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星の雫と遠い日の約束

 その夜、街は低い雲に覆われていた。湿った空気が街灯の光を乱反射させ、視界は白く煙っている。

 僕は仕事帰りの足で、迷うことなくあの路地へと向かった。もはや確信に近い予感があった。霧の立ち込める夜は、人の心が微かに湿り、あの店が姿を現しやすいのではないか。

 果たして、自販機の影に淡い光の入り口が見えた。〈花屋・霜月〉のドアを開けると、店内にはいつになく、ひんやりとした、けれど清浄な空気が満ちていた。

「いらっしゃいませ、律季さん」

 霜月さんは、カウンターで古びた真鍮のピンセットを使い、小さな粒のようなものを整理していた。

 その傍らには、一人の老紳士が座っていた。仕立ての良い、けれど少し年季の入ったスリーピースを纏い、銀色の髪を端正に整えている。彼は、霜月さんが並べている「それ」を、祈るような目で見つめていた。

 棚に並ぶのは、白く丸い蕾をいくつもつけた、風変わりな植物だ。

 花弁の一枚一枚が真珠のような光沢を放ち、その奥で小さな火花が散っているように見える。

「……これが、“星の雫”ですか」

 僕が思わず呟くと、老紳士がゆっくりとこちらを振り向いた。その目元には、深い年月の皺が刻まれている。

「若いの。これほど美しいものを、私は他に知らない」

 老紳士の声は、掠れているが凛としていた。

「家内と、約束をしていたのです。いつか、あの星空を手のひらに載せてプレゼントすると。馬鹿げた、若い頃の絵空事ですよ」

 彼は少しだけ自嘲気味に笑い、それから視線を落とした。

「けれど、彼女は病床で最期まで、その約束を覚えていてくれた。窓の外の冬の星座を見上げながら、綺麗ね、と言って。私は、ただ手を握ることしかできなかった」

 霜月さんが、真白な一輪の星の雫を手に取り、老紳士の前に差し出した。

「星の雫は、遠い日の約束から生まれる花です。果たせなかった言葉、守りたかった誓い……それらが結晶となり、この地上に降ってくるのです」

 彼女がそっと花に触れると、蕾が微かに震え、ゆっくりと花開いた。

 その瞬間、店内の照明が一段と暗くなったように感じられた。代わりに、星の雫が放つ青白い光が、老紳士の顔を、そして僕の胸元を優しく照らし出した。

 花びらの隙間から、まるで金砂のような光の粉が溢れ出し、店内の空気を漂う。それは、まさに小さな宇宙がそこに現れたかのようだった。

「この光は、彼女の魂が見ている夢と同じ色をしています」

 霜月さんの言葉に、老紳士は震える手を伸ばした。

 彼が花びらに触れた瞬間、光の粉が彼の指先に吸い込まれていく。老紳士の表情から、長年抱えてきたであろう凝り固まった後悔が、静かに解けていくのがわかった。

「ああ……彼女は、怒っていなかった。ずっと、待っていてくれたのか」

 老紳士の目から、一筋の涙が頬を伝った。

 それは悲しみの涙ではなく、ようやく重荷を下ろせた安堵の雫のように見えた。

 星の雫は、彼の涙を吸い込むと、さらに透き通った輝きを増していった。

「約束は、果たされましたね」

 霜月さんの静かな宣告とともに、彼女は花を丁寧な手つきで、紺碧のベルベットを敷いた箱に収めた。

「この輝きは、あなたの記憶の中で永遠に消えることはありません。この箱を開けるたび、あなたはあの夜の星空を、彼女と一緒に見上げることになるでしょう」

 老紳士は何度も深くうなずき、箱を大切そうに胸に抱えた。

「ありがとう。本当に……ありがとう」

 彼は僕の方を向き、一度だけ短く会釈をすると、ゆっくりと店の外へ消えていった。

 カラン、という鈴の音が響き、再び店は静寂に包まれる。

 僕は、老紳士がいた場所をしばらく見つめていた。

「霜月さん。あの方は、救われたのでしょうか」

「救う、というのは少し違うかもしれません」

 彼女は、ピンセットを元の場所に戻しながら言った。

「彼はただ、自分で自分を許すための道しるべを見つけただけです。想いは、時として呪いにもなりますが、こうして花として形を与えれば、美しい記憶に変わることができる」

 霜月さんは、カウンターの隅に散った光の粉を、刷毛で優しく集めた。

「律季さん、あなたには、誰かと交わした約束がありますか?」

 不意の問いに、僕は言葉に詰まった。

 守れなかった約束なら、星の数ほどある。けれど、その一つ一つを花に変える勇気が、今の僕にあるだろうか。

「……いつか、僕もあの方のように、自分を許せる花を探しに来るかもしれません」

「ええ。その時は、最高の一輪を一緒に見つけましょう」

 霜月さんはやわらかく微笑み、僕に新しいハーブティーを差し出した。

 外の霧はさらに深くなり、路地の入り口はもう完全に見えなくなっていた。

 けれど、この店の中に流れる時間は、冬の星座のようにどこまでも澄み渡っていた。

 僕は温かなカップを両手で包み、自分の中に眠る「約束の欠片」を、静かに数え始めていた。

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