第五話 白鳥先輩のきらめき
その日も、その次の日も、放課後は屋上へ行った。
ルナちゃんとの練習は続いていた。わたしはあいかわらずうまくできなくて、ルナちゃんはあいかわらず丁寧に教えてくれた。「自信持てばいいだけ」という言葉は、もう一度は言わなかった。気をつけてくれているのかもしれないし、単純に忘れているだけかもしれない。
でも、わたしの中にあの言葉はまだ残っていた。
胸の奥のどこか柔らかいところに、小さなとげみたいに刺さったまま。
それを意識しないようにしながら、今日もドレスを着て、ステージに上がった。
きゅるるは手すりの上でしっぽを揺らしながら、いつもより少し真剣な顔をしていた。
「今日、誰か来るきゅる」
「誰が?」
「いい子きゅる。怖い子じゃないきゅる。でも、最初は怖く感じるかもしれないきゅる」
その言い方が気になったけれど、きゅるるはそれ以上教えてくれなかった。
☆
その人は、放課後の斜光がステージに差しこんできた頃に現れた。
屋上へのドアが開く音がして、わたしとルナちゃんは振り向いた。
制服は同じだけれど、ちゃんとした制服の着こなしで、第二ボタンまできっちり留めていた。髪は緩くまとめて、後ろで白いリボンで留めている。背が高くて、立ち姿がまっすぐで、歩き方まで音楽に乗っているみたいだった。
見たことがある。二年生の先輩だ。
「白鳥エマ先輩……」
ルナちゃんが小さな声で言った。その声に、いつもない緊張が混じっていた。
エマ先輩はゆっくりと屋上を見渡して、古いステージを見て、それからわたしたちを見た。
表情は穏やかだった。でも、穏やかさの中に、何か芯のようなものがあった。やわらかいのに、触れたら少し硬い、そういう感じ。
「あなたたちが、ここを使っているのね」
声が落ち着いていた。怒っている感じはなかった。でも、軽くもなかった。
「は、はい」
ルナちゃんが答えた。わたしは声が出なかった。
エマ先輩はステージに近づいてきた。照明を、床を、袖を、一つずつ確かめるように見ていった。
「懐かしいわ。このステージ、三年前まで先輩たちが使っていたって聞いていた」
「知ってたんですか」
「うわさには聞いていたけれど、こんなにちゃんと残っているとは思わなかった」
エマ先輩はステージの端に手を置いて、さびた手すりをそっとなでた。
その手つきが、乱暴じゃなかった。大切に触れる手つきだった。
そのとき、きゅるるがするりとエマ先輩の方へ歩いていった。エマ先輩はきゅるるを見て、少しだけ目を細めた。
「あなたが、きらめきナビ?」
「そうきゅる。よく知ってるきゅる」
「昔の記録に、少しだけ書いてあったの」
「ついに歴史に名を残したきゅる」
「少しだけ、だけど」
「そこは二回言わなくていいきゅる」
エマ先輩はきゅるるを怖がらなかった。
きゅるるとエマ先輩が話しているのを、わたしは黙って見ていた。エマ先輩はきゅるるを怖がらなかった。驚きもほとんどなかった。もともと知っていたか、あるいは何があっても動じない人か、どちらかだと思った。
☆
「見ていてもいいかしら」
エマ先輩がそう言ったとき、ルナちゃんはすぐにうなずいた。
「もちろんです」
わたしは少し迷ったけれど、うなずくしかなかった。
ルナちゃんが音楽をかけて、踊り始めた。
エマ先輩はステージの斜め前に立って、腕を組んで見ていた。何も言わなかった。でも、その視線は真剣だった。こころちゃんたちがルナちゃんを見るときのような「すごい、かわいい」という目じゃなくて、何かを正確に測っているみたいな目だった。
ルナちゃんは最後まで踊り切った。
エマ先輩は少しの間、黙っていた。
「きれいよ」
ルナちゃんの表情がほっとした。
「ありがとうございます」
「ただ」
エマ先輩が続けた。
「きれいなだけでは、心に残らないこともある。野月さん、あなたのダンスは完成度が高い。でも、どこかで自分を守っている。本当に届けたいものを、まだ出し切っていない気がする」
ルナちゃんの顔が、少しだけ固まった。
「……どういう意味ですか?」
「うまく踊ることに、少し意識が向きすぎている。うまく踊れているかどうかを、踊りながら確認している。見ている人には、その迷いが、ほんの少しだけ届くの」
ルナちゃんは何も言わなかった。
エマ先輩は、次にわたしの方を見た。
それだけで、足がすくんだ。
「あなたは、星岡さん?」
「……はい」
「そのドレス、自分でデザインしたの?」
「はい」
エマ先輩はわたしのドレスを、上から下までじっくりと見た。袖のレース、胸のリボン、星の飾り、スカートのすそ。
「センスはある」
思いがけない言葉で、わたしはうまく反応できなかった。
「でも」
エマ先輩は続けた。
「星岡さん。ステージに立つなら、憧れだけでは足りないわ」
その言葉が、静かに屋上に落ちた。
やわらかい声だった。でも、やわらかいからこそ、奥まで届いた。
「憧れは入り口よ。でも入り口のまま止まっていたら、ステージはあなたを育ててくれない。届けたいものが何か、ちゃんと見つけなさい」
わたしはうなずくことしかできなかった。
ショックだった。でも、不思議と怒りは湧かなかった。エマ先輩の言葉は厳しかったけれど、冷たくなかった。本気でステージのことを大切にしている人が言う言葉だ、と感じた。
☆
それから、エマ先輩はステージに上がった。
「少し見せるわ」
きゅるるが手を叩くと、エマ先輩のための衣装が現れた。
白かった。
真っ白の、羽根をあしらったドレスだった。肩から流れるように羽根が広がって、スカートのすそも白い羽根でふちどられている。袖は透き通るような薄い布で、動くたびにひらひらとなびく。淡い水色のリボンが腰でまとめていて、全体が月の光みたいな色をしていた。
白鳥のプリマ。
見た瞬間、そう思った。この衣装は、この人のためにある。
エマ先輩が立つと、ステージの空気が変わった。
ルナちゃんが立ったときも空気が変わったけれど、あれとは種類が違った。ルナちゃんは光を引き寄せる感じだった。エマ先輩は光そのものになる感じだった。
音楽はなかった。
エマ先輩は穏やかに、それでも圧倒的に動き始めた。
クラシックバレエの動きに近かった。つま先から指先まで、一本の線でつながっているみたいに、体の全部が意図をもって動いていた。首の角度、視線の先、腕の曲がり方。何一つ偶然じゃなかった。
でも、計算だけじゃなかった。
途中で、エマ先輩の目が遠くを見た。ステージの向こう、空の方を。
そのとき、表情が少しだけ変わった。何かを思い出しているような、何かに向かっているような、そういう顔。
わたしはその顔が気になった。
きゅるるが、わたしの隣でぼそっと言った。
「きれいな衣装きゅる。でも」
「でも?」
「少し冷たい光をしてるきゅる」
冷たい光。
きれいなのに、どこか遠い。そういうことかもしれない、と思った。
エマ先輩のステージは完ぺきだった。でも、完ぺきさの奥に、何か届けきれていないものがあるような気がした。うまく言葉にはできないけれど、そう感じた。
エマ先輩も、何かを抱えているんだろうか。
踊り終わって、エマ先輩はゆっくりと息をついた。
完ぺきに見えたけれど、頬は少し赤くなっていた。額に落ちた髪を直そうとして、白いリボンがほどけかけていることに気づく。
「あ……」
エマ先輩はあわてて後ろに手を回した。でも、うまく結べないらしい。
「手伝いましょうか?」
ルナちゃんが聞くと、エマ先輩は一瞬だけ迷った。
「……お願い」
その返事だけ、今まででいちばん小さかった。
光そのものみたいな人にも、後ろ手では結べないリボンがあるらしい。少しだけ安心した。
ルナちゃんがリボンを結び直している間、エマ先輩はまっすぐ前を向いていた。けれど、耳が少し赤かった。
「きつくないですか?」
「大丈夫。ありがとう」
さっきまでステージの上で光そのものに見えた人が、今は少しだけ普通の先輩に見えた。
☆
三人で、ステージの端に並んで座った。
エマ先輩は腕を組んで、どこか遠くを見ていた。わたしとルナちゃんは少し間を空けて隣にいた。
ルナちゃんが言った。
「エマ先輩、すごいです。ずっと憧れてました」
「知ってるわ」
あっさりした返事だった。でも、嫌味じゃなかった。
「でも、私のまねをする必要はないと思う。私は私だし、野月さんは野月さんだから」
ルナちゃんは少し黙った。
「……はい」
「それから」
エマ先輩はルナちゃんをまっすぐ見た。
「あなたの中に、失敗することへの怖れがある。それがステージに出ている。失敗するのが怖いから、もっと完ぺきにしようとしてる。でも、そうすると余計に怖くなる。私もそうだったから、分かる」
ルナちゃんの肩が、少しだけびくりとした。
「……なんで、分かるんですか?」
「見れば分かる。私も昔、同じだったから」
エマ先輩は、それ以上は言わなかった。
ルナちゃんは視線を落として、床の木目を見ていた。その横顔が、いつもよりずっと穏やかだった。
わたしはその横顔を盗み見ながら、さっきのエマ先輩の言葉を繰り返した。
失敗することへの怖れ。
ルナちゃんにも、怖いことがあるんだ。
あの明るさの下に、そういうものを持っているんだ。
でもわたしはそれを直接聞けなくて、ただそばに座っていた。
エマ先輩が立ち上がった。
「本気なら、また来なさい。私は本気の子を笑ったりしない」
それだけ言って、屋上を出て行った。足音が静かで、ドアが閉まる音だけが残った。
しばらく、誰も話さなかった。
きゅるるが手すりに戻って、しっぽをゆっくり揺らした。
「エマは、本物きゅる」
「うん」
ルナちゃんが小さくうなずいた。それからすぐに「大丈夫、大丈夫」といつもの明るい声に戻って、立ち上がった。
でも、わたしには分かった気がした。
今の「大丈夫」は、自分に言い聞かせている「大丈夫」だ、と。
☆
帰り道、わたしはエマ先輩の言葉をもう一度思い出した。
届けたいものが何か、ちゃんと見つけなさい。
わたしの届けたいもの。
それはなんだろう。かわいい衣装を見てほしい、だけじゃないかもしれない。スケッチブックの中だけで満足できなくなってきているのは、なぜだろう。
ひなのちゃんの「見ていると少し元気になる」という言葉が、また浮かんだ。
誰かが元気になれるなら。
そのための衣装なら、描けるかもしれない。
でも、そのためにステージに立てるか、は、まだ分からなかった。
翌日の放課後、屋上へ行くと、きゅるるが待っていた。
「次は、ペアステージきゅる」
「ペア?」
「二人で立つきゅる。星と月で、一つの夜空になるきゅる」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で何かがどきりと動いた。




