ふらりと河岸を変えて飲みに出たら会社内のヒエラルキーが上がってしまった件について
たまには違う街で飲んでみよう。
川原真は夜風とともに電車に乗り込んだ。
大手製薬会社の末席に滑り込んだ川原は、二十九歳になるが独身であった。
それは華型の営業ではなく、裏方の庶務課に勤務しているのが大きな理由と言えた。
同期に比べて稼ぎが少ない。
しかし営業で成績を出せなかった川原だ。
文句は言えない。
しかし世の社会人の大半を悩ませる、あの『ノルマ』という悪魔から開放されたのだ。
気楽な我が身ととらえることにして、川原は今夜も羽を伸ばす。
同期の営業がやれクラウンだBMWだと高い車に手を出してローンの返済のためにあくせくと汗を流している。
それを尻目に電車に揺られて飲みに出かける自分と、果たしてどちらが幸せなのか?
川原真は帰宅途中であった。
庶務課の勤務のせいか、定時で会社を出ることができる。
おかげで街のネオンサインがまだ薄っすらとしか輝いていない。
今夜はどこで飲もうか?
どうせいつもの街、いつもの店ではないのだから、華やかな繁華街がいいだろう。
どうせ小遣い銭は乏しいのだ。
安い居酒屋辺りにしけ込むのだし、せめて周りの雰囲気だけは明るくいきたい。
そんな理由でビル群を抜けた繁華街で電車を降りた。
大学生風の若者たちもいっしょである。
若者はいい。
見ているだけで気分が華やぐ。
そして彼らには時間がある。
深夜を越えた夜遊びも可能なのだ。
そんな身分を少し懐かしく、そして羨ましいと川原は感じた。
駅を出ると、すでに街は華やいでいた。
手頃な店をみつけて、川原は赤ちょうちんの暖簾をくぐる。
すでに学生たちがビールで盛り上がっていた。
そして労働者風の男たちもいた。
働き方改革というやつのおかげで、定時で返されているのだろう。
それでも飲みに出る金があるのは、大方パチンコ辺りで稼いだのだと推測できた。
川原もビールを注文した。
家で飲むビールと何ひとつ変わらないのだが、店の中の料理の匂いが、ビールの味を引き立てるのだ。
グラスの泡に口をつけようとしたそのとき、騒ぎが起こった。
労務者風のお兄ちゃんと、大学生のお兄ちゃんが言い争っているのである。
どうやら労務者の兄ちゃんが「親のスネかじって飲んでるんだから、いい御身分だよな」ともらしたのが気に障ったらしい。
事実ではあるが、大学へ行くだけの勉強を怠ったのは自分ではないのか? と川原は思う。
今どき家が貧しかったから大学へは行けませんでした、などという言い訳は通らない。
とはいえ、川原にとってはこんな些細な諍いなど他人事でしかない。
そう、川原のビールが倒れるまでは。
「ちょっと待ってもらおうか」
川原は立ち上がった。
「他の客に迷惑だろう、表でやらないか!」
お兄ちゃん二人は表へ出て行った。
大学生の連れであろう、女の子たちも出てゆく。
スカートからのぞくスラリとした脚を、川原はこっそり盗み見た。
表で喧嘩が始まったらしい。
しかし川原は焼き魚でビールを楽しんでいた。
ジョッキのビールをあおって勘定を済ませる。
表に出ると労務者は五人になっていて、羽交い締めにした大学生を嬲りものにしていた。
「やめてーーっ! やめてーーっ! 誰か助けてください!」
女の子は助けを求めるが、街ゆく人々は知らぬ振りか、スマホで動画を撮影するだけだった。
そして女の子が捕まる。
今にも乱暴されそうになっていた。
川原は一撃を見舞った。
家伝の古流武術の一撃だった。
面倒はキライな川原であったが、女の子は大好きなのだ。
そしてこれは集団暴行の現場であり、婦女暴行未遂の現場でもあった。
そして現場の関係者にとって、川原は闖入者でしかなかった。
「なによ、お前!」
川原に気づいた労務者が威嚇してきたが、こんなことをわめいている辺りがアマチュアだった。
すでに川原の前蹴りが、男を電柱まで弾き飛ばしている。
「んっだぁ? ごるぁ!」
標的を大学生から川原に変えた男たちが次々向かってくるが、中国武術で言うところの三才歩で軽やかにかわす。
かわせば川原は安全地帯だ。
余裕で拳を飛ばす。
古流柔術では相手を捕まえて、確実に当身を入れるものだが、そんな必要は無かった。
あっという間に失神体が折り重なる。
被害者であった女の子でさえ、ポカンと口を開けているような手際の良さだった。
川原真は真月流柔術宗家の家に生まれた。
戦前は大家名家の類だったそうだが、GHQの武道禁止令により財産を失う。
復興期、高度経済成長期を経て、格闘技ブームなどもあったそうだが、真月流柔術は表に出ることは無かった。
そしてバブルが弾けた頃、川原真は生を受けた。
父親にとっては待望の男子だったようだ。
おかげで真月流の稽古をみっちりとつけられる。
真月流は型武道であった。
乱取りや組手稽古は無い。
しかし中学に上がる頃にはかなりの技術が身体に染み込んでいて、いわゆるケンカでも使いこなせるようになっていた。
ケンカで負け無し。
しかし不良グループには入らない。
不良になるには金がかかるのだ。
貧しい川原に不良の道は無かった。
だがそれでもトンガリたくなる年頃もあった。
高校に入った頃には、わざわざ夜の街へ出かけてケンカ三昧。
ますます必殺の技術が身につく。
そして高校二年の頃には、川原の縄張りからその筋の者たちは消えていなくなった。
それからは勉強にも精を出した。
喧嘩三昧のバカは格好が悪いと気づいたからだ。
崩れた生活は一年ほどで卒業し、優等生の見本となる。
そして無事に地元の一流大学へ入学。
父親も頑張って学費を出してくれた。
にわかな古武道ブームのおかげで、真月流にも門人ができたのだ。
大学に入った川原は、これをレッスン制にできないかと考えていた。
つまり、一回一時間の稽古でいくら、というシステムの確立である。
現在は父親がそのシステムを導入し、気軽に通える古武道として成功していた。
まあ、流儀の編集をして、即効性を重視したのだ。
本来の真月流からはかけ離れている。




