雨の午後 ―王歴932年・雨の月16日―
しとしとと雨の降るリュミエリアの王都サン・レクラのリュー・ド・マルシェを、オルトことオルタンシア・プリュイは傘を差して歩いていた。
花の月に続く雨の月は、その名の通り雨が降りやすい季節である。
既にマルシェは撤収された時間帯、人通りは減っている。この雨もある程度はそれに影響しているのだろう。オルトと同じように傘を差している者もいれば、気にせず雨に濡れながら歩く者もいる。割合は半々といったところだ。
「……はぁ」
オルトは浮かない顔でため息を吐いた。
雨のせいではない。
このところ何かと小さなアクシデントに見舞われ続け、品のある笑顔がトレードマークのカフェ店員、オルトは、いつものその輝きを鈍らせているのである。
今日はカフェの定休日、オルトも休日だ。ゆっくりと陽射しを浴びたいと思っていたのに――雨の月には貴重な晴れ、という予報は盛大に外れ、朝からどんよりとした雲が広がっていた。そしてほどなく雨粒が落ち始めた。それでも、家の中にいれば余計に気が滅入ってしまいそうで、オルトは外へと繰り出したのだった。
通りを歩いていると、ふんわりと香ばしい風がオルトの鼻先をくすぐった。この先には馴染みのブーランジュリーがある。もしかすると、ちょうど焼き立てが並ぶ頃かもしれない。
オルトは視線を上げると、小さく頷いてブーランジュリーを目指した。
「こんにちは、リーズさん」
扉を開け、店主である女性に挨拶する。
「あら、オルトじゃないの、いらっしゃい。どうしたんだい、浮かない顔ね?」
「あはは、ちょっと……」
「あんたの好きなパン・オ・レザンがちょうど焼き立てだよ。どうだい?」
「じゃあ、一つください。それからブリオッシュも……あ、良かった、ありますね、これを頂きます」
「いつものだね。はいよ」
リーズは手際よく二つの菓子パンをグラシン紙で包むと、
「七リール……いや、今日は六リールにまけとこうかね」
オルトにウインクをした。
「え、いいんですか?」
「ははは、今日は特別だよ。これ食べて元気出しなよ。そんな浮かない顔してちゃあ、幸運が逃げてっちまうよ」
「ありがとうございます。じゃあこれ、六リールです」
「はいよ、毎度!」
「それじゃあ、リーズさん、良い午後を」
「ありがとさん、オルトもね」
ほんのりと温かい菓子パンを手に、オルトは店を出た。心までほんの少し軽くなった。
折角の焼き立てなので、オルトはパン・オ・レザンを囓りながら歩くことにした。左腕に掛けたパニエにブリオッシュを仕舞い、その手にパン・オ・レザンを持つ。右手には傘。雨脚は強くもならないが、弱まりもしない。
「いただきます」
行儀良く呟いて、オルトはパン・オ・レザンを囓った。
さくっと音を立てたそれは、オルトの口内にバターの香りとクリームのまったりとした甘さ、そしてカレンズのじゅわりとした甘酸っぱさを広げる。
「……おいしい」
思わず笑みがこぼれる。リーズの店のパンはどれもおいしいが、オルトの一番のお気に入りはこのパン・オ・レザンである。
「焼き立てはやっぱり最高ね」
しとしとと傘に当たる雨音を聴きながら、さく、さく、とパンを囓りつつアレーア川の方へ向かう。この通りの先にある大きな川は、その河川敷に人々の憩いの場となっている広場を持つ。あの大きな橋の下なら雨も凌げるだろう。
パニエの中には、紅茶の入った小さな水筒も入っている。家を出る前に用意したものだ。橋の下でのんびりとブリオッシュを味わうのも悪くないかもしれない、とオルトは思った。
河川敷の広場にも、人影はそれほど多くはなかった。それでも思い思いの過ごし方をしている人々の姿がある。
既にパン・オ・レザンを食べ終えていたオルトは、ゆっくりとした足取りで橋の下に向かった。橋台の付近は雨に濡れていない。傘をたたんでから、橋台にもたれるように腰を下ろし、パニエからブリオッシュと紅茶の水筒を取り出した。
水筒の中の紅茶は、親友のフィーことフィロメーナ・ペコラからプレゼントされたアールグレイだ。きっとブリオッシュとの相性も良いはずだ。
オルトが小さく笑みを浮かべて水筒の蓋を開けると、爽やかな香りが湯気とともに広がる。ブリオッシュも手に取った。
グラシン紙を開けると、ふわあ、とミルキーな香りが漂い、オルトは思わず目を閉じてうっとりした。サン・レクラを包む雨の匂いが、オルトの周りだけブリオッシュと紅茶の香りに押しやられる。
「うーん、いい匂い。いただきます」
また丁寧に呟いて、オルトはブリオッシュに歯を立てた。たちまち、ふんわりした生地がほどける。ふんだんに使われたバターの味わいと優しい甘みが、何とも言えぬ幸福感を運んできた。
続けて紅茶も一口飲む。湯気を纏った上品な柑橘の香りもオルトの周りにいっそう広がり、雨の匂いは劣勢となる。すっきりとした味わいのアールグレイはフィーの好みで、贈られたオルトもすぐにその虜になった。
しとしとと降り続く雨音、広場で遊んでいる家族連れの声、雨でも元気な小鳥たちの囀り、アレーア川のせせらぎ――それらを背景音楽にし、オルトはブリオッシュとアールグレイを楽しんだ。
食べ終える頃にはすっかり心も満たされていた。
このところ続いていた小さなアクシデンによる少し憂鬱な気分も、どこか遠くへ消えて行ったような気がする。
「……ごちそうさまでした。リーズさんのお店のパンも、フィーにもらった紅茶も、本当に素敵」
オルトは微笑んで、水筒と、たたんだグラシン紙をパニエに仕舞う。
「ふふふっ、うじうじしてたのが嘘みたいね、私、もうご機嫌だわ」
軽やかに立ち上がり、スカートに付いた土埃を払った。
「さて、帰りましょ。そうだ、ラフさんのお店でお花を買って帰ろうかしら」
我ながら名案を思い付いた。窓辺に花を飾れば、きっと心が明るくなるだろう。
「ピヴォワンヌが良いかしら、それとも……ニジェールも素敵かもしれないわ。ラフさんの今日のお薦めを聞くのも良いわね」
わくわくと踊り始めた心で、足取りも軽く通りへ向かおうとし、オルトはふと気付いた。
「……あら、もう雨は上がったのね?」
いつの間にか空が明るくなっている。
「……あ」
ふと目を上げた先に、虹を見つけた。
「今日は……とても良い日になったわね」
オルトは幸せそうに呟くと、軽やかにラフの花屋を目指した。
その顔にはすっかり、トレードマークの微笑みが戻っていた。
このエピソードは、とーふさんが主催する「#匿名短編小説企画202607」に参加した作品に、時系列を整えるために少し手を加えたものとなっております。
「リュミエリアのささやかな日常」は、キャラクターたちの設定としては以前から存在していました。
が、本エピソードを書いたことで、短編オムニバス形式で世界観を綴りながら連載を開始しよう、と動き始めたのでした。
言わばこちらの企画が、リュミエリア本格始動の大きなきっかけです。
この場を借りてお礼申し上げます。
そしてリュミエリアの物語もちゃこちゃこと続く予定ですので、お付き合いいただけましたら幸いです。




