第15話「世間ではこれを愛という」
〜スマイル歯科医院〜
休憩室でお弁当を広げながら、私は同僚の田村さんに、ずっと気になっていたことを切り出した。
「ねえ、高橋先生、最近なんか雰囲気変わったと思わない?」
「あー、分かる。私も思ってた」
割り箸を割る手を止めて、田村さんが身を乗り出してくる。
「前は、もっと無表情の見本みたいな人だったじゃないですか」
「うん。患者さんに『先生、笑わないですよね』って言われてるの、何回も見た」
「それが最近、たまに笑ってるんですよ。診療中に」
「事件じゃないですか、それ」
先週、泣きじゃくる子どもの治療が終わったあと、「よく我慢したね」と言って、先生が確かに笑った。あの瞬間、ユニットの脇にいた全員がそれぞれの手を止めていたと思う。
アンケートの自由記述欄も、以前は「説明が分かりやすい」といった事務的な言葉ばかりだったのが、最近は「優しい」「安心する」に変わってきた。誰も直接的な理由には触れなかったけれど、全員がなんとなく同じ結論に辿り着いていた。
——彼女が、できたんだろうな。
うちの医院は、昼休みが十二時から十四時まで丸二時間ある。これまで先生は院内で過ごす人だった。コンビニのサンドイッチを片手に、カルテを開いたまま。
それが最近、十二時になった瞬間に白衣を脱ぐ。しかも徒歩で、駅とは反対方向。飲食店が並んでいる通りとも違う、自宅があるであろう方向へ迷いなく歩いていく。
「自宅、そんなに遠くないんじゃないですか。徒歩十五分とか」
「それ、往復で三十分ですよ。残り一時間半のために帰ってるってことじゃないですか」
「……愛じゃない?」
休憩室が笑いに包まれた。その日から「先生の昼休み帰宅」は、うちの医院の密かな観測対象になっていった。
戻ってくるのは決まって十三時五十分。たまにシャツの袖口が少しだけ濡れている日がある。
「洗い物でもしてるんですかね」
「愛でしょ」
「なんでも愛にするのやめてください」
そう言いながら、私も内心では同じことを思っていた。なんか、いいですよね。先生が幸せそうで。誰かは知らないけど、その人にはちょっと感謝したいかも、とまで。
もちろん、その「誰か」の正体を、私たちはまだ誰も知らなかった。
――――――――――
その頃、噂の発端になっている当の自宅ではおよそ「愛」とは呼びがたい光景が繰り広げられていた。
チャイムは鳴らない。合鍵で静かにドアが開く音がして、革靴が揃えられる音がして、それからおみくんはリビングに現れる。ソファに沈み込んでいる私を見つけるなり、開口一番、こう言った。
「……また、風呂入ってない」
「なんで分かるの」
「見れば分かる。あと、匂いで」
「言い方」
「今日で、三日目」
律儀にカウントされていたことに、ぎくりとした。まだ正式に同棲しているわけでもないのに、合鍵一つで寄生生活が板についてきた反動なのか風呂への意欲がじわじわ減退していた。
「昼休み、これのためにわざわざ帰ってきてるの?」
「今日はそう。他の日は、単純に会いたいだけ」
さらっと言われた「会いたいだけ」の一言に、動揺が罪悪感を一瞬で上書きした。え、なにそれ可愛い。
「今日は二つ用事がある。会うのと、風呂に入らせるの」
「用事の順番、ロマンチックさが皆無なんだけど」
「効率を優先してるだけ」
腕を引かれて浴室へ連行された。抵抗らしい抵抗もできないまま、脱衣所に押し込まれる。とはいえ、三日分の気力の抜け具合は自分でも想像以上で、シャワーの前で私はしばらく突っ立っていた。
動きの遅さは、扉の向こうから完璧に見抜かれていた。ガラッと、音を立てて扉が開く。
「え、ちょっと、入ってこないでよ!」
「無理。埒が明かない」
いつもの、歯医者の先生然とした落ち着いた喋り方から一転して、素の苛立ちが漏れた。
「三日も風呂サボって、今度は洗い方まで手抜きって、いい加減にしろ」
心臓が縮み上がった。とりあえず謝るしかない。
「ごめんなさい」
「ごめんなさい!」
「ごめんなさいー!」
語尾を伸ばす可愛げ作戦は、「語尾伸ばしても許さない」と、秒で見抜かれた。
四度目の「ごめんなさい」で、ようやく本物の涙が滲んだ。
「……え、なんで急に本気で泣くんだよ」
「だって、なんか、怒られてるうちに情けなくなってきて」
そう返すと、おみくんは少し気まずそうに、視線を逸らした。
「……悪かった。ちょっと、言い方きつかった」
「急に素直じゃん」
「泣かれると、さすがに、まずいと思ったので」
シャワーの音だけが、しばらく浴室に響いていた。
「本当は、そんなに怒ってたわけじゃない。怒ってたっていうか、心配してた」
「風呂も入らなくなるくらい体調が悪いのかとか、何かあったのかと思ってた。それが、実際はただの面倒くさがりだっただけだって分かって、なんだ、そんなことかって、拍子抜けした。だから、余計に、腹が立った」
言葉の割に、手つきはどんどん優しくなっていく。結局私は、丁寧な丸洗いフルコースを、そのまま受けることになった。
爪を立てずに指の腹で地肌を洗う。耳の後ろ、うなじ、力加減が最初から最後まで一定で、シャンプーは二回。目に入らないように片方の手がずっと額に添えられている。
「これ、絶対経験値高くない?」
「歯を削ったり詰めたりする仕事なので、細かい手先の作業には慣れてる」
「そういうことじゃなくて」
「今日だけの特別サービスだから」
「特別サービスの割に手際良すぎるんだけど」
「効率よくやっただけ」
湯気の中で、まさか恋人に丸洗いされる日が来るとは、私の人生、想像もしていなかった。
洗い終わると、おみくんは濡れた袖をまくり直して、壁の時計を見た。
「あと、二十分ある」
「間に合うのそれ」
「走る」
診療所の休憩室で盛り上がっているという「愛」の噂の正体が、実際には風呂キャンの取り締まりから、まさかの丸洗いにまで発展していたなんて。誰にも言えない秘密だった。
――――――――――
数日後の、スマイル歯科医院の休憩室。
「先生、シャンプー変えました?」
受付の子が、真顔でそう言った。
「なんか最近、たまに甘い匂いするんですよ。先生から」
「先生、そういうの使う人じゃないですよね」
「……愛じゃない?」
休憩室が、また笑いに包まれた。今度は、誰も否定しなかった。




