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月影草の震える指先

 あの日以来、僕は仕事の帰り道に必ずあの路地を覗くようになった。けれど、自動販売機が二台並ぶその場所には、ただ無機質なコンクリートの壁があるばかりで、あの温かな灯りが漏れてくることはなかった。

 霜月さんが言っていた「誰かが花を必要とした夜にしか現れない」という言葉が、胸の中でリフレインする。

 それから一週間が過ぎた、ひどく蒸し暑い熱帯夜のことだった。

 まとわりつくような空気を切り裂くように、あの懐かしい、季節を混ぜ合わせたような香りが鼻腔をくすぐった。

 ――あった。

 路地の奥に、あの一角だけが切り取られたようなオレンジ色の光が見える。僕は吸い寄せられるように、〈花屋・霜月〉のドアを押し開けた。

 カラン、という涼やかな音。

 店内に一歩踏み込むと、そこには先客がいた。

 まだ制服姿の、高校生くらいの少女だった。短い髪を耳にかけ、華奢な肩を丸めるようにして、カウンターの前に立ち尽くしている。

 店主の霜月さんは、いつもの白いエプロン姿で、少女の前に一輪の花を置いていた。

 それは、第一話で僕が見たあの花だ。

 ガラス細工のように透き通った、淡い青色の花弁。内側から拍動するように青い光が明滅している。“月影草”。

「……これ、なんですか」

 少女の声は、今にも消えてしまいそうなほど細かった。

「これは“言えなかった言葉”から生まれる花です」

 霜月さんの声は、波のない湖面のように穏やかだった。

「あなたの胸の奥で、ずっと形になれずに震えている想いが、夜の風を借りて実を結んだのですよ」

 少女は、震える指先をその透明な花びらに伸ばそうとして、寸前で止めた。

「私、言いたいことがあったんです。でも、嫌われるのが怖くて。言ったら全部壊れちゃう気がして……そうしているうちに、その人は遠くへ行っちゃいました」

 少女の瞳から、大粒の涙が零れ落ちた。

 それは、カウンターの上に置かれた月影草の花弁に触れ、音もなく吸い込まれていく。

 すると、透明だった花びらが、彼女の涙を糧にするように、じわりと濃い菫色すみれいろに染まり始めた。

「壊れることを恐れるのは、あなたがその関係を大切に思っていた証拠です。でも、伝えられなかった言葉は、いつまでもあなたの心の中で、出口を探して迷子になってしまう」

 霜月さんは、少女の小さな手をそっと包み込むように重ねた。

「この花に、あなたの本当の気持ちを、一滴だけ注いでみてください。言葉にする必要はありません。ただ、あの時伝えたかった温度を思い出すだけでいいんです」

 少女は目を閉じ、深く、深く呼吸をした。

 店内の灯りが、彼女の横顔を淡く照らし出す。

 月影草は、彼女の指先から流れる目に見えない熱を吸い取り、次第に光を強くしていった。青から菫へ、そして最後には、明け方の空のような、鮮やかで力強い瑠璃色へと変化した。

 それは、彼女の迷いが、一つの純粋な「願い」へと昇華された瞬間のように見えた。

 傍らで見守っていた僕の胸にも、かつて飲み込んできた数々の言葉が蘇り、熱い塊となって喉をせり上がってくる。

「準備ができましたね」

 霜月さんは、瑠璃色に染まった花を細長いガラスの試験管のような瓶に挿し、銀色のリボンで結んだ。

「この月影草は、持ち主の決意を映す鏡でもあります。今夜、この花を枕元に置いて眠ってください。あなたが勇気を持って、心の中の迷子と向き合えたなら……明日の朝、この花は一番美しい香りを放ちます。その香りが、あなたの背中をそっと押してくれるはずですよ」

 少女は、両手で大切に瓶を受け取った。

「……ありがとうございます。私、もう一度だけ、手紙を書いてみようと思います。届かなくてもいい。自分のために、書かなきゃいけない気がして」

 少女の顔には、先ほどまでの怯えはなかった。

 彼女が店を出ていくとき、その足取りは、来たときよりもずっと軽やかだった。

 カラン、とドアが閉まり、店内に再び静寂が訪れる。

 霜月さんは、少女が去った後のカウンターを丁寧に拭き、それから僕の方を向いて微笑んだ。

「律季さん。今夜も、誰かの想いを見守ってくださいましたね」

「あの子、大丈夫でしょうか」

「ええ。月影草がこれほど鮮やかに染まるのは、彼女の想いが真実だったからです。真実の想いは、たとえ相手に届かずとも、本人の魂を救うものですよ」

 霜月さんは、棚から小さな青い花びらを取り出し、レジ横の小瓶に収めた。

「律季さん、あなたも。今日は何か、花に託したい想いはありますか?」

 僕は自分の指先を見つめた。

 今日は、誰かに謝りたいわけでも、伝えられなかった言葉があるわけでもない。ただ、あの子の震える指先を見て、自分の心にもまだ、透明なまま眠っている花があるような気がしたのだ。

「いえ……今日は、少しだけここで、花の香りを聞いていてもいいですか」

「ええ、もちろん。ゆっくりしていってください」

 霜月さんは、僕のために小さな陶器のカップに温かいハーブティーを注いでくれた。

 湯気とともに、月影草の残香がふわりと立ち上る。

 窓の外では、夜の闇がより一層深まっていた。

 都会の喧騒から隔絶されたこの小さな空間で、僕は自分の指先が、少しずつ温かくなっていくのを感じていた。

 次にこの店を訪れるとき、僕の指先には、どんな花が咲いているのだろうか。

 そんなことを考えながら、僕は静かに、夜の花屋の時間を味わっていた。

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