第19話「侵食、序章」
同棲が始まって、しばらくしても私の生活は何ひとつ変わらなかった。
起床は午後二時。テレビは通販番組。洗濯物は丸める。前と違うのは、私がここの住人だと胸を張って言えるようになったことくらいだ。堂々と堕落できるようになっただけ、むしろ悪化しているとも言える。
変わったのは、おみくんのほうだった。
最初に気づいたのは冷蔵庫だった。
牛乳寒天が、ある。
「これ、買ってきたの?」
「うん。ついで」
翌日も、あった。その次の日も、あった。
「毎日ついでで買えるものなの?」
「安かったから」
「昨日も安かったの?」
「毎日安い」
そんなわけがなかった。牛乳寒天の値段は、私が誰よりも詳しい。
次に気づいたのは、洗濯物だった。
同棲する前、私が丸めた洗濯物を、おみくんはわざわざ目の前で畳み直していた。「見て、こうやるの」と、実演までしてくれた。私は見ていなかった。
それが最近、何も言わなくなった。
黙って持っていって、黙って畳んで、黙って引き出しに入れている。文句を言われないのは楽なのに、なんだか落ち着かなくて、こっそりリビングから覗いてみた。
おみくんは、真顔で私のTシャツを畳んでいた。手つきが、完全に慣れていた。
三つ目は、テレビだった。
夜、帰ってきたおみくんが、上着も脱がずに画面を見て、ぽつりと言った。
「これ、三種類あるんだよね」
「え」
「腹筋の。振動するやつと、ローラーと、あとベルトの」
私は、持っていたコップを落としかけた。
「なんで知ってるの」
「昨日、のんちゃんが寝落ちしたあと、最後まで見たから」
「なんで最後まで見るの」
「気になるでしょ、値段」
気にならない。少なくとも、去年のこの人は気にしていなかった。
四つ目は、木曜日の朝だった。
おみくんは、休みの日でも六時に起きる人だった。休診日は朝から車を洗ったり、資料を読んだり、とにかくちゃんとしていた。
その木曜日、私が目を覚ましたのは八時過ぎで、隣にはまだ人がいた。
「おみくん、寝てる」
「……起きてる」
「目、閉じてるじゃん」
「目覚まし、鳴らなかった」
私は見ていた。六時に鳴った目覚ましを、この人が手探りで止めて、そのまま布団を頭までかぶったのを、はっきり見ていた。
黙っておいた。言うと、たぶん、明日から六時に起きてしまう。
五つ目は、決定的だった。
昼間、暇つぶしにLINEを開いたら、おみくんからメッセージが来ていた。
『昼、めちゃくちゃ混んでる』
そのあとに、犬のスタンプが送られてきた。ぐったり倒れている犬だった。
私は、しばらく画面を見つめた。
この人は、スタンプを買わない人だった。最初から入っている、あの謎の白いキャラクターだけで、半年間ずっとやりくりしてきた人だった。
『スタンプ買ったの?』
『買った』
『なんで?』
『安かったから』
その日の夜、私はさすがに、本人に直接聞いてみた。
「ねえ、おみくん。最近ちょっと、おかしくない?」
「どこが」
「牛乳寒天と、洗濯物と、通販番組と、寝坊と、犬」
「並べ方が雑すぎる」
「全部おみくんのことだよ」
おみくんは、うどんをすすりながら、少し考えた。それから、いつも通りの落ち着いた声で言った。
「牛乳寒天は、切らすとのんちゃんの機嫌が悪くなるから、常に置いておくほうが合理的。洗濯物は、指摘する時間より自分で畳んだほうが早い。通販は情報として面白い。木曜はたまたま。スタンプは、文字を打つより早い」
「全部に理由があるのが逆に怖いんだけど」
「理由がないほうが怖いでしょ」
そう言って、おみくんはまた、うどんに戻った。
たぶん、この人は本当に気づいていない。自分の生活が、少しずつ、私の形に合わせて削られていっていることに。
理由をつけているうちは大丈夫だと思っているんだろう。
私は、冷蔵庫の牛乳寒天を一つ取り出して、ソファに座った。テレビでは、今日も腹筋マシンが振動していた。
隣に来たおみくんが、なんとなく画面を見て、ぽつりと言った。
「これ、この前より二千円安くなってる」
もう、手遅れだと思った。
そして、それがどうしようもなく、嬉しかった。




