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第16話 「ここは、私の居場所?」

おみくんの部屋に寄生して、そろそろ二か月が経とうとしていた。


寄生、という言い方は我ながら正確だと思う。私はここの住人じゃない。合鍵を持っているだけの、限りなく居候に近い、いや、居候ですらない何かだ。それを世間ではパラサイトと呼ぶのではないだろうか。


それでも生活のほうは、びっくりするくらいすんなり形になっていた。


私の一日はだいたいこうだ。


午前八時半、おみくんが「行ってくるね」と私を起こそうとする。私は「んー」とだけ返して、また目を閉じる。この声で本当に起きた日は、この二か月で片手で足りるくらいしかない。


午前十一時、本格的に起きる。まず、ソファに移動する。


そこから先は、ずっとスマホを見ている。


最近ハマっているのは、歌舞伎町のホストたちを追いかけているYouTubeチャンネルだった。


売上の数字とか、月間の順位とか、指名を取るための駆け引きとか。ひと晩でとんでもない金額を動かす人がいて、その裏で、朝まで反省会をしている人がいる。夜の街のいちばん濃いところをカメラが延々と映している。


私には、まったく縁のない世界だった。縁がないのに、気づくとずっと見ている。


見ていて思うのは、みんな、ものすごく働いているということだった。


順位を上げるために、嫌われないために、指名を切らさないために、必死で頭を使って体を張っている。


——それに比べて私は。


働いてすらいない。


他人が必死で稼ぐ姿を、寝転がって、何時間も眺めているだけだ。


感心している場合ではなかった。


---


おみくんは、朝九時から夜七時半まで、人の口の中を覗き続けている。それを毎日やっている。


私の起床時間は午前十一時で、おみくんが一旦帰宅してくれるのは十二時半だ。


ありがたいことに、昼休みになると、この人は一度、家に帰ってくる。


そして、何も言わずに、昼ごはんを作ってくれる。


私がホストのチャンネルを必死で見ている合間にも、冷蔵庫の中身でぱぱっと何かを作って置いていってくれる日もある。うどんだったり、チャーハンだったり、その日にあるもので。


私は、それを当たり前みたいな顔で食べていた。本当に世間では叩き出されてもおかしくない生活態度に、自分でも危機感を覚えているのは本当だ。


---


その日も私は、ソファの定位置で動画を見ていた。


ふと、指が止まった。


画面の中で、誰かが「このままじゃ終われない」と、暗い顔で言っていた。


——このままじゃ終われないのは、私のほうでは。


急に我に返った。


部屋を見回した。


私の服が、おみくんのクローゼットの端をじわじわ侵食していた。洗面台にはいつの間にか私のコーナーができていた。冷蔵庫を開ければ私のヨーグルトと、私の牛乳寒天が当然みたいな顔で入っている。


リモコンの位置は、私がソファに寝転がったまま届く場所に勝手に変わっていた。


なのに、郵便受けに入ってくるものには全部おみくんの名前しか書かれていない。


ここに、私の名前はどこにもなかった。


---


住民票も、保険証も、実家の住所のままだ。


保険証だけは、いまだに父の扶養に入れてもらっている。私という人間が実家と繋がっている糸は、もうその一本きりだった。


書類の上では、私はまだ、かろうじて、あの家の人間ということになっている。それなのに、その実家からはもうずいぶん長いこと、なんの連絡も来ていなかった。


スマホを開いて、家族のグループを見た。


会話は私がここに来て、一か月目のあたりでぱたりと止まっていた。


最後に何か送ったのは、いつだったか。スクロールして思い出した。二週間前に一度「みんな元気?」と送っている。既読はついて返事はなかった。


——もう一回、送ってみようか。


その夜はそう思った。ホストの動画の中の誰かが「このままじゃ終われない」と言っていたのが、まだ頭の隅に残っていたのかもしれない。


私は、震える指で文字を打った。


『元気にしてる? 私はこっちで元気にやってます』


嘘だった。元気ではなかった。それでも、何か言わないと、この糸まで完全に切れる気がした。


送信した。


既読は、すぐについた。


……返事は、来なかった。


十分待った。三十分待った。画面を何度も点けては消し手を繰り返した。


既読の二文字だけが、そこにあった。


——ああ、そうか。


たぶん、みんなほっとしているんだ。悪い意味で。


厄介な娘が、勝手に男の家に転がり込んで、勝手に出ていってくれた。ひとつ部屋が空いて、ひとつ心配事が減って、それで静かになって良かったねと言っている。


自分から動いたのに、何も返ってこなかった。そのことが、ただ待っているよりずっとこたえた。


被害妄想が膨らみ始めると、もう止まらなかった。


---


ついでに、通帳のアプリも開いた。


四桁の数字が出てきた。しかも、いちばん前の桁が「1」だった。このお金は、元彼がいた頃のなけなしの名残だ。


昔は、実家の母がこっそり小遣いをくれていた。それも、私がこの家に来てからぱたりと止まった。


つまり、この「1」から始まる四桁が今の私の全財産だった。


——これがなくなったら、どうしよう。


そこで、私の頭に浮かんだ考えが我ながら最低だった。なくなったら、実家に、せびりに行けばいい。


お母さん、ちょっと厳しくてと、しおらしい顔を作って。前にもそれで何度かしのいだことがある。


そんなことをごく自然に、解決策として思いついている自分がいた。


家族に捨てられたかもしれないと泣きそうになっているくせに、いざとなったらその家族に金の無心をするつもりでいる。


筋が、通っていなかった。人として、通っていなかった。最低だった。


---


丸めかけたタオルを膝に乗せたまま、私は動けなくなった。


私って、なんなんだろう。


働いていない。お金もない。ごはんも、住むところも、着るものも、全部人に出してもらっている。


それを当たり前の顔で受け取って、昼まで寝て、他人の人生に詳しくなって、一日が終わる。


このままでいいわけがなかった。


じゃあ、どうすればいいのかは何ひとつ分からなかった。もし、家族がもう私のことをどうでもいいと思っていたら。


そこまで考えたところで、涙が出た。


出たら、止まらなかった。


タオルを抱えて床に座り込んだまま、しゃくり上げるみたいに泣いた。部屋はどんどん暗くなっていくのに、電気をつける気力もなかった。


---


玄関の鍵が回ったのは、そのすぐあとだった。


「ただいま」


いつも通りの声だった。


それから、真っ暗なリビングと、床に転がっている生き物を見て、その声が、止まった。


「……うわ、びっくりした。死体かと思った」


「死体じゃない」


「死体が泣いてるのかと思って怖かった」


「酷い。私も、泣くつもりなかった」


「それはそう」


こんなときにまで正確でいなくていいのに、と思った。


おみくんは鞄を置いて、コートも脱がないまま私の前にしゃがみ込んだ。急いでいる様子はなくて、いつもの落ち着いた動きだった。


「なにかあった?」


「……ない」


「うん」


「なんにも、ないの」


言いながら、また涙が出てきて、結局全部こぼした。


自分がなんなのか分からないこと。お金がないこと。働いていないこと。全部おみくんに出してもらって生きていること。保険証だけ、まだ父に頼っていること。


「……さっき、家族にLINEした」


「うん」


「元気にしてますって。嘘なのに」


「うん」


「既読がついても返事、来なかった」


もう捨てられたのかもしれないこと。自分から動いたのに何も返ってこなかったこと。


いざとなったら、その実家に金をせびりに行こうとしている自分のことは、言えなかった。言おうと思ったけど、まだこの人に嫌われたくはなかった。


「……私、ここにいていい人じゃないと思う」


言ってから、怖くなった。


そうだね、と言われたらどうしようと思った。


「いていいよ」


「即答すぎない?」


「考える必要ある?」


「ある。すごくある」


「じゃあ、考えたことにして。いていいよ。ずっと」


そんなに軽く言っていい言葉じゃない、と思った。思ったのに、うまく声にならなかった。


「家族が何考えてるかは、俺には分からない。捨てたとは思わないけど」


「……うん」


「でも、俺は、面倒見るって言ったから」


「いつ」


「のんちゃんの家族に会った日。ちゃんと言ったよ。カード見せて、挨拶して、そのときに。のんちゃん、あのとき顔が完全に死んでたから聞いてなかったでしょ」


「聞いてなかった」


「だと思った」


そういえば、あの日の私は、正座したまま、魂だけを何処かに放り出していた気がする。


---


「……重くない? 私」


「体重の話?」


「そういうことじゃない」


「軽いよ。うちの観葉植物より手がかからない」


「観葉植物、枯らしてたじゃん」


「あれは向こうに問題があった」


なんの解決にもなっていないのに、ちょっとだけ息がしやすくなった。その夜のごはんは、おみくんが作ったうどんだった。具はネギと卵しかなかった。


一口すすって、私はぽつりと言った。


「……おみくん」


「なに」


「ありがとう」


自分でも驚くくらい素直に出た。


ごはんのことだけじゃなかった。昼に帰ってきて作ってくれることも、いていいと言ってくれたことも、全部ひっくるめてのありがとうだった。


おみくんは一瞬、箸を止めた。


それから目を逸らした。


「……どういたしまして」


なんてことのない返事だった。


なのに、その耳がほんの少しだけ赤かった。


あとから知ることだけれど。


この人が、あんなにも私の世話を焼くようになったのは、この夜の「ありがとう」がきっかけだった。このドライな人は、感謝されることに驚くほど弱かった。


私がひとつ礼を言うたびに、おみくんはまたひとつ、余計な世話を焼くようになる。


その連鎖のいちばん最初の一言を、私はこの夜、無意識に言ってしまったのだった。


---


不安が消えたわけじゃない。


私が何者でもないことも、通帳のいちばん前が「1」なことも、いざとなったら実家を当てにしている最低さも、何ひとつ変わっていない。


それでも、ここにいていいと言ってもらえたことだけが、その日の私をかろうじて立たせていた。


---


スマホが鳴ったのは、その二日後の夜だった。画面に出ていたのは、実家の番号だった。

捨てられたと思っていた相手から、二か月ぶりの、着信。


それが、良い知らせなのか、悪い知らせなのか。

私には、まったく見当がつかなかった。

ただ、指だけが勝手に震えていた。


私は、反射で正座した。

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