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番外編 迷い猫と猫柳の溜息

 深い霧が街を包み込み、すべての音が湿った膜の向こう側へと追いやられたような夜だった。

〈花屋・霜月〉の入り口に吊るされた鈴が、風もないのに小さくチリンと鳴った。霜月が顔を上げると、そこには人間のお客様ではなく、一匹の痩せた黒猫が座っていた。

 その猫は、右の耳の先が欠け、自慢の長い髭も片方だけが短くなっている。厳しい路地裏の生活を物語るような風体だったが、その金色の瞳だけは、老賢者のように深く澄み渡っていた。

「いらっしゃいませ。今夜のお客様は、貴方なのですね」

 霜月は驚くこともなく、カウンター越しに黒猫を見つめた。猫は短く一声鳴くと、慣れた足取りで店内に入り込み、店の一角にある古い革張りの椅子の下で丸くなった。

 普段、店に満ちているのは人間の「言葉」を源とする花の香りだが、今夜の店内に漂い始めたのは、それとは全く質の異なるものだった。

 それは、濡れた落ち葉の匂い、乾いた舗装路の熱、そして誰にも顧みられない孤独な夜の冷たさ――。言葉を持たない生き物が、その体ひとつで受け止めてきた世界の記憶。

 霜月は、猫の前に小さな陶器の皿に注いだ水を置いた。

「貴方は、何を届けに来たのですか? 言葉を持たない貴方たちの想いは、時に人間のそれよりも純粋で、それゆえに激しい」

 黒猫は水を飲むこともなく、じっと店の隅に置かれた一本の枝を見つめていた。それはまだ花をつけていない、銀色の産毛に包まれた猫柳ねこやなぎの枝だった。

 霜月がその枝を手に取り、黒猫のそばへ運ぶ。

 猫がその柔らかな産毛に、自分の欠けた耳をそっと擦り寄せた。その瞬間、猫柳の芽が、まるで深呼吸をするように大きく膨らんだ。

 芽を突き破って現れたのは、通常の猫柳のような地味な花ではなかった。

 銀色の毛先から、真珠のような微細な光の粉が溢れ出し、店内の空気の中をゆらゆらと舞い始める。

 光の粒の中に、幻灯機のような映像が浮かび上がった。

 それは、何年も前の雨の日。幼かったこの猫を、温かい掌ですくい上げ、軒下へと運んでくれた名もなき老人の記憶。老人は一言も発さず、ただ自分の傘を猫に預けて、雨の中を去っていった。

 猫にとっては、それが世界のすべてだった。名前も知らない、二度と会うこともなかったその人への、一生分の「ありがとう」。

 言葉を介さないからこそ、その想いは純度の高い結晶となり、猫柳の穂を白銀に染め上げていく。

「……届かないことを知りながら、それでも忘れずにいるのですね」

 霜月の声に、猫は満足げに目を細め、喉をゴロゴロと鳴らした。

 猫柳の溜息。

 それは、形にならない感謝が、夜の静寂に溶けていく音だった。

 やがて、穂から放たれていた光が静かに収まり、店内の空気は元の静謐さを取り戻した。黒猫は一度だけ大きく伸びをすると、霜月の足元に体をすり寄せ、別れを告げるように短く鳴いた。

「貴方の想い、確かにこの店で預かりましたよ。この花が散るとき、その一欠片は、貴方がかつて救われたあの雨の音の一部になるでしょう」

 猫が霧の立ち込める外へと去っていくのを、霜月は見送った。

 カラン、という鈴の音が、今度ははっきりと別れの挨拶として響く。

 霜月は、白銀に輝く猫柳の穂を、大切に水差しへと移した。

 人間だけが、重い想いを抱えて歩いているわけではない。この街に息づくあらゆる命が、誰にも告げられない物語を、その身に秘めて夜を越えている。

 霜月は、自分の白いエプロンについた一筋の黒い毛を、慈しむように指先でなぞった。

 窓の外では霧が少しずつ晴れ、夜明け前の紺碧の空が顔を出し始めていた。

 この店を訪れるのは、何も人間だけではない。想いがあるところ、そこには必ず、夜の花屋の扉が開かれているのだ。

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