終 やっぱり、お師匠様のことあきらめません!
そして、翌朝。
旅立ちの日。
赤く色づいた木々の葉が爽やかに吹く風に揺れ、大地に降り注ぐ陽の光は眩しくそして、暖かい。
空を見上げれば雲ひとつない見事な青空。
まさに、旅立ちに相応しい朝であった。
お世話になった一家にツェツイは深々と頭を下げた。
手には小さな鞄一つ。
住んでいた家はアリーセのつてで、いつか再びここへ戻ってくるまでの間、信用できる人に管理してもらうよう頼んだ。
家の前では旅立つツェツイを見送るため、イェンとアリーセそして、双子たちが並んで立っていた。ちなみに、結局泊まっていったマルセルは、恥ずかしかったのか朝食を食べてすぐに、ツェツイにじゃあな、と言って帰ってしまった。
「ほんとに行っちゃうんだな」
「なんか寂しくなっちゃうな」
ツェツイはノイの手を握りしめる。
「うん、ノイ遊んでくれてありがとう」
「おう!」
そして、次にアルトの手を握る。
「アルトもありがとう。すごく楽しかった」
「あれ?」
ふと、双子たちは首を傾げた。
「ツェツイ、俺たちの見分けがつくようになったのか?」
ノイの問いかけに、ツェツイはううんと首を振る。
「結局わからなかったの。ごめんね。あのね、二人の放つ魔力が違うから、それで……」
「そっか。それでか」
ノイとアルトは納得したようにうなずく。
「うかうかしてると、俺たちツェツイにどんどん追い抜かれちゃうな」
「ほんとだな。負けていられないよ。俺たちもこっちで頑張るからな」
ツェツイはうん、とうなずき今度はアリーセに向き直る。
「アリーセさん、本当にありがとうございました。アリーセさんにはいろいろよくしていただいて感謝の言葉もありません」
ツェツイはぺこりと頭を下げた。
「それと、アリーセさんの手料理おいしかったです!」
「こっちに戻ってきたときは必ず家にくるのよ。絶対だからね。ツェツイの好きなものたくさん作るから」
「あたし、またりんごのタルトが食べたい!」
了解、とアリーセは親指を立てた。
そして──
ツェツイはゆっくりとイェンの元へ歩み寄る。
イェンが贈ってくれた耳元の髪留めにそっと手を触れる。
ありがとうございます、と声に出したが、それは相手に聞き取れるかどうかもわからない呟き声にしかならなかった。
お師匠様に出会うことがなければ今の自分はなかった。
大事なお礼、言わなければならないこと、たくさんあったはずなのに、本人と向き合った途端、頭の中が真っ白となって消えてしまった。
「気をつけて行ってこい」
「はい……」
「くれぐれも無理は……」
そこまで言いかけ、イェンは苦笑する。
本当に、この言葉を何度言ったか。
うなずくツェツイに手を伸ばし、イェンは頭をなでた。そして、うなずいたままうつむいてしまったツェツイのあごに指先を添え上向かせる。
「言ったろ。下なんか向いててもいいことねえぞって。しっかり前を向いて歩け」
ツェツイはぎこちない笑みを浮かべる。
「お師匠様」
唇をきつく噛み、あふれそうになる涙をツェツイはぐっとこらえる。
鞄をぎゅっと握りしめ、最後にもう一度みなに頭をさげた。
名残惜しい気持ちを振り切り、くるりと背を向け歩き出す。
数歩歩いたその時。
「おい……」
呼び止めるイェンの声に振り返る。
「途中まで送ろう……か?」
思いもしなかったその言葉にツェツイは目を丸くし、そして、くすりと笑う。
「何だよ」
「もしかしてお師匠様、あたしがいなくなって本当は寂しいとか?」
「ばかいえ」
そっぽを向いたイェンの表情が、一瞬うろたえたのをツェツイは見逃さなかった。
そうだね。
今は無理でも未来はわからないよね。
ツェツイの手から離れた鞄が足元にごとりと落ちた。そして、ツェツイはイェンの元へと駈け寄る。
「お師匠様!」
両手をめいいっぱい伸ばしてくるツェツイにイェンはどうした? というように身をかがめた。そのイェンの首筋にツェツイは伸ばした両手を回すと──
ちゅっとイェンの頬にキスをする。
「まあ……まあ!」
その横ではアリーセが頬に両手をあて目を輝かせていた。さらにその横でノイとアルトがあんぐりと口を開けている。
「どういうことなの? ねえ、これはどういうこと!」
「あたし、決めました」
ツェツイは大きく息を吸いゆっくりと吐き出すと、何かを決意した目でイェンを見上げる。
「やっぱり、お師匠様のことあきらめません」
「ツェツイ……それってもしかして……」
頬を赤らめてアリーセはイェンとツェツイを交互に見る。
何だか嬉しそうな顔だ。
ツェツイはえへへ、と笑う。
「あたし、お師匠様のことが好きなんです」
ツェツイの突然の告白にノイはえ? と大きく目を見開き、アルトはやっぱりなあ、とがくりと頭を垂れため息をつく。
「ツェツイ、兄ちゃんのこと好きだったのか!」
ノイが目を丸くしてアルトに問いかける。
「やっぱり、ノイは気づかなかったんだな……」
「アルトは知ってたのか? いつからだ?」
「ツェツイがあの日だった時に、何となく」
「あの日ってあの日か?」
「そうだよ。あの日だよ」
「ええっ! 俺、全然気づかなかったぞ」
「ノイって、意外と鈍かったんだな……」
ノイはうう……と声をもらし恨めしげな目でイェンを見上げる。
「俺の本当のライバルがまさか兄ちゃんだったなんて……」
「だから強敵がいるって言ったろ? 多分、勝ち目ないぞ」
「そんなの……そんなの、わかんないじゃないか!」
涙目になるノイに、さらに追い打ちをかけるように。
「それに、あたしお師匠様のキスが忘れられなくて」
「おい……っ!」
慌てるイェンの後頭部を、すかさずアリーセがひっぱたく。
「何だよ、いてえな!」
「あんた! ツェツイにキスって……あれほどまだ手を出しちゃだめっていったのに! ツェツイはまだ小っちゃな子どもよ! まさか……まさかと思うけど……」
「まさか何だよ。あり得ねえだろ。違うよ、聞けよっ!」
ぽっと頬を赤らめるツェツイ。
あんぐりと口を開ける双子たち。
うろたえるイェンを睨みつけるアリーセ。
「おでこにちゅってしてもらいました」
「おでこに。そう……おでこにね」
それを聞いたアリーセはほっと息をもらす。
「でも、素敵だわ! 嬉しいわ! いいのよツェツイ、こんなばかでよかったらぜひ貰ってやってちょうだい。ばかだけど、根は悪い子じゃないのよ。ああ……そうなったらツェツイは本当にあたしの娘になるのね! どうせならもうここで婚約してっちゃう? そうしなさい!」
アリーセはすっかり浮かれて舞い上がっている様子であった。
「あたし、いつか、お師匠様の隣に並ぶことができるような立派な魔道士になって、自分を磨いて絶対いい女になって戻ってきます。そして、もう一度お師匠様を口説き落としてみせます! だから、待っていてください。それまで他に好きな女性ができてもかまいません。だって、しばらく離れてしまうんだから仕方がないですよね」
「それ、俺が昨夜ツェツイに言った言葉……」
ノイはがくりと肩を落とす。
「ツェツイ、そんな心配なんてしなくていいのよ。このばか、今までまともにつき合った女性なんて一人もいないんだから。一人もよ! この先だってないから安心しなさい」
「なあ、大丈夫かノイ? そんな落ち込むなよ。な?」
「大丈夫じゃないかも……ちょっと立ち直れない……」
「でも、必ずあたし、お師匠様を振り向かせてみせますから。その時は、あたしを……可愛がってください」
「かわ……おまえ、何言って……」
イェンはかっと顔を赤くする。
「まあ! もちろんよ。もちろん可愛がってあげるわ」
気持ちの整理がついたのか、ツェツイは晴れやかな笑みを浮かべた。
「なあ、ツェツイと兄ちゃんいくつ年離れてるんだ?」
すかさずアルトは十二歳だと答える。
「十二歳! それって……いくら何でも離れすぎだよな」
「離れすぎもいいとこだな。十二の差は大きいと思うぞ」
「あら、あんたたち忘れたの? あたしとエリクも十二歳年が離れてるってこと。だいたい大人になったら年の差なんてたいして気にならなくなるものよ」
にやつきながらアリーセは肩ひじでイェンの脇腹を小突く。
アルトも目を細めていひひ、と人さし指でイェンを突っつく。
ノイはそうとうショックを受けたのか、口を開けて呆然と突っ立ったまま。
「おまえら、何なんだよ!」
イェンはからかってくるアリーセとアルトの手を振り払った。
それを見ていたツェツイは肩を揺らして笑い、とうとう押さえきれなくなったのか、お腹を抱え声を上げて笑った。
「おまえ笑いすぎ!」
「だって、お師匠様の困った顔がおかしくて」
ひとしきり笑ったあと、ツェツイはもう一度イェンを見上げた。
迷いが吹っ切れたすがすがしい顔だった。
「あたし行きます」
「ああ、行ってこい」
ツェツイは再び背を向け確かな足取りで歩き出す。が、数歩歩いて立ち止まり、もう一度振り返る。
イェンは訝しげに目を細めた。
何故なら、ツェツイの口許には満面の笑みが浮かんでいたからだ。
「ツェ……」
名を呟こうとした瞬間、ツェツイの姿がふっとその場から消えた。
一瞬の出来事であった。
ツェツイの立っていた場所に緩やかな風が渦を巻いて舞い上がり、虚空を舞っていた落ち葉がゆらゆらと地面に落ちた。
「あいつ」
たった一度、あの時自分が実行した空間移動を見事ものにしてしまったのだ。
それも詠唱なしで。
「今の空間移動か! まじか?」
「いつの間にそんな上級魔術!」
ツェツイの魔術を目の前で見せつけられ、ノイとアルトは頬を紅潮させ足を踏みならす。
「こうしちゃいられない。なあ、アルト!」
「うん、ノイ! 俺たちも魔術の特訓だ!」
おーっ、と双子たちはこぶしを握りしめ〝灯〟に向かって走り出した。が、突然ノイは立ち止まり振り返ってイェンに指を突きつける。
「俺! 兄ちゃんには負けないからな。絶対に負けないぞ。負けないからな!」
涙目で訴えかけてくるノイに、イェンはやれやれと肩をすくめる。
アリーセはイェンの肩にひじをかけ、何やら含むような笑いを口許に浮かべた。
「あんた、しっかりつかまえておいた方がいいかもよ」
「何がだよ」
「またまた、わかってるくせに。あの子、間違いなくいい女になるよ。このあたしが保証する」
イェンはじろりとアリーセを睨みつける。
「何が保証するだ」
「あんたも、もうじゅうぶんすぎるくらい遊んだでしょう? 逃しちゃってから後悔しても遅いのよ。それに、無垢な少女を自分色に染めるってのも、男の醍醐味じゃないの?」
「はあ?」
何言ってんだよ、と呆れた表情でイェンは肩にのったアリーセの手を邪険に振り払う。 イェンの背中をぽんと叩き、意味ありげな笑いを残してアリーセは家へと戻っていった。
「そんな趣味ねえっての」
と答えたが、おそらくアリーセの耳には届かなかったであろう。
イェンは頭をくしゃりとかき、ふっと笑ってどこまでも続く青い空を見上げた。
がんばってこいよ。
ツェツイーリア、十歳。イェン、二十二歳。
二人の距離が縮まるのは、もう少し先のこと──