す。それでも、いざ、こちらが本気で眠そうにしていると、結局は、黙って歯ブラシを手に取ってしまう。
「これ、私を甘やかしてるだけだよね」
ある夜、磨かれながら、思わず、そう指摘してみた。
「甘やかしてはいない。歯周病予防のための、必要な処置」
「絶対、それだけじゃないと思う」
「……多少は、甘やかしてるかもしれない」
珍しく、あっさりと、非を認めた。口の中が歯ブラシで塞がっていたので、笑うに笑えなかったけれど、それでも胸のあたりがじんわりと温かくなった。
几帳面で、合理的で、無駄を嫌うはずの人がこんな些細なことにまで少しずつ絆されていく。
寄生虫だった私は、いつの間にか、この人の生活の中に、すっかり根を張っていたらしい。




