第22話「SNS、開かなければよかった」
同棲が始まってから、毎日が驚くほど穏やかだった。
「ヒモ」という新しい肩書きにも、少しずつ慣れてきた頃だった。おみくんが渡してくれるお小遣いで、スーパーの特売品を吟味したりコーヒーに貢いだりする日々。三食、当たり前のように用意される食事。半年前の自分からは想像もつかないくらい、満たされた毎日を送っていた。
どん底から這い上がって、こんな幸せな生活が待っているなんてあの頃は夢にも思わなかった。
その平穏が一変したのは、本当に些細なことがきっかけだった。
同棲を始めて数週間、SNSを開いていた時共通の知人が「いいね」を押していた投稿がタイムラインに流れてきた。何気なく、その投稿主の名前を見て指が止まった。
——元彼だった。
開いた瞬間、目に飛び込んできたのは想像とは全く違う内容だった。「月収三桁も夢じゃない」「今だけ特別に、限定五名様のみご招待」——きらびやかな文字が躍る、いかにも怪しい投資セミナーの告知。
過去の投稿を遡ると真っ当そうな転職の報告から、数ヶ月かけて不動産投資、暗号資産、そして名前も聞いたことのない「権利収入」を謳う組織の勧誘めいた投稿へと変わっていた。
——また、同じことを、繰り返している。
猛烈な恐怖が湧き上がる。もし、知り合いの誰かに手を伸ばしたら。もし、また自分自身に関わってこようとしたら——考え始めたら止まらなくなった。
一日目の夜、うとうとしかけてははっと目が覚める。二日目は悪夢まで見て汗だくで飛び起き、防御姿勢のように体を丸めてソファで過ごす。
三日目の朝には、目の下に濃いクマ、生きているのか怪しいレベルの顔色で「完全に屍」に。「体調、悪い?」「……別に、普通」という嘘に、おみくんはそれ以上踏み込めない。
同じことが四日目、五日目と続く中——
後から聞いた話だけれど、その頃のおみくんは本当にもどかしい思いを抱えていたらしい。無理に聞き出すのも、放っておくのも違う気がして診療の合間何度も自問自答を繰り返していたという。
それでも、五日も続けばさすがのおみくんも限界だった。六日目の夜、とうとうおみくんが動く。いつもなら様子を見るだけだったのに、その日はソファに座り込む私の隣に静かに腰を下ろしてきた。
「別にちょっと眠れないだけ」
——誤魔化そうとしたけれど、声のトーンでバレていたと思う。
急かすことなく隣に座り続けるその静けさに、少しずつ心の防波堤が緩んでいく。
「……元彼のこと、SNSでたまたま見ちゃって」
それだけ言って、また黙り込む。
「……久しぶりに、名前見て」
「見なきゃよかったって、ずっと後悔してる」
途切れ途切れに、少しずつ言葉を継いでいく。
「普通に、就職しましたって報告から始まって……最初は、普通だったの。でも、だんだん変な感じになってて」
「不動産とか、投資とか、そういう話、増えてって……」
言葉が止まり、深呼吸を一つ挟んで、また続ける。
「なんか、怪しい投資の勧誘みたいなの、始めてた。前よりもっと大きい規模で。反省とか、全然してなさそうだった」
「もし、また誰かを騙してそれで捕まって……もし、私の周りの誰かにあの人の手が伸びたらって考えたら、急に怖くなって」
感情が一気に噴き出す。
「乗り越えたつもりだったのに。今、幸せなはずなのに。なんで、あの人の投稿一つで、こんなに動揺してるんだろう」
「動揺するのは、当然だと思う」
「のんちゃんを傷つけた人間が、また同じことを繰り返そうとしてるの見たら、誰だって心が乱れる」
「あの人が今、何をしていようとのんちゃんの生活にはもう関係ない。のんちゃんは、もうあの人の被害者じゃなくて、ここで俺と暮らしてる人間。もし、本当にまた何か問題を起こしたとしても、それは、のんちゃんが背負う話じゃない」
「今日は、もう寝よう。眠れなかったら、俺も一緒に起きてる」
その言葉に、強張っていた肩から、すっと、力が抜けた。
「……ねえ、おみくん」
「うん」
「私さ、あの人のこと、やっぱり恨めなかったな」
六日間も眠れなくなって、防御姿勢で丸まっていたくせに。それでも、あの人を憎む気持ちにはならなかった。ただ、怖かっただけ。それだけだった。
言ってから、自分でも変なのと思った。
おみくんは、何も言わなかった。
ただ無表情で私を見ていた。
いつもの、涼しい顔とも少し違う。何を考えているのかまったく読めない静かな目だった。
「……変かな、私」
「ううん」
おみくんは、短く、そう言って私の頭にぽん、と手を置いた。
「寝よう」
翌朝、SNSアプリがこっそり削除されているのに気づく。
「見なくていいものは、見えない方がいいので」
あの怪しい投稿の文字は、まだ頭のどこかに残っている。それでも、隣にいてくれる人の存在が、その記憶を少しずつ上書きしてくれている気がした。
その夜、私は、久しぶりに、ちゃんと眠った。六日ぶりの、まともな眠りだった。おみくんの腕の中で、子どもみたいに、ぐうぐうと。
だから私はは知らなかった。
このあと、おみくんが一人で何を考えていたのかを。
---
のんちゃんが、眠った。
規則正しい寝息が、腕の中から聞こえてくる。六日ぶりだ。よく見ると目の下にクマが残っている。それでも、ようやくちゃんと眠れたらしい。
俺は、起こさないようにそっと、腕を抜いた。のんちゃんは、少し身じろぎして、俺のシャツの裾を、無意識に握りしめた。それだけで、またまた深い呼吸に戻る。
—後悔は、してない。
暗いリビングに戻りながら、俺はそう思っていた。
さっき、のんちゃんのスマホからあのアプリを消したこと。見なくていいものは、見えない方がいい。あれは本心だった。後悔は、していない。
ただ——消す前に、俺は一度だけあの男の投稿を全部遡って読んでいた。
そのことは、のんちゃんには言っていない。
ひどいものだった。
月収三桁。限定五名。権利収入。中身のない誘い文句が、きらびやかな飾りをつけて、延々と並んでいた。過去を遡れば、まっとうそうな転職報告から始まって、少しずつ、匂いが変わっていく。真っ当な顔をした罠へと、じわじわ、化けていく。
反省の色は、どこにもなかった。
自分が一人の人間の人生を、根こそぎめちゃくちゃにしたことを。相手が、うつになって、仕事を失って、半年、天井を見て過ごしたことを。この男は一秒も、考えていない。もう次の獲物を、探している。
その、塗り固めた投稿を読みながら。
俺は、自分でも驚くくらい腹を立てていた。
俺は、あまり怒らない人間だ。
昔から、そうだった。恋人と別れても、次の日には顔を忘れる。理不尽な相手が来ても、右から左に流す。感情の振れ幅が、人より、ずっと小さい。そういう人間だと、自分でも思っていた。
なのに、このときばかりは。
腹の底が、静かに、熱かった。
思い出すのは、さっきの、のんちゃんの言葉だった。
『私さ、あの人のこと、やっぱり恨めなかったな』
そう言って、へらっと、笑ったのだ。
全財産を奪われて。うつになって。仕事まで失って。六日間、眠れなくなるほど、怯えて。それでも、あの男を、恨めなかったと。
俺は、あのとき無表情でそれを聞いていた。顔に出したらのんちゃんが気を遣うと思ったから。
でも、内側では。
——なんで、この人は、こんなに。
こんなにも、優しいんだろう、と思った。
そして、その優しさがたまらなくかわいそうだと、思ってしまった。
恨めたら、どれだけ楽か。
あんな奴、と吐き捨てて、すっきりできるなら、どれだけいいか。でも、この人にはそれができない。一度好きになった相手を、嫌いになれない。傷つけられても、その相手の不幸まで、悲しんでしまう。
だから、全部自分の中に抱えたまま、笑う。
その笑顔を思い出したら。
俺の中で、行き場をなくした感情が、あの男への、怒りに変わった。そして、一度火がつくと、それは、なかなか、止まらなかった。
暗い画面を睨みながら、俺は、柄にもなく長いことあの男に腹を立てていた。
のんちゃんが、恨まないなら。
俺が、恨む。のんちゃんが、抱えきれずに笑ってごまかしたぶんを、俺が代わりに引き受ける。それくらいはしてもいいはずだった。
名前も、顔も、明日には忘れているかもしれない。俺は、そういう人間だ。
でも、この怒りだけは。のんちゃんを、二度とあんな目に遭わせないという、この一点だけは。忘れないでいようと、思った。
アプリを消した。
俺のスマホからも、あの男の痕跡が、消える。ついでに、行き場のなかった怒りも、少しだけ収まった気がした。
ベッドに戻ると、のんちゃんは相変わらずぐうぐう眠っていた。
俺が、一人で、何を考えていたかなんて、何も知らずに。俺のシャツの裾を握ろうとしていた手はそのままに。安心しきった顔で。
その寝顔を見ていたら。さっきまでの怒りが、嘘みたいに、どこかへ行った。
代わりに、残ったのは、たぶん、もっと、単純な気持ちだった。
——この人を、幸せにしたい。
このどうしょうもなく不器用で優しくてたまらない彼女を俺の手で幸せに恣意と心の底から思った。
理屈でも、責任でもない。ただそう思ったのだ。
俺は、のんちゃんの、握りしめた手を、そっと、握り返した。
のんちゃんは、知らない。この夜、俺が、あの男に、どれだけ腹を立てたか。そして、どれだけ、この人を、幸せにしたいと、思ったか。
たぶん、一生、言わない。
言わなくても、いいと思った。
俺が、覚えていれば、それで。




