番外編 最初の一輪
それは、まだ街の灯りが今よりも少しだけ鋭く、夜の闇がもっと深く重かった頃の話。
〈花屋・霜月〉が、あの名もなき路地裏に産声を上げたのは、指先が凍えるような風の吹く、一月の新月の夜だった。
開店の準備を終えたばかりの店内には、真新しい木の香りと、どこか冷ややかな静寂が満ちていた。店主である霜月は、糊のきいた真っ白なエプロンを身に纏い、何もないカウンターの前に端然と立っていた。
棚にはまだ、花の一輪も並んでいない。
この店の花は、仕入れるものではないからだ。誰かがこの場所を見つけ、心の奥底に秘めた想いを吐露した瞬間に、その熱を糧として初めてこの世に咲き出す。
霜月は、ただ待っていた。最初の想い、最初の一片が、夜の風に乗ってこの場所を叩くのを。
日付が変わる頃、古びた木製のドアが、遠慮がちにギィと鳴った。
入ってきたのは、初老の女性だった。薄いコートの襟を立て、肩をすくめ、迷い込んだ小動物のような足取りで店内を見回した。彼女の手は、長年の家事や仕事で節くれ立ち、冬の乾燥でひび割れている。
「……ここは、花屋さんですか?」
女性の声は、北風にさらされた枯れ葉のように乾いていた。
「はい。夜にしか開かない、小さな花屋です」
霜月は、これ以上ないほど穏やかな声を出し、彼女を迎え入れた。
「夜の花屋……。不思議なこともあるものね」
女性は、何もない棚を見つめ、困ったように眉を下げた。
「でも、お花が一つもありませんわ」
「ええ。うちは、お客様のお話を聞いてから、お花を咲かせるのです。今夜、あなたがどうしても手放せなかった想いはありますか?」
霜月の問いに、女性は長い沈黙を置いた。
店内に置かれた古時計が、規則正しい音を刻む。その音が数秒、数分と重なるうちに、女性の瞳の奥に溜まっていた濁った澱が、少しずつ溢れ出し始めた。
「……息子に、ずっと会っていないんです」
ポツリと、彼女が語り始めた。
「些細な衝突でした。でも、お互いに意地を張って、気づけば十年。あの子がどこで何をしているのかも、もう分かりません。でもね、今夜のように寒い夜は、あの子の背中が丸まっていないか、ちゃんと温かいものを食べているのか……そんなことばかり考えてしまう。謝りたいわけでも、戻ってきてほしいわけでもないのかもしれない。ただ……」
女性は、震える手をカウンターの上に載せた。
「ただ、元気でいてほしい。あなたのことを想っている人間が、この広い世界の片隅に一人だけはいるんだと、それだけを伝えたい。そんな我が儘な想いでも、お花になりますか?」
霜月は、彼女の節くれ立った手の上に、自分の手を優しく重ねた。
「それは、我が儘などではありません。祈り、という名前の尊い想いです」
その瞬間、二人の手の隙間から、銀色の燐光が漏れ出した。
何もなかったはずのカウンターの上に、一本の茎がするすると伸び、先端に固い蕾を結ぶ。
それは見る間に膨らみ、真冬の寒空の下で、凛とした一輪の白い花を咲かせた。
花弁は薄い氷のように透き通り、中心部には温かな金色の光を宿している。冬の寒さに耐え、遠く離れた誰かを案じる心の暖炉そのもののような花。
「綺麗……」
女性の瞳から、一筋の涙が零れ落ち、花びらに触れた。
「これは“ともしび草”といいます。物理的な距離を越えて、あなたの想いを相手の心に、そっと灯す花です」
霜月は、咲いたばかりの花を丁寧に包んだ。
女性がそれを受け取ったとき、彼女の顔からは、先ほどまでの凍てついたような表情が消えていた。ひび割れた手のひらを通して、花のぬくもりが彼女の全身を包み込んでいく。
「ありがとう。私、ようやく今夜は眠れそうな気がします」
女性が店を去った後、霜月はしばらくの間、彼女が立っていた場所を見つめていた。
カラン、という鐘の余韻が消え、再び静寂が訪れる。
霜月は、レジの横にある小さな棚に、一つの空の小瓶を置いた。
いつか、あの女性の祈りが届き、この花が役目を終えて散るとき、その最初の一片をここに収めようと決めて。
「さあ、始めましょう」
霜月は自らに言い聞かせるように、真っ白なエプロンをきゅっと締め直した。
それが、〈花屋・霜月〉の長い長い物語の、最初の一歩だった。
窓の外では、新月の夜空がどこまでも深く広がっていた。けれど、霜月の胸の中には、今しがた咲いた“ともしび草”の残り火が、いつまでも暖かく燃え続けていた。




