第20話 「水出しコーヒー、貢ぎ人生」
きっかけは、本当に些細な一杯だった。
ある休日、おみくんと近所を歩いていたとき見慣れない店の前で足が止まる。看板に「EAŠY MARKET.」と書いてある。Sの上に、点が二つ乗っている難しい文字。読み方が分からなくて私はしばらく看板を見上げていた。
「イージーマーケット、かな」
「マーケットって、スーパー?」
「下にコーヒーって書いてある」
外壁は、青と白を基調とした何ともさわやかな見た目。窓の向こうに、アメリカの古い雑貨みたいなものがぎっしり並んでいるのが見えた。二人で顔を見合わせて、なんとなく扉を開けたのが今思えば失敗だったのかもしれない。
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中は、驚くほど狭かった。
カウンターが二席。二人掛けのテーブルが二つ。それだけ。
その分、密度がすごかった。青と白で統一された空間に、缶や看板やポスターが隙間なく飾られている。棚の一角にはこの店のロゴが入ったTシャツや、帽子まで並んでいた。店主の趣味なのかはたまたお店の方針なのか疑わしいところだ。
「いらっしゃいませ!そのグッズ、全部自分で作ってるんですよ」
カウンターの中から、明るい声がした。眼鏡をかけてもじゃもじゃヒゲとロングの髪が特徴的な、やたらおしゃれなお兄さんがこっちを笑顔で見ている。服の着こなしが、私の三倍くらい気合いが入っていて、自分が何だか恥ずかしく思えた。
「趣味が高じちゃって」
高じすぎだろう、と思った。いい意味で。
奥から、奥さんらしき人も笑顔で顔を出している。店の帽子をかぶって、優しそうな笑顔でこちらにぺこりと頭を下げてくれた。
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メニューの一番上に、水出しコーヒーの名前がある。視線はそれにとらわれて離れなくなった。
「あ、それ、うちの看板です」
お兄さんの声が、一段明るくなった。
「一日、六杯しか出せないんですけどね。時間かかるんで」
「六杯だけ?」
「一滴ずつ、ゆっくり落とすんで。仕込みが間に合わないんですよ」
値段は六百円。無職には少し勇気のいる値段だ。いくらおみくんに、お小遣いをもらっているとはいえ、コーヒー一杯に六百円。そうして、悩んだ末に頼むことにする。今日はおみくんの奢りだ。遠慮はいらない。
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一口飲んで、私は動きを止めた。
「……これ、何」
「水出しコーヒー」
「今まで飲んできたの、何だったんだろう」
苦味で押してくるいつものコーヒーとはまるで違った。さっぱりしていて、後味にふわっと甘いベリー系の香りが残る。爽やかで、重たくないのにちゃんとコーヒーだった。
クッキーも当たりだった。
かりっとしているのを想像していたら、しっとりしている。甘さは控えめで、口の中でほんわかとほどけるいく。アメリカのお母さんが焼いた、という説明が妙にしっくりきた。
「うまい」と、おみくんもぽつり。
「気に入ってもらえました?」
お兄さんが、待ってましたという顔で身を乗り出した。
そこから、解説が始まった。
「豆、めちゃくちゃ厳選してるんですよ。淹れ方も、水の温度から落とす速度まで、全部こだわってて。うちの自慢の一杯です」
「へえ」
「さっぱりしてるのに、後味がほんのり甘いでしょ。夏にぴったりなんですよ。本当は夏の飲み物なんですけど、通年で人気なんで一年中出してます」
コーヒーのこと。クッキーのこと。淹れ方のこだわり。話は途切れなく続いた。
そして、その全部が飲み物と食べ物の話だった。
私が何をしている人間なのかも、なぜ2人が平日木曜日の昼間にここにいるのかも、お兄さんは一度も聞かない。
——それが、なんだか、泣きそうになるくらい、楽だ。
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その日から、私の中でコーヒーへの火がふつふつと湧いた。あと一度飲んだらもう一杯と思ってしまう味を思い出しては、飲みたい消耗に駆られる。
数日後、私は一人でまた扉を開けた。
一人だと勝手が違う。二人で来たときは平気だったのに、カウンターにお兄さんがいるだけで急にそわそわした。何を話せばいいのか分からなくて、注文の声が裏返る。
「み、水出しコーヒーひとつ、ください」
「はい、ありがとうございます」
席についても落ち着かない。膝の上で手を組んだり、外したり、意味もなくおしぼりを畳み直したりしていた。
それでも、聞きたいことだけは、はっきりしていた。
一杯目を運んできてくれたお兄さんに、私は妙に真剣な顔で切り出した。
「あの、質問なんですけど」
「はい?」
「これ、いちばんおいしく飲むにはどうしたらいいですか」
自分でも、今まで聞いたこともない真面目な声が出ていた。お兄さんは、少し驚いた顔をして、それから嬉しそうに笑う。
「いい質問ですね。……いちばん最初の一杯が、断然うまいんですよ」
「最初?」
「開店してすぐのいちばん最初に落ちた分。まだ不純物が混じってないんで、味がいちばん澄んでるんです」
「あとのほうは、違うんですか」
「だんだん風味が落ちちゃうんですよね。最後のほうは。正直、半分くらいになっちゃう」
「氷で薄まるってことですか」
「いや、氷は関係ないです。抽出の問題なんで。だから、朝いちばんが勝負です」
私は、メモこそ取らなかったけれどその情報を頭に深く刻み込んだ一人でキョドっていたわりに、聞くことだけはしっかり聞いて帰る。それが私という生物の仕様だった。
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翌週から私は、朝十時の開店に合わせて通うようになった。
無職が、である。
昼まで寝ているのが当たり前だった人間が目覚ましをかけて、顔を洗って、朝の店に向かうようになった。理由は、水出しコーヒーのいちばん最初の一杯。たったそれだけ。
気づけば週に三回、通うようになっている。
そのうち、扉を開けると注文する前に声がかかるようになった。
「いらっしゃいませ。いつものですよね!」
一杯目と、クッキー。
私が席に着く頃には、もう準備が始まっている。名前も職業も知らないのに、私の注文だけは完璧に覚えられていた。
それが、どうにもくすぐったくて心地が良い。
私はこの店では「いつものを頼む人」だった。無職でも、メンヘラでもなく、ただいつものを頼む常連客。
その扱いが思っていたよりずっと嬉しかった。
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家にいると、私はろくなことを考えない。天井を見上げて、過去を掘り返して、どんどん沈んでいく。あの店にいる間だけはそれがなかった。
誰も私を評価しない。誰も私に何かを求めない。青い壁と、澄んだ一杯と、詮索してこない優しい夫婦がいる。
家の外にできた、たった一つの安全な場所だった。
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問題は、その原資だ。
毎月もらっているお小遣い。本当なら日用品や、ちょっとした楽しみに使うはずのそれが、気づけばあの青い店に吸い込まれていった。
一杯六百円。クッキーを足せば、もう少しいく。それを週三回。
月末、メモ帳の収支を見返して私は静かに天を仰いだ。
小遣いの、六割近くがあの一杯目に消えていた。
「……貢いでる」
推しに貢ぐ人の気持ちが、少しだけ理解できた気がした。私の推しは、コーヒーのいちばん最初の一滴である。人生初の推し活がコーヒーだとは思っても見なかった。
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その週末、財布の中身をおみくんに覗かれた。
「お金、大丈夫?」
「え、あ、うん」
「まだ半月なのに、随分減ってない?」
しどろもどろになった私は、結局全部白状した。
一杯目のこと。朝十時のこと。週三回のこと。小遣いの六割のこと。
おみくんはしばらく黙っていた。
それから、じとっと私を見た。
「……のんちゃんさ」
「なに」
「無職なのに、この家でいちばん贅沢な生活してない?」
「……」
「毎朝十時に、六百円のコーヒーの、いちばんいいとこだけ飲んでるんでしょ」
反論できなかった。
一円も稼いでいない人間が、朝いちばんの一杯目を、週三回いただいている。それも人の稼いだ金で。字面だけ見たら、この家でいちばん優雅なのは明らかに私だった。
「贅沢っていうか、その、心の栄養で」
「心の栄養に、月の小遣いの六割はいかないでしょ」
的確だった。何ひとつ言い返せなかった。
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「豆買って、家で淹れてみたら? そのほうが安く済むし」
その提案で私は、翌週さっそくお兄さんに相談した。
「家で淹れてみたいんですけど、難しいですか?」
「ぜんぜん! 教えますよ」
お兄さんは、嫌な顔ひとつせず器具のこと、豆のこと、落とす時間のことも、丁寧に教えてくれた。メモを取る私に「無理しない範囲でいいですからね」とまで言ってくれた。いい人すぎる。
その週末、おみくんと器具を買いに行った。ドリッパー、フィルター、ミル。おみくんが、意外と詳しく選んでくれる。
「詳しいね」
「歯科の器具も、道具にはこだわるから。原理は近いんじゃないかな」
理屈はよく分からなかったけれど、頼もしくはあった。
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そして、家で淹れてみた。
教わった通りに、慎重に、時間をかけて落とした。
一口飲んで、私は黙った。
まずくはない。むしろ、おいしいほうだ。
ただ、あの味ではなかった。
口に含んだ瞬間の澄んだ感じも、後に残る甘い香りも、どこかに行っていた。近いのに、決定的に、何かが足りない。
「どう?」
「……惜しい。惜しいけど、違う」
「まあ、そんなもんでしょ」
私はその日悟った。
家では、あの一杯目は再現できない。
天啓を受けたようなショックが頭の中を突き破った。
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翌週、私はまた朝十時にあの青い扉を開けていた。
「いらっしゃいませ。あれ、家で淹れるって言ってませんでした?」
「……やってみたんですけど、全然ここの味になりませんでした」
「あはは、ですよねえ」
お兄さんは、なぜか嬉しそうに笑っていつもの一杯を淹れてくれた。
澄んだ、あの味だ。これを求めて私は生きている。
家で淹れる決意は、器具の値段のぶんだけ無駄になった。
それでも、私はこの一杯を責められない。
だってこの一杯目のために私は、朝ちゃんと起きられるのだ。
この一年で覚えた「依存」の中で、これだけは、たぶん、いちばん健康なやつだった。




