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また花を必要とする夜に

 あの日から、一年の月日が流れた。

 路地裏の〈花屋・霜月〉が、煙のように僕の目の前から消え去ってから、僕を取り巻く日常は驚くほど平穏で、かつてないほど彩りに満ちたものに変わっていた。

 もちろん、魔法が解けたあとの世界がすべて薔薇色だったわけではない。

 仕事での手痛い失敗に打ちのめされ、帰り道の街灯がやけに冷たく感じる夜もある。

 誰にも理解されない孤独感に苛まれ、暗い部屋で膝を抱える夜だってある。

 けれど、今の僕は、その痛みを真っ向から受け止めることができる。

 かつての僕のように、ただ闇に飲み込まれて立ち尽くすことはもうない。

 心の中に自分だけの「小さな庭」を持ち、そこに芽吹く感情のひとつひとつを、霜月さんが教えてくれたように丁寧に、慈しむように観察し、水を与える術を知っていたからだ。

 季節は巡り、再びあの冬の入り口がやってきた。

 肺の奥まで凍てつかせるような鋭い夜気を震わせながら、僕は残業を終え、あえてあの自販機のある路地へと足を向けた。

 そこにはもう、店が現れないことは分かっている。

 かつて霜月さんが静かに告げた通り、僕はもう「夜の花屋」を必要としないほど、自分自身の心と深く和解してしまったのだから。

 行き止まりの壁を背に、僕は一人で立ち尽くした。

 自販機のコンプレッサーが低く唸っているだけの、何の変哲もない都会の隙間。ネオンの光も届かないその場所は、ただの暗い行き止まりに過ぎない。

 僕はふと、あの不思議な日々を思い返した。掌に残っていた「名前のない蕾」の硬い感触、自分の魂を映し出した「鏡葉」の銀色の輝き。自分の胸にそっと手を当ててみると、そこには目に見える花こそないが、あの日々を経て強く、しなやかになった温かな鼓動が刻まれている。

「……元気にしてるかな、霜月さん」

 独り言が白い息となって、吸い込まれるように夜の闇へ溶けていった。

 その時だった。

 どこからか、あの懐かしい香りが、風に乗って微かに、けれど鮮明に漂ってきたのだ。

 沈丁花の濃厚な甘さ、百合の透き通るような清涼感、そして雨上がりの土が放つ生命力の匂い。

 僕は驚いて目を見開いた。辺りを見渡すが、壁は冷たいコンクリートのままだ。木製のドアも、オレンジ色の灯火も現れない。

 けれど、香りは確実に、僕の肺を満たすほど強くなっていく。

 驚いたことに、その香りの源は路地の奥から流れてくるのではなく、僕自身の内側から溢れ出しているようだった。

 この一年、僕が誰かを許し、自分を愛し、泥臭くも精一杯生きてきた記憶のすべて。伝えられなかった言葉を勇気を持って口にし、他人の痛みに想像力を働かせてきた時間。それが、目に見えない「花」となって、今この瞬間に僕の心の中で開花したのだ。

 僕はその時、ようやくすべてを悟った。

〈花屋・霜月〉は、消えてしまったわけではない。

 あの店は役目を終えたあの日、僕という人間の一部として溶け込み、僕の魂に接木されたのだ。僕が誰かに優しい言葉をかけたり、誰かの悲しみにそっと寄り添ったりするたびに、僕の言葉や仕草が、あの店の花の代わりとしてこの世界に届けられていく。

 霜月さんは、僕に花を売っていたのではない。僕という存在そのものを、一輪の花として育ててくれていたのだ。

「律季さん」

 不意に、耳元で懐かしい声がしたような気がして、僕は勢いよく振り返った。

 そこには、誰もいない。ただ冷たい夜風が通り抜けていくだけだ。

 けれど、自販機の青白い灯りに照らされたアスファルトの上に、一筋の細い光の道が伸びているのが見えた。

 その光の先には、一人の女性がいた。ひどく疲れ果てた様子で、重すぎる荷物と、それ以上に重い行き場のない想いを抱え、俯きながら路地を通り過ぎようとしている。

 ――かつての僕だ。

 僕は自然に、彼女の方へと歩み出していた。

 今の僕には、不思議な花を束ねる魔法は使えない。けれど、凍えた心に届く言葉をかけることはできる。彼女の抱える痛みをほんの少しだけ分かち合うような、柔らかな笑みを浮かべることはできる。

「こんばんは」

 僕が声をかけると、彼女はびくりと肩を揺らし、驚いたように顔を上げた。

 その瞳には、かつての僕が鏡の中で見ていたのと同じ、深い、出口のない夜の色が宿っていた。

「……あ、こんばんは」

「ひどく冷えますね。この先に、温かい飲み物が買える場所がありますよ。もしよかったら、少しだけ、心を休めていきませんか」

 僕の言葉に、彼女の強張っていた肩が、ほんの少しだけ解けたのが分かった。

 その瞬間、僕の目の錯覚だろうか。彼女の背後の空間に、幻のようなオレンジ色の灯火が一瞬だけ揺らめき、木製のドアの幻影が見えた気がした。

 夜の花屋は、もう僕の前には現れない。

 けれど、この世界のどこかで、誰かがどうしても耐えられない夜を迎えたとき、あるいは自分という存在を見失いそうになったとき、あの路地は再び姿を現すだろう。

 霜月さんは今日も、真っ白なエプロンをきりりと締め、誰かの想いを丁寧に束ねているはずだ。

「いらっしゃいませ。夜の花屋へようこそ」

 あの凛として優しい声を、次の誰かに届けるために。

 僕は彼女の去りゆく背中を見送りながら、夜空を仰いだ。

 冬の星は鋭く瞬き、夜はどこまでも深く、静かだ。

 けれど今の僕には、夜明けを待つ静かな勇気があった。

 心の中に、決して枯れることのない一輪の花を抱いて、僕は僕の人生という名の、長く続く路地を、一歩ずつ力強く歩き始めた。

 また、誰かが花を必要とする夜に、僕自身も誰かの光になれることを、心から願いながら。

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