第12話「初めての部屋」
付き合って四ヶ月が過ぎた頃、私は初めておみくんの部屋に招かれるというイベントが起こった。
「今日、うち来る?」
仕事終わり、いつもの淡々とした一文で誘われた。ロマンチックなお誘いの欠片もない、まるで「今日、ラーメン食べる?」くらいの温度感。それでも、心臓は普通に跳ねた。
部屋着とかどうしようとか、化粧はどこまで落としていいのかとか、下着は勝負用にすべきかとか、頭の中は出発前からすでに大混乱だった。家族には相当、怪訝な目を向けられていたことは見て見ぬふりをした。
実際にドアを開けて、私はちょっと拍子抜けした。
——意外と、普通。
もっとモデルルームみたいな、無機質な空間を想像していた。でもそこにあったのは案外生活の匂いのする部屋だった。ソファには、脱ぎっぱなしのカーディガンが引っかかっている。テーブルの端には読みかけらしき文庫本がページを開いたまま伏せて置かれていた。
その生活感に緊張がほぐれた。完璧すぎる人だと思っていたけれど、こういう隙間があると分かってちゃんと人間なんだとほっとした。
おみくんがキッチンで洗い物をしている隙に、私は密かにスマホのカメラを構えていた。真剣な横顔、袖をまくった腕、洗剤のボトルを持つ手元。「初めて来た記念に」と、自分の中で正当化していたけれど、どう見ても記念という範疇を超えた枚数だった。同じ角度から、五枚も六枚も、微妙に違う表情を撮り続けていた。奇行である。
調子に乗って、脱衣所に干してあった洗濯物にまで、こっそり近づいた。カーディガンに顔を寄せて、そっと匂いを嗅ぐ。柔軟剤の匂いなのか、本人の匂いなのか、判別はつかなかったけれど、なんとなく心が満たされていくのを感じて満足した。
「……何してるの」
背後から、静かな声がした。
振り返ると洗い物を終えたおみくんがタオルで手を拭きながら、こちらを不思議そうにじっと見ていた。逃げ場は、どこにもなかった。
「え、あの、これは、その、えっと」
しどろもどろになりながら、必死にまわらない頭をフル回転させた。
「シワ、伸ばそうと思って!」
我ながら、無茶すぎる言い訳だった。カーディガンに顔を近づけてシワを伸ばす人間なんて、この世に存在しない。
「シワって、顔で伸ばすものだっけ」
冷静な指摘に、心がキリリと痛む。返す言葉がなかった。
「……匂い、嗅がせていただいてました」
観念して、正直に白状した。恥ずかしさで、耳まで熱くなっているのが、自分でも分かっていた。
おみくんは、少しの間、こちらをまじまじと見つめたあと、静かにでもはっきりと笑った。普段、表情の変化が薄い人が、珍しく声を出して笑っていた。
「それ、シワ伸ばすより変」
「笑わないでよ!」
「笑うでしょ、これは」
いつになく楽しそうに笑うその顔を見てしまったら、こっちの恥ずかしさも、なんだか半分くらいどうでもよくなってきた。むしろ、このレアな笑顔を見られただけで、匂いを嗅いだ甲斐があった気さえした。
「寒くない?」
脱衣所から連れ出されて、部屋に入ってすぐ、そう聞かれた。エアコンの設定温度を確認して、微調整するおみくんの手つきは、やけに手慣れていた。
「大丈夫だけど」
「薄着だから、心配で」
言われてみれば、確かに薄着だった。季節的におかしい格好をしていたかもしれない。自分では気にもしていなかったことをちゃんと見てくれている。それだけでなんだか妙にくすぐったい。
夕食は、おみくんが作ってくれた。
キッチンに立つ後ろ姿を、少し離れたところから見ていた。包丁さばきが妙に手際が良かった。切った野菜の大きさが全部きっちり均一だった。
部屋には生活感がある癖にこういうところは几帳面さが出る。
その横顔を見ているうちに、なんだか無性に、もっと近くにいたくなった。気づけば真後ろからそっと手元を覗き込んでいた。
「近いけど」
肩越しに、短くそう言われた。振り向きもしないくせに、耳が、ほんの少し赤くなっている気がした。照れているおみくんが可愛かった。
「見てるだけだもん」
「見てるだけにしては、近すぎる」
そう言われても、離れる気にはなれなかった。むしろ少しだけ、こちらに体を傾けてきたような気さえした。気のせいかもしれない。それでも、そうだったらいいな、と思いながらしばらくその最高の場所を動かなかった。
出てきたのは、彩りのバランスまで整った、男の人にが作ったにしては繊細な料理だった。一口食べて、思わず「美味しい」と口にすると、おみくんはほんの少しだけ口角を上げた。
「のんちゃんに美味しいって言われるの悪くないね」
その一言に顔が一気に熱くなった。悪くない、なんて微妙な言い方なのに、その裏にある照れがなぜか手に取るように分かってしまう。慌てて視線を逸らし、味噌汁のお椀に、意味もなく口をつけた。熱い。
食べているうちに、気づけば、こちらの皿にだけ骨を取った魚の身が綺麗に取り分けられていた。
「これは?……」
「骨、苦手でしょ」
いつ、そんなことを話しただろう。よく覚えていないけれど雑談のどこかで、ぽろっと零したんだろう。それをちゃんと覚えていて、さりげなく骨を取ってくれている。特別なことは何も言わずに、当たり前みたいな顔で。
その何気ない世話の焼き方に、胸の奥が、また暖かくなっていくのを感じる。
食事の後、ソファに並んで座って、テレビを見た。特に何を話すでもなく、沈黙してただ隣に座っているだけの時間。
勇気を出して、そっと肩に頭を預けてみた。断られたらどうしよう、と一瞬震えかけたけど、おみくんは特に嫌がる様子もなく、そのままの体勢を受け入れてくれた。
「重くない?」
小さな声で聞くと、
「大丈夫」
という、素っ気ない一言が返ってきた。それでも、その声のトーンは、いつもより、優しかった気がした。
「本当に? 遠慮しないで言って」
「遠慮とかじゃなく、普通に、このままでいい」
その一言に、心臓がぎゅっとなった。顔が見えない体勢でよかった、と本気で思った。さっきから私の顔面は赤くなりっぱなしだろうから。
おみくんの手が、こちらの髪をそっと撫でた。無言のままその手つきだけがやけに優しかった。いつもの身も蓋もない台詞回しからは想像もつかない、静かなでも優しい、触れ方だった。
「……なんか、今日妙に優しくない?」
声が、少し震えた。
「いつも優しいけど」
「いつもはもうちょっとドライ」
「今日は特別」
その理屈どうなんだろう、と思いながらもなんだか妙に納得してしまった。この人の愛情表現は、きっと言葉より先に、こういう静かな仕草の方に正直に出るタイプなんだと思う。
髪を撫でる手が、そのまま、頬に移った。指先が、そっと輪郭をなぞる。くすぐったさと、それ以上の何かで、体温がどんどん上がっていくのが自分でも分かった。
「……顔、赤い」
からかうような口調で、そう指摘された。
「言わないで」
「言わないでって言われると、余計に言いたくなる」
珍しく、意地悪な言い方だった。それでも、その口元が微かに緩んでいるのを見てしまったら、怒る気にもなれなかった。
夜も更けてそろそろ帰ろう、と思っていた矢先。
「今日、泊まっていく?」
あまりにもさらっと、聞かれた。
心臓がこれ以上ないくらい大きな音を立てた。「泊まる」という単語の重みを、頭の中で必死に処理しようとする。それでも、口から出たのは、精一杯の強がった平静を装った一言だった。
「……いいけど」
声が、盛大に裏返った。平静なんて、どこにも装えていなかった。自分のポンコツ具合に呆れた。
「じゃあ、これ使って」
差し出されたのは、まだ開封していない、新品の歯ブラシだった。歯医者だからか、歯ブラシだけは用意周到である。
「……これ、もしかして、最初から泊まる前提で用意してたやつ?」
「そう」
「準備良すぎない?」
「無駄がない方がいいので」
ロマンチックの欠片もない返答だった。その後、洗面所で並んで歯を磨いている間、鏡越しに何度も目が合った。目が合うたびに、どちらからともなく小さく笑ってしまう。理由なんてなかった。ただ隣に、この人がいることがなんだかおかしくて、嬉しかった。
と、思っていたのも束の間、こちらの歯ブラシの動きをじっと見ていたおみくんの目つきが急に変わった。そんな人がスイッチを押したらきり替わるみたいなことが現実で起きるとは思ってなかった。
「……ちょっと待って。その磨き方ダメ」
一瞬で、恋人の顔から、歯医者の顔に切り替わった。
「歯ブラシ、寝かせすぎ。あと、力入りすぎてる。歯茎、下がる」
有無を言わさず、後ろに立たれて、手首をやんわりと持たれる。
「角度、こう。四十五度」
「歯と歯茎の境目に毛先当てて、小刻みに動かす。ゴシゴシしない」
恋人とのイチャイチャモードから、いきなり歯科検診に切り替わった落差に、内心ドン引きして笑いそうになっていたが、口の中が歯ブラシで塞がっていたので笑うに笑えなかった。
「まさか、デートの延長で歯磨き指導されるとは思わなかった」
「無料サービス」
本当に得意げに、そんなことを言うものだから呆れると同時になんだかおかしくなってきた。
「なんで笑ってるの」
「なんでかな。おみくんも笑ってるじゃん」
「のんちゃんが笑うから、つられた」
鏡の中の二人が、揃って口元を緩めている。それだけのなんでもない光景が、今までのどんなデートよりも幸せに感じられた。
お風呂を借りて出てくると、リビングのソファにタオルが一枚用意されていた。しっかり匂いは嗅いでおいた。
「髪、乾かしてあげる」
「え、自分でやるけど」
「自分で普段やらないでしょ」
有無を言わせない口調だった。結局、ソファに座らされ、後ろからドライヤーの温風が髪にかけられた。手つきは、意外なくらい丁寧だった。指先で根元からしっかり乾かしていく。
「上手すぎない?」
「手先は器用なので」
それにしたって、こんな丁寧な世話の焼き方をされたのはいつぶりだろう。誰かにこんなふうに無条件で構ってもらう感覚を正直、もう忘れていた。目を閉じてしばらくその温かい風と手つきに身を委ねた。
その夜、慣れないベッドで私はなかなか寝付けずにいた。
隣で規則正しい寝息を立てているおみくんをこっそり眺める。無防備な寝顔はいつものナルシストな余裕とは違ってただの、少し疲れた三十三歳の男の顔だった。
スマホを取り出し、無音カメラでその寝顔を何枚か収めた。今日だけで一体何枚、この人の写真を撮っただろう。カメラロールを見返したら、すごい枚数になっている。それでも、指は止まらなかった。この瞬間を忘れないように、少しでも多く手元に残しておきたかった。
そっと、指先で頬に触れてみる。起こさないように、そっと。
すると、寝ているはずのおみくんが薄目を開けた。
「……起きてたの」
「起きてないけど、触られたら気づく」
「ごめん、起こした?」
「別にいい。むしろ」
言いながらおみくんがこちらの体をゆっくりと抱き寄せた。
「このまま一緒に寝て」
抵抗する理由なんて、どこにもなかった。腕の中に収まりながら、規則正しい心臓の音をすぐ近くで聞いた。密着した体温に、頭のてっぺんまで幸せが充電されていく。
布団もいつの間にかこちらの分までしっかりかけ直されていた。冷え性だから足元が冷えやすい、と話したこともちゃんと覚えてくれている。自分の使っていない毛布まで、足元に足してくれていた。
「……近くない?」
さっき自分が言われた台詞を、そのまま返してみた。
「さっき近づいてきた人がそれ言う?」
悪びれもせず、そう返された。抱きしめる腕の力が、ほんの少しだけ強くなった。守られているような、それでいて、甘やかされているような、不思議な安心感があった。
——この人と、これから先も、こういう夜を重ねていくんだろうか。
半年前の自分には、想像もつかなかった未来だった。一週間風呂に入らず、天井のシミを数えていたあの頃。あの時の自分に「今、こんな生活感のある部屋で、こんな優しい人に抱きしめられて眠ってるよ」と教えてあげたら信じないと思う。
規則正しい心臓の音をしばらく聞いていた。
いつもの暴走スイッチが今夜だけは静かだった。疑うことも、不安になることもなく、ただ、隣にいる人の体温を素直にあたたかいと感じられた夜だった。
「好きだよ」
小さく呟いてみた。返事があるかどうかは、正直、期待していなかった。
「知ってる」
いつもの、あの一言。それでも、今夜だけは、その後ろにこう続いた。
「俺も好き」
たった4文字。それだけで、胸がいっぱいになった。頬がまた熱くなる。今夜だけで何回赤くなったか分からない。
そんな穏やかな夜も、たまにはあっていいのかもしれない。
そう思いながら、私はゆっくりと、眠りに落ちていった。




