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第21話「ちょっと昔の話をしようか」

同棲を始めて少し経ったある夜のことだった。


風呂上がりのおみくんが髪をタオルで拭きながらソファに座った。私はその隣で牛乳寒天を食べている。今日ので三個目の牛乳寒天。冷蔵庫にはまだ二個ある。備蓄は心の安定に繋がるのだ。


テレビには、おみくんの好きなYouTubeが流れていた。


最近の我が家の定番だ。ソロキャンプのおじさんが山奥で黙々と焚き火をおこす。そして肉を焼いて、コーヒーを淹れる。ただ、それだけの動画。あるいは、深海の変な生き物を淡々と紹介していく生き物チャンネル。


おみくんはこういうのをいつまでも見ていられる人だった。そして私もいつのまにか、それを隣で眺めるのが当たり前になっている。今日の画面では、名前も読めない深海魚がぬぼーっと、暗い海を漂っていた。


その、なんてことのない時間に聞かれた。


「のんちゃんってさ」


「んー?」


スプーンを咥えたまま、私は返事をした。行儀が悪い、と自分でも思ったけれど。この家ではだいぶ素が出ていた。


「ちょっとはじめに聞いたことあるけど、前の人とはどうして別れたの?」


スプーンが一瞬、止まった。


驚いたわけじゃない。いつか聞かれるだろうな、とは思っていた。ただ、あんまりにも、脈絡がなかった。深海魚が漂うのを見ながら、天気予報でも読み上げるみたいな、軽い聞き方だった。


この人は、いつもそうだ。重い球を、ものすごく軽く投げてくる。


---


「別れたっていうか」


私は、牛乳寒天の続きをすくいながら答えた。


「いなくなっちゃったんだよね。ある日、ぱっと」


「ぱっと」


「うん。私の貯金と一緒に」


言ってから、自分でも、ずいぶん軽い言い方だな、と思った。でも、事実だった。あの人は、私の全財産を持って煙みたいに消えた。


おみくんはタオルを首にかけてこっちを見た。急かすでもなく、ただ聞く態勢になっていた。


それを見て私は仕方ないと観念して、続きを話した。どうせいつか話すことだ。


「あの人、ちょっと、というかだいぶ危ないことに手を出しててね。詳しくは言わないけど。それで逮捕されたのが私の会社にもバレちゃって」


「会社に」


「うん。あんな人と付き合ってたんだ、って。なんか、私までそういう目で見られるようになって」


思い出すと、あの頃の社内の空気が蘇ってくる。すれ違いざまのひそひそ話。急に止む給湯室の会話。誰も、はっきりとは言わない。居場所がじわじわと無くなっていく感覚。


「別に、クビ、とは言われなかったんだよ。でも、いづらくてさ。もう、無理だなって。それで、自分から辞めた」


「……」


「貯金なくなって、仕事なくなって、そのままうつになって。実家に帰って半年間、引きこもり。絵に描いたような、転落人生」


---


指を折って、数えてみた。


貯金。仕事。心の健康。人との縁。


四本、折れたところで、私はなんだかおかしくなってきた。


「うわ、こうやって並べるとすごいな」


くすくす、と笑いがこぼれる。


「しかもさ、うつはまだちゃんとは治ってないし。おみくんも知ってるでしょ」


「知ってる」


おみくんは静かに頷いた。この人は、私のそういう日を責めない。ただ気を使って優しくしてくれるあったかい人だ。


「二十九歳、無職、貯金ゼロ、うつ持ち、婚期も逃亡済み。おまけに、元カレは危ない人。……ふふ、なにこれ。人生やっぱりどん底だ」


言いながら、私はけらけら笑った。


だって、笑うしかなかった。字面だけ見たら、もう笑い話みたいだった。あんまり不幸が渋滞していると、人は逆に笑えてくるらしい。泣いても、貯金は戻ってこない。それなら、笑ったほうがまだ燃費がいい。


牛乳寒天を、もう一口食べた。


うん、おいしい。


どん底でも、牛乳寒天はちゃんとおいしい。それだけはこの世界の確かな真実だった。


---


「……のんちゃん」


おみくんの声が、少し、低くなっていた。


「なんで、笑ってるの」


「え?」


顔を上げると、おみくんがまっすぐこっちを見ていた。


いつもの、涼しい顔じゃなかった。なんて言えばいいんだろう。困っているような、どこかが痛いのを、こらえているような。そんな、見たことのない顔だった。


「今の話、笑うとこ、あった?」


「だって」


私は、へらっと、笑ってみせた。


「笑うしかないじゃん。全部ほんとのことだし。泣いたって、なんにも変わらないもん」


おみくんは、何も言わなかった。


ただ、じっと、私を見ていた。その目があんまりに優しくて。私は落ち着かなくなって、牛乳寒天に目を落とした。


---


しばらくして、おみくんがぽつりとと聞いた。


「……その人のこと、恨んでないの?」


その質問に、私は少し考えた。


恨んでるかと言われると。


「恨んでは、ないなあ」


「え」


「うん。恨んでない」


おみくんが、はっきりと、驚いた顔をした。このたいていのことには眉ひとつ動かさない人が、こんな顔をするのは珍しかった。


「全部、なくしたんでしょ。その人のせいで」


「なくした」


「今も、どん底なんでしょ」


「どん底かもしれない」


「なのに、恨んでないの?」


「うん」


自分でも、うまく説明できなかった。ただ、あの人を思い出しても、怒りみたいなものがどこからも湧いてこないのだ。


「なんか、むしろ心配なんだよね」


「心配」


「あの人、あれやめられたのかなあって。あのままだと体壊すし。ちゃんとご飯食べてるかなあ、とか。……バカでしょ、私」


言いながら、私は、真面目にそれを心配していた。今、どこで、どうしているんだろう。元気だと、いいな。そう、普通に、思ってしまう自分がいた。


---


「恨めたらね」


私は、空になった容器をテーブルに置いた。


「恨めたら、たぶん一番楽なんだよ」


その一言は、初めてでた自分の本音かもしれない。


「あいつは最低で、私は、かわいそうな被害者。そう思えたらすっきりするもん。区切りもつくし、前にも進める。友達だってそうしなよって、言う」


「うん」


「でも、できないんだよなあ、これが」


私はまた笑っていた。今度は、少しだけ、困ったみたいに。


「一回、好きになった人のこと、嫌いになれなくてさ。あんなことされても、あの人が今、不幸だったらやだなあって思っちゃう。……我ながら、めんどくさい性格だよね」


おみくんは、黙って聞いていた。


そして、ゆっくりと口を開く。


「めんどくさくないよ」


その声が、あんまり静かでおみくんのほうを見た。


「めんどくさくない。ただ、」


そこで、言葉が、途切れた。


おみくんは、何かを言いかけて、口をつぐんだ。ちょうどいい言葉が、見つからない、という顔だった。いつも、理屈っぽくすらすら喋るこの人が言葉に詰まるのを、私は、初めて見た気がした。


その、続きの言えなかった言葉が、なんだったのか。


私には、分からなかった。ただ、おみくんの目が少しだけ潤んで見えた。


泣きそうなのは、私のはずなのに。なんで、この人がそんな顔をするんだろう。私なんかまずいこと言ったかな。


---


「あのね、おみくん」


私は、とっさに言っておきたくなった。


「私さ実家にいた頃、笑えなかったんだ」


「……」


「なんにもおもしろくなくて。天井、ずーっと見てて。あ、私、もう笑い方忘れちゃったのかもって本気で思ってた」


あの半年間の、灰色の天井を、思い出す。何時間見てもシミの数は増えも減りもしなかった。


「でも、さ」


私は、おみくんの濡れた髪を見た。そして首にかけたくたびれたタオルをを見た。いつも真面目で飄々としているこの人を見つめた。


「おみくんといると、なんか、また笑えるようになってきたんだよね。最近」


言葉にすると、それは、思っていたより、ずっと、大きなことだった。


「さっきも、私、笑ってたでしょ。どん底の話しながら。あれ昔だったらできなかった。笑うなんて。……おみくんが、笑わせてくれたんだよ。気づいてないだろうけど」


おみくんは、何も言わなかった。


ただ、その手がそっと伸びてきて。


私の頭に、ぽんっと乗った。


それから、ゆっくり、ゆっくり、撫でられた。子どもにするみたいに、不器用に。


「……なに?」


「いや」


「急に、どうしたの」


「なんか、そうしたく、なったので」


理由に、なっていなかった。でも、その手はあたたかくて。私は、されるがままになっていた。


「のんちゃんが」


おみくんが、ぽつりと言った。


「ちょっとずつでも笑えるようになってきてよかった」


その一言で。


ずっと、笑い話にしてきたはずのあの半年間の何かが、胸の奥でぐらりと揺れた。


やばい、と思った。


笑ってたはずなのに。今、泣いたら、台無しじゃないか。


「……牛乳寒天、もう一個、食べていい?」


私は、慌てて話を変えた。


「三個も食べたのに?」


「心の栄養だから」


「はいはい」


おみくんは、小さく笑って冷蔵庫のほうへ歩いて行った。


その背中を見ながら、私はこっそり目のふちを拭った。


---


その夜、私は久しぶりにあの人のことを少しだけ考えた。


顔も、声も、もうだいぶ薄れていた。ただ、元気にしていてほしい、という気持ちだけがぼんやりと残っていた。


それを、未練だと思われるのは、違う。もう、戻りたいとは、これっぽっちも思わない。


ただ一度好きになった人の幸せを願わずにはいられない。本当にそれだけ。


私という人間は、多分どこかそういう風にできているのだ。


——その優しさがこの先、自分の首をどれだけ絞めることになるのか。


このときの私は、知らなかった。


戻ってきたおみくんが、私の手に四個目の牛乳寒天を握らせた。彼の分は買ってきていなかった。


——ああ、そうか。


この人は、こうやっていつも自分のことは後回しにするんだ。


その手の優しさが、あの灰色の天井を少しずつ塗り替えていく。


テレビの中では、深海魚がまだ暗い海を漂っている。


どん底の夜は、少しも寂しくなかった。


むしろ、こんな夜がずっと続けばいいと思ってしまうくらいには。


私の人生は、そろそろ上を向き始めていたのかもしれない。

新連載も始めました

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