第13話「合鍵と、寄生虫化計画」
翌朝、帰り際の玄関で、おみくんが何の前触れもなく一本の鍵を差し出してきた。その時私は頭の中をコンマ1秒でフル回転させていた。
「これ、合鍵。作っておいた」
予想できていたが、あまりにもさらっと渡されたものだから一瞬、意味を理解するのに時間がかかった。あんなにさっきは頭が動いていたというのに。
「…… 私に?合鍵?本気?」
「本気。好きな時に来ていいから」
脳内で盛大に花火が打ち上がった。合鍵。恋人に合鍵をもらう。ドラマや漫画でしか見たことのないロマンチック全開なイベントが、今、自分の手の中で起きている。
「本気でもらっていいの?」
「なにそれ、もらってほしいから渡してる」
呆れ半分、嬉しさ半分のその一言で、テンションは、完全に振り切れた。半年前まで無職で引きこもりだった女に、まさかこんな未来が待っているとは。人生捨てるにはまだ早い。
その日家に帰ってから、私は鍵を穴が空きそうな勢いで見つめ続けていた。金属の冷たさがなぜか手のひらにいつまでも残っている気がした。何度も意味もなく手のひらのなかで転がしてみる。カチッカチッという音が全てやけに心地よかった。
それから私の生活は静かに、しかし確実に、悪い方向に変わっていった。
最初の一週間は、まだ節度があった。連絡してから何かと理由をつけて訪ねる、程度の常識は持ち合わせていた。
二週間目あたりから、雲行きが怪しかった。「近くまで来たから」を口実に、連絡なしで押しかけること5回。おみくんが仕事中でも、合鍵で勝手に部屋に入り、ソファでくつろぎながら帰りを待つ、というのが日課になっていった。
三週間目には、その「待ち方」自体が、変質し始めていた。
ソファに座って、大人しく待つだけでは物足りなくなっていた。おみくんが仕事から帰ってくるまでの数時間、暇を持て余したストーカー気質の私は、部屋の中を一人で歩き回るようになった。
棚に並んでいる本を、一冊一冊、手に取って眺めた。ページの折れ具合、書き込みの有無。意味の分からない医学書。どこまで読んだのか、何が好きなのか、勝手に分析しては、ニヤリと笑って、頭の中のノートに記録していった。
冷蔵庫の中身も、日を追うごとに、細かくチェックするようになった。何を食べているか、体調を管理しているか、増えているものと減っているものを、逐一把握する。おみくんが何でできているのかを知れるのが嬉しい。誰にも頼まれていない、完全なる自主業務だった。
極めつけは、クローゼットの奥を漁ったときに見つけた古い写真アルバムだった。
躊躇は一秒もしていない。開いた瞬間から、指が止まらなくなった。子供の頃の写真、学生時代の写真。知らない女性と一緒に写っている写真を見つけた時には、心の奥底がゾクッと波打ったのを覚えている。それでも、ページをめくる手は止まらなかった。まるで、恋人の歴史を丸ごと自分のものにしたいという、抑えきれない歪な欲求に、体が乗っ取られているみたいだった。
スマホで、こっそり何枚も写真を撮った。「記録用」という、あまりにも不快で気味の悪い理由を正当化して。
その日の夜、帰ってきたおみくんに何でもない顔をして写真の中の女性について聞いてみた。
「あの写真、誰?」
「どの写真」
「アルバムの中の。学生時代の」
言った瞬間、おみくんの目が、わずかに細くなって呆れたような目線に変わった。その些細な変化すら見逃さない。
「……勝手に見た?」
「え、あ、うん」
どもって答えた次の瞬間には、頭の中で、何かがブツッと切れる音がした。同時に、脳内で緊急ニュース速報のテロップが流れた。「元カノ疑惑浮上」。速報にしては、我ながらチープな見出しだった。そして開き直った。
「見たけど、それより先に聞きたいことがある。あの写真に写ってた女の人、誰?」
「覚えてない」
「嘘つかないでよ! アルバムに入れてるってことは、それなりの人だったってことじゃん!」
自分でも、声のボリュームとともにいかりのボルテージが急激に上がっていくのが分かった。近所迷惑レベル二段階目、くらいの音量だった。
「入れてるっていうか、多分、捨て忘れてるだけ、で…」
「捨て忘れてる!? あんな綺麗に笑ってる写真を、捨て忘れてるだけ!? しかもあの距離感、絶対ただの友達とかじゃないよね!?」
スマホに保存した証拠写真を、震える手で開き直して、仏モードに入っているおみくんの目の前に突きつけた。怒りに震えた手ブレのせいで、証拠写真としてあまり迫力のない仕上がりになっていたのが我ながら情けなかった。
「これ! この写真! 肩、寄せ合ってるよね!? これで元カノじゃないとか言うつもり!?」
「元カノだなんて誰も言ってないよ」
「言ってないだけで否定もしてないじゃん! ねえ、これ誰なの! 名前は! いつ撮ったの! 私と会ってからも連絡取ってたりしないよね!?」
畳み掛けるように質問が止まらなくなった。もはや圧迫面接というより、尋問だった。尋問官は私、被告人はおみくん、尋問項目は「元カノ疑惑の真偽」。誰も得しない、無益で理不尽な尋問が開催されていた。
「連絡もとってない」
「本当に? 今すぐスマホ見せて! 連絡先消してないと信じられない!」
「見せてもいいけど、多分、それで納得しないと思うけど」
「納得するかしないかは私が決める! 早く!」
半ば強引に、スマホを奪い取るようにして、連絡先一覧の女の名前らしいものを全て漁った。見知らぬ名前一つ一つに、過剰に反応しては「これ誰? これは?」と片っ端から問い詰めた。途中、「田中歯科医療機器」という明らかに業者としか思えない名前にまで「これ女?」と真顔で聞いてしまい、自分のバーサーカーぶりに、少しだけ我に返った。
それでも、一度動き出したおみくんへの感情の暴走は、簡単には止まらないのだ。
「なんで、こんなに動揺してるの」
おみくんが、淡々と冷静にそう聞いてきた。声のトーンはいつも通りだったけれど、その静けさが逆にこちらの興奮に拍車をかけた。
「動揺もするよ! おみくんの過去、私、何も知らないんだから! 知らない女の人と、こんな距離感で笑ってる写真見たら、誰だって——」
言いかけて、言葉が喉の奥で詰まった。
涙が、勝手に溢れてきた。悔しいのか、悲しいのか、それとも、業者の連絡先を女疑いした自分の間抜けさに泣きたいのか、もう自分でもよく分からなくなっていた。そしたら急激に頭の警報は鳴り止んで自分のしたことの最低さに自己嫌悪が始まる。
「……ごめん」
おみくんは、しばらく黙って、こちらを見ていた。それから、静かに、スマホを受け取り自分のポケットにしまった。
「満足した?」
あまりにもあっさりとした返答に逆に虚しくなった。おみくんの一言で解決される修羅場、なんだか私の三十分間の熱演が急に安っぽく感じられて穴があったら入りたくなった。
「……した」
「ほかに何かまだ納得してないことある?」
「あれが誰なのか、ちゃんと知りたかっただけ」
おみくんは、少し考えるように黙った。
「大学の時の、サークルの後輩。付き合ってもない」
「本当に?」
「本当に。写真、多分、サークル旅行の時のやつ」
三十分かけて築き上げた修羅場が、たった二文字の説明であっけなく瓦解した瞬間だった。「サークルの後輩」、この六文字を先に言ってくれていれば、業者の連絡先を疑うこともなかったのに。
「最初から何で言ってくれないの」
「のんちゃんが勝手に暴走してたから落ち着くまで待つしかなかっただけ」
正論だった。ぐうの音も出なかった。
嵐みたいに始まった修羅場が、静かに終息していく。取り残された私は、涙の跡が残った顔で、ただ盛大な自爆の後始末をしていた。
「……ごめん。取り乱しすぎた」
「知ってる」
いつもの一言。それでも、今回ばかりは、その一言だけでは収まりがつかない。
「アルバム、勝手に見たことも、ごめん。あと、田中歯科医療機器さんを女だと思ってごめん」
「業者さんまで疑ったときは、笑うのを我慢するのが大変だった。」
おみくんが、初めて、その時に笑った。
「なんで笑うの!」
「笑うなって言われると、余計に笑える」
「やめてよ!」
突っ込んだ瞬間、なぜか、二人とも同時に噴き出してしまった。三十分前まで本気で泣いていたはずなのに、業者を巡る茶番のおかげで、空気が一気に緩んだ。
「アルバム、見てもいいけど変な誤解しないで」
次があること前提の言い方に、少し反省した。散々暴れて、業者まで巻き込んで、それでも次の機会は、しっかり確保されている。この人の器の広さに、いつも助けられている自覚があった。
合鍵をもらってから一ヶ月が過ぎた頃には、私の私物が着々と部屋を汚染し始めていた。歯ブラシから始まり、パジャマ、化粧品、常備薬。気づけば、洗面台の棚の半分が、私のもので埋まっていた。
冷蔵庫にも、勝手に自分の好きな食材を補充するようになった。「勝手に増やしていい?」と聞くと、「いいけど、お金大丈夫なの」という、地味に的確なツッコミが返ってきた。
ある日、おみくんが仕事に出ている間、私はクローゼットの中をまた覗いていた。今度は、写真ではなく、シャツの畳み方、コートの並べ方、ネクタイの色の傾向を、隅々まで観察していた。誰に頼まれたわけでもない、完全に自発的な行動だった。なぜか好きな人のことになると理性が保てないのは何故なんだろうと思いながら、配置を携帯にメモした。
それだけでは飽き足らず、部屋にいない間の彼の行動パターンを、勝手に推測し始めた。診療所の休憩時間、帰宅ルート、寄り道しそうなコンビニの位置。近所を歩き回って得た情報をもとに自分の中で組み立てた仮説を、こっそりノートに書き溜めていった。まるで恋人というより、ストーカーの所業だった。
極めつけは、ある日おみくんの枕に顔を埋めて彼の匂いを堪能して、しばらく動けなくなっているところを早めに帰ってきた本人に目撃されたことだった。
「……何してるの」
「え、あの、枕の高さ、確認してました」
「顔埋めて確認するもの?」
「実践的な確認方法なので」
無理のある言い訳だった。それでも、この頃にはこういうやり取りにもお互いすっかり慣れてしまっていた。
完全に、私は臣くんの家に寄生していた。合鍵一つで、私はこの部屋の「同居人未満、居候以上」の何かに急速に変貌している。
そんな私を見かねてか、ある夜、おみくんが夕食の後改まった様子でこう切り出した。
「ちょっと、話しときたいことがあるんだけど」
「なんでしょう」
「最近、生活おかしくない?」
核心を突かれて、思わず言葉に詰まった。
「おかしくは、ないと思うよ?」
「クローゼット漁ったり、枕に顔埋めたり、行動パターン推測してノートに書いたり。それ、多分、普通の生活とは、ちょっと違う」
思っていたより、しっかり把握されていた。誰かここに穴を掘ってくれ今すぐにだ。
「でも、それって、なんていうか、愛情の裏返しというか、その責められるようなことじゃ…」
「責めてない。ただ、心配してる」
その一言に、身構えていた気持ちが、少し緩んだ。
「無職で、実家からも離れて、俺以外の繋がりが、今、ほとんどない状態でしょ。それで、一日中、俺のことばかり考える時間ができてる。それが今の行動に繋がってる」
あまりにも的確な分析だった。反論の余地が、見当たらない。
「だから、少しずつでいいから、生活のリズム整えてみない? 決まった時間に起きるとか、簡単な家事を日課にするとか。俺以外にも目を向ける時間を作った方がいいと思う」
説教というより、提案に近い言い方だった。頭ごなしに否定するのではなく、ちゃんと理由を説明した上で、優しく、こちらの意志を尊重するような言い回し。彼の得意分野だった。
「……分かった。ちょっとだけ頑張ってみる」
「いいよ。ちょっとずつ頑張ってみて」
翌朝、私はめずらしく目覚ましで起きた。
いつもなら二度寝する時間だ。それを我慢して、顔を洗って、床にたまっていた埃を掃除機で吸った。全部で十五分もかからなかった。
たった十五分。誰にも褒められない、ちっぽけな掃除。それでも終わったあと背筋が伸びた気がした。
——私、今日、ちゃんと自分で動いた。
そんな当たり前のことが、この頃の私には小さな勲章みたいに思えた。昼に帰ってきたおみくんが床を見て一瞬見間違えたのか床を二度見して止まった。
「掃除した?」
「した」
「何それ、えらい」
驚いたようにいうおみくんの一言で、その日一日私の機嫌が良かった。
……もっとも、この習慣が続いたのは、三日だけだったのだけれど。
そんな私だけど、あのときの「えらい」の二文字は、しばらく頭の片隅に残り続けた。
夜、一人でベッドに横たわりながら冷静になる瞬間があった。
——私、多分、結構というかだいぶ、気持ち悪い。
クローゼットを漁って、写真を撮って、行動パターンを推測して、枕に顔を埋める。どれか一つだけでも、十分に引かれる要素だった。それを、全部同時にやった。
自覚はあった。あった上で、直そうとしない。
むしろ、その執着深さの底に確かな安心感が眠っていることに、私はうっすらと気がついていた。誰かをこんなに知りたいと思えること。誰かの生活の一部に、自分の存在をねじ込んでいけること。それは依存とか、独占欲とか、あまり褒められない感情ではないけれど、今の私にとっては生きている実感そのものだった。
どん底で、何もかもを失った時期があった。あの頃の空っぽな自分から見れば、今のこの歪んだ形の執着すら愛おしかった。
気持ち悪くていい。これが、今の私の精一杯の愛し方だった。
大幅修整しました




