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第14話「今日も一匹、腐った魚が来たらしい」

寄生虫になってから、一つ気づいたことがある。


おみくんには、たまに機嫌が悪くなる瞬間がある。

ほんとに極たまにのことだ。いつも通り、感情の起伏が薄い人だから最初は気づかなかった。それでも、一緒に暮らしてみると分かるようになってしまった。彼の中の何かに触れると、露骨に声のトーンが低くなる瞬間があるのだ。


そして、その機嫌の悪さには必ず前兆があった。

診療時間中のはずなのになぜか謎めいたLINEが届く。


「浜に打ち上げられた3日目の魚みたいな口臭のやつきた」


初めてこのメッセージを受け取った時、私は本気で送り主を疑った。あの患者さんのプライバシーとか、職業倫理とか、そういうものに人一倍厳しそうな人が、こんな治療中の愚痴を、しかも診療時間中に送ってくるなんて。


「え?どうしたの。仕事中じゃないの?」


心配して返すと、既読はすぐについたけれど返信は来なかった。返信する余裕すらないほど深刻な事態だったんだと後から知った。

二回目は、それから二週間ほど経った頃だった。


「生ガキが腐った匂いのやつが来た」


今度は、比喩の解像度が前回より上がっていた。魚から、生ガキへ。腐敗のバリエーションが明らかに広がっている。この人の中で、口臭の分類学が着実に発展しているらしかった。これが職業病というやつなのか。


いずれにせよ、こういうメッセージが届いた日は、決まって帰宅後のおみくんが一際おかしくなっていた。

最初にそれを実感したのは、「浜に打ち上げられた3日目の魚」の日の夜だった。


いつも通り、リビングでくつろいでいるところにおみくんが帰ってきた。「おかえり」と声をかけても、返事がなんだか上の空。

ソファに座るなり天井をぼんやり見つめて、虚ろな目でこう呟いた。


「……人間の嗅覚って、なんで進化の過程で退化したんだろう」


「え、いきなり何の話」


「犬とか、もっと嗅覚鋭いのに。人間だけなんでこんなに鈍いの」


「鈍いから助かってることもあると思うよ?」


「いや、逆にもっと鋭かったら事前に避けられたかもしれない」


何を避けたかったのかは、聞かなくても大体想像がつく。

その日は、結局夕食の間ずっと「魚の腐敗速度と気温の関係」について、静かに一人で考察していた。せっかくの手料理も、心なしか浜に打ち上がった三日目の魚の味になるんじゃないかと心配した。


二回目、「生ガキ」の日はもっと様子がおかしかった。


帰宅後、おみくんは無言でシャワーを浴びに直行した。いつもより、明らかに長い時間浴室から出てこなかった。出てきた後も、死にかけた目で鼻のあたりを何度も指で押さえていた。


「え?また?大丈夫?」


「記憶に残ってるだけで実際には何もついてない」


「ついてないよ?」


「理解しているけど気になる」


その夜、ベッドに入ってからもなかなか寝付けない様子だった。隣で何度も寝返りを打っている。挙句、なんだかうなされてるような気配さえする。


「……眠れないの?」


「目を閉じると匂いを思い出す」


「トラウマみたいになってるじゃん」


「トラウマだと思う」


あっさり認めるあたりが逆に深刻さを物語っていた。普段、私がどれだけ発狂してメンヘラを発動させようが動じないおみくんが、匂いの記憶にだけは完全に白旗を上げていた。

極めつけはつい先日のことだった。

夕食の席でおみくんが唐突に箸を止めて真剣な顔で、こう切り出した。


「……スイカの種って、果肉がなくても育つよな」


「え? また何ですか。急に。」


「果肉って、種を守るためのいわば緩衝材みたいなものだと思うんだけど。それなのに、剥き出しの種を土に埋めても普通に発芽する。あれ、自然の摂理としておかしくないか」


「わからんが。」


「おかしいだろ。果肉に意味がなくなる」


真剣な顔で、スイカの生態について延々と語り始めるおみくん。あまりにも血走った目をして本気の顔をしているものだから最初は、何かのクイズ番組でも見たのかと思った。

でも、話を聞いているうちになんとなく気づいた。


——これ、絶対、今日も口臭患者が来たな。


案の定、少し探りを入れてみるとその日の午後、想像を絶する口臭の患者が来院したことを渋々白状した。今回は、比喩すら思いつかないほどの攻撃力だったらしく、代わりに脳が現実逃避先としてスイカの生態研究に逃げ込んでいたようだ。


これまで、鬼電にも、深夜の尋問にも、私の暴走のすべてに顔色一つ変えずに対応してきたあのメンタル最強のおみくんが。

たかが口臭一つで、こんなにも脆く、こんなにも分かりやすく、崩れていく様はなんだか滑稽だった。

なんだかそれが無性におかしくて、同時に少しだけ、可愛くも思えてしまった。


「今度から、口臭のきつい患者さん来たら教えて。全力で慰めるから」


「慰め方がわからなくても?」


「スイカの種の話でも聞くよ」


「それは、慰めじゃなくてただの傾聴」


文句を言いながらも、その口調は、いつもよりほんの少しだけ和らいでいた。

こうして、我が家では「魚」と「生ガキ」と「スイカの種」がしばらくの間密かな流行語になった。おみくんの唯一の弱点を、これからも大事に見守っていこうと思う。

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