第23話「開業失業率と通帳の暴力」
きっかけは暇つぶしに眺めていたニュースサイトの、何気ない記事。
「開業医の五年以内倒産率、〇〇パーセント」
その見出しが目に飛び込んできた瞬間、指が止まる。
好奇心で開いてしまったのが、そもそもの間違いだった。書かれているのは想像以上にシビアな現実。開業資金の借入額。初期投資の重さ。競合クリニックの乱立。患者数の減少傾向。読み進めるほど、数字がどんどん恐ろしいものに見えてくる。
おみくんは今のところ開業を考えていないと言っていた。それでもいつか気が変わるかもしれない。もし将来開業して、それで失敗したら。借金を抱えたら。生活が立ち行かなくなったら——。
一度そう考え始めると止まらなくなる。
たちの悪いことに、私は知っている。
お金がある日なくなるということを。
昨日まであったものが、朝起きたらきれいに消えているということを。あれは比喩でもたとえ話でもない。私はそれを実際に、通帳の残高で見た人間だ。
一度味を覚えた恐怖はしつこい。頭ではもう終わったことだと分かっているのに、体のほうが覚えている。
記事を三周読んで、関連記事まで片っ端から漁った。「開業医 廃業」「歯科医院 倒産」「開業資金 借金」——検索履歴がどんどん物騒になっていく。
気づけばリビングのソファで膝を抱えたまま、時間だけが過ぎている。
窓の外がいつのまにかオレンジ色から藍色に変わっていた。何時間同じ体勢でいたのか、自分でも分からない。膝の裏が痺れていることにようやく気づくくらい、頭の中は倒産率の数字と最悪の未来の想像で埋め尽くされている。
スマホの画面には閉じ忘れた記事のタブがいくつも並んでいる。検索履歴だけ見たら、完全に何かを思い詰めた人間の足跡だろう。
玄関の鍵が開く音がした瞬間、体がびくりと跳ねる。
「ただいま」
いつも通りの声。それだけでなぜか涙腺が緩んだ。
おみくんは靴を脱ぎかけたところで動きを止める。ソファの上で体育座りのまま固まっている恋人。閉じられていない大量のブラウザタブ。テーブルに散らばった「倒産」「借金」の走り書き。
傍から見たら事件現場さながらの光景だと思う。
「……どうしたの」
その一言をきっかけに、抑えていたものが一気に決壊した。
「開業医の倒産率がすごい高くて、しかも失敗する人って何年か経ってからが多いらしくて、今は開業しないって言っててもいつか気が変わるかもしれなくて、それで借金背負ったらどうしようって、無職の私は何の役にも立てないし、そうなったらもう終わりで、家賃も払えなくなって、また実家に戻ることになって、でも実家はもう受け入れてくれなくて、そしたら、もう、本当にどうしたらいいか分かんなくて」
息継ぎもろくにしないまま一気にまくし立てる。声が途中から震えていた。
「ちょっと待って、落ち着いて」
「落ち着いてなんかいられない! だって五年以内に何パーセントかは失敗するんだよ!? それが私たちに起きたらって考えたら、もう、怖くて、怖くて」
涙も鼻水ももう見境なく溢れている。まともな言葉になっているかどうかも、自分では分からない。
支離滅裂な訴えを、おみくんは玄関で靴も脱ぎきらないまましばらく黙って聞いていた。それから靴を脱いでリビングに上がってくると、まず隣に座る。
「まず、一つ」
いつも通りの淡々とした声。
「開業する予定は、今のところ、本当にない」
「今のところ、でしょ。いつか変わるかもしれないじゃん」
「変わらない。少なくとも当面は」
「でも絶対とは言えないじゃん」
「絶対とは言えないけど、可能性は限りなく低い。それにもし仮に開業して、それで失敗したとしても」
そこで一呼吸置く。
「勤務医に戻るだけ。それだけの話」
あまりにもあっさりとした言い方だった。
「戻るだけって、そんな簡単に言うけど」
「簡単だよ。歯科医師免許があれば働き口はどこにでもある。今も求人サイト開けば、勤務医の募集は山ほど出てる」
淡々と、しかし明確に事実だけを積み重ねていく。その話し方に、私の中の不安が少しずつ地に足のついたものに変わっていくのが分かる。
「勤務医だと月収は大体七十万前後。地域とか経験年数とか、条件によって多少上下するけど、生活に困る水準じゃない」
「な、七十万!?」
「それくらいはある」
あまりにも具体的な数字に、思わず変な声が出た。それでもおみくんの表情はいつも通りフラットなまま。
私の顔から不安の色が完全には消えていないのを見て取ったのか、少し考えるように黙り込む。
それから無言で寝室の方に立っていった。
「……どこ行くの」
戻ってきたおみくんの手には、通帳と一枚の書類。
「これ、見て」
「え、何」
「通帳と、源泉徴収票」
あまりにも直接的な物証に、思わず言葉を失う。
「口座の中身と去年の年収。数字で見た方が早いと思って」
——数字で見た方が早い。
その言い方に少しだけ引っかかる。
私が数字に殴られた人間だということを、この人は知っている。四桁になった通帳を天井を見ながら眺めていた半年のことも、全部話してあるのだ。
だから言葉じゃなくて数字を出してきた。
そう気づくのに、少し時間がかかった。
差し出された通帳をおそるおそる開く。
目に飛び込んできた桁数に、思わず目を剥いた。
「……は?」
二度見どころか三度見する。ゼロの数を指でなぞって数え直したくらいだ。次に源泉徴収票へ視線を移す。年収欄の数字が想像していたよりもはるかに大きくて、一瞬、頭の中で単位の変換が追いつかない。
「これ、桁、合ってる?」
「合ってる」
「嘘でしょ、こんなにあるの?」
あんぐりと口を開けたまま、通帳とおみくんの顔を交互に見比べる。今までうっすらとは想像していた。でも実際に数字を突きつけられると、衝撃の質がまるで違う。
ふとおみくんの顔を見ると、そこにはいつもの淡々とした表情とは少し違う色が浮かんでいる。
口角がわずかに上がっている。目元にも隠しきれない愉悦のようなもの。
「……なんか、楽しんでない?」
「別に」
「絶対、楽しんでるよね、その顔」
「のんちゃんがそこまで分かりやすく驚くと思わなかったから、ちょっと面白かっただけ」
悪びれもせずそう認められた。この人、私が動揺すればするほど内心面白がっているタイプらしい。ドライな性格のくせに、こういう時だけ妙に人が悪い。
あまりにも潔い開示に、不安よりも先に変な感動が込み上げてくる。言葉で説得するだけじゃなく、実際の数字を有無を言わさず突きつけてくる。まさに金の暴力。
同時に、思ってしまう。
前の人は私に通帳を見せたことが一度もない。
私の残高を勝手に見ることはあったのに。
「これでも、まだ不安?」
「……いや、もう、十分すぎるくらい」
あっけなく陥落した自分に、我ながら単純だと思う。それでも抽象的な不安をこんなにも具体的な数字で殴られてしまったら、疑いようがない。
「開業して失敗しても勤務医に戻る。それでも駄目でも貯金がある。それでも駄目でも、俺の実家はそこそこ裕福なので最悪頼れる」
「そこまで言う?」
「不安なら全部潰しておいた方がいいと思って」
その徹底ぶりに思わず笑ってしまう。泣いていたはずなのに、いつのまにか涙より先に呆れと安心が勝っていた。
「ありがとう。もう、大丈夫」
「なら、よかった」
通帳と源泉徴収票を丁寧に片付けながら、おみくんがこう付け加える。
「ちなみに、こういう資料を突然求められることが今後もあるかもしれないから、一応、家のここに保管しておく」
指差したのは、リビングの棚の引き出し。まるで緊急時のマニュアルを整備するみたいな几帳面さだ。
「次からは、ここ見れば安心できるから」
その用意周到さに、頼もしさと少しの呆れが同時に込み上げてくる。
ソファに座り直すと、おみくんがこちらの顔を少し覗き込んできた。
「……まだ、この間のこと引きずってる?」
その一言に、張り詰めていたものがまた少し緩む。
この間のこと。名前を出さずに、そう聞いてくれる。
「……ちょっとだけ、まだ」
「そう」
それだけ言うと、おみくんは無言でこちらの肩をそっと抱き寄せた。何も言わずに、ただしばらくその体勢のまま。
不思議だと思う。
あの夜もこの人は何も聞かずにただ隣に座っただけ。それだけで私は眠れた。今日も同じ。この人はいつも、何も言わずに隣にいる。
「夕飯、何か食べたい物ある? 今日はのんちゃんの好きなやつでいいよ」
「……いいの?」
「いい。今日くらい甘やかす」
言った後、少しの間、自分の発言を反芻するように黙り込む。それから小さく独り言のように呟いた。
「……最近、俺、甘すぎる気がする」
「え?」
「前は、こんなに簡単に甘やかす側に回らなかった気がするんだけど」
困ったような、それでいてまんざらでもなさそうな声。表情はいつも通り薄いはずなのに、その口ぶりには確かな戸惑いが滲んでいる。
「別に、いいじゃん、甘くて」
「よくはない。ドライがウリだったのに」
「今更、そこ気にするの?」
「気になる。人としての一貫性の問題」
真顔でそんなことを言うものだから、思わず笑ってしまう。泣いたり笑ったりで、感情の忙しい一日だ。
「まあ、いいや。今日だけは特例ということで」
自分にそう言い聞かせるように呟いた様子に、なんだかいつもとは違う可愛らしさを感じてしまう。ドライな人間が自分のドライさの崩壊に真剣に戸惑っている姿。これはこれで貴重な光景だと思う。
その一言に、涙腺がまた緩みかけた。散々泣いて散々取り乱して、それでも責められることも呆れられることもなく、ただ甘やかされている。
「じゃあ、あの、駅前のグラタンの店」
「わかった」
その後、テイクアウトしてきてくれたグラタンをソファで並んで食べた。熱すぎて舌を火傷しかけている私の横で、おみくんは涼しい顔でふうふうしている。この人はこういうところも要領がいい。
食べながら、今日一日の自分の暴走ぶりを少しずつ反省し始めていた。
あの人は、私の通帳から黙って全部持っていった。
この人は、自分の通帳を黙って私に見せる。
同じ紙切れ一枚。それなのに、こんなにも違う。
金の暴力で不安を吹き飛ばされ、最後は甘やかしの暴力で心まで溶かされる。私の一日は、だいたいいつも、こうやって終わっていく。
グラタンは、火傷しただけの価値があった。




