夢の原点 ―王歴932年・火の月32日―
「よし、レッロ、ジェノワーズは焼けたな?」
レッロことレーリオ・ペコラにそう声をかけたのは、彼の師匠であるエーミール・マンデルだ。
ここはリュミエリアの王都サン・レクラのリュー・ド・マルシェにある、エーミールの菓子店だ。一年の中で暑さが最も厳しい火の月も、そろそろ終わろうとしている。エーミールのもとで修行を始めて一年と少し、レッロは少しずつ製菓の練習をさせてもらえるようになっていた。
閉店後だというのに、エーミールも残って直々に面倒を見てくれている。エーミールにとって、レッロは期待の愛弟子だった。元々一人で店を切り盛りしていたエーミールは、レッロの他には弟子を取っていない。
「はい、師匠! 見てみてもらえますか?」
レッロは少しだけ緊張しながら、焼き上がって落ち着いた頃合いのジェノワーズを示す。
「どれどれ……うん。高さもちゃんとある、厚みも均一になってきたし、焼き色もいいな。ちゃあんとちょうどいい弾力もあるし……上達したじゃないか、レッロ」
師匠に褒められ、レッロは目を輝かせた。
「ありがとうございます!」
まっすぐなレッロの表情に、エーミールもにっと笑う。
「ジェノワーズはもう合格だな。これは明日、仕上げの練習に使うことにしよう。けどレッロ、クレーム・パティシエールにはもう少し改善の余地がある」
「……はい!」
「とは言えレッロは筋がいい。焦る必要はないからな」
「ありがとうございます!」
エーミールの、褒めて伸ばす、という指導方針はレッロにはほんの少しこそばゆい。だがサン・レクラにも数多く存在するパティスリーの中で、レッロが修業先としてエーミールの店の門を叩いたのには理由があった。
幼い頃、姉であるフィーことフィロメーナとともに食べた、エーミールのマドレーヌに衝撃を受けたからだ。フィーも目を丸くしていたし、きっと自分もフィーと同じ顔をしていたのだろう、とレッロは思う。
「それにしてもレッロ」
ふいにエーミールが少し口調を変え、不思議そうに言った。
「どうしてパティシエを目指そうと思ったんだ?」
「それは、小さい頃に食べた師匠のマドレーヌが――」
「ああ、それは前も聞いたけど、そうじゃなくてな。レッロ自身がパティシエになりたい、と思った動機、と言えばいいか? これはただの、俺の純粋な興味なんだが。そう言えば聞いたことなかったと思ってな」
師匠の言葉を受けて、レッロは数瞬きょとんとした。それから、
「……あ、それは、えっと……へへっ」
少し照れたように頭を掻いて笑って、レッロは続ける。
「フィーが……えっと、俺の姉ちゃんが、甘いの好きなんだ。お菓子を食べてるフィーって、すごく幸せそうな顔をしてて。師匠のマドレーヌを食べたあのときも、フィーの目がきらきらしてて……」
そう語るレッロの表情も輝いているのを、エーミールは微笑ましく見ていた。
「それで俺、自分の作るお菓子でも、フィーにそんな顔をしてもらえたらな、って思ったんです。ううん、フィーだけじゃなくて、色んな人が幸せになってくれたら嬉しいし……それに俺も、お菓子は大好きだし」
「ははは、そうか。で、製菓学校を出てすぐに、うちにやってきた、と」
「はい!」
レッロが通った製菓学校は、短期集中型のカリキュラムだった。このリュミエリア王国ではそういった学校も珍しくない。学都レルディでは、専門性が高い分野を学ぶために長期間の通学が基本となる大学もあるが、レッロにはそちらに進む意志は端からなかった。
「じゃあフィーを笑顔にするためにも、頑張らないとな」
エーミールが笑い、レッロも頷く。
「はい! 師匠、クレーム・パティシエールはどうやったら上達できますか?」
「ははは、見て盗め。それも大切な修行だ。けど、ヒントは出してみるか。レッロは少し、火加減に対して弱気かもしれないな。もっと強気に出て構わない」
「……なるほど」
「あとは練習あるのみだな。頑張れよ、レッロ」
「ありがとうございます!」
レッロは元気に言うと頭を下げた。
「さ、じゃあそろそろ帰れ、レッロ。明日も早いからな。ここのところずっと夜更かししてるだろう。体調管理も修行の内だぞ」
「はい、じゃあ、片付けます」
本当はもっとここで練習したいこともあるが、師匠に迷惑もかけられない。夜更かしはまだレッロには苦にならないものの、師匠の言うことにも一理あった。
レッロは道具類を手早く、しかし丁寧に洗って拭き、所定の位置に片付ける。無駄のない動作でそれを終えたところで、エーミールが小さな包みをレッロに渡した。
「余りもんで悪いが、帰ったらフィーと食べろ。じゃ、また明日な。おやすみ、レッロ!」
「ありがとうございます! って、師匠、これマドレーヌじゃないですか!」
「ちょうど今日は二つ余ってたからな」
「……あれ? 確か今日も……全部売り切れたはずじゃあ……?」
店の営業時間中はレッロが接客をすることもあるし、何より今日はその際に、レッロ自身が最後のマドレーヌを紙袋に入れ、客に手渡した記憶がある。
エーミールはそれには答えず、ただにやりと笑った。
「ほら、帰った帰った。フィーも心配するぞ」
「……! ありがとうございます!」
師匠の心遣いを受け取り、レッロはそれを大切に胸の前に抱えて一礼する。
「じゃあ師匠、失礼します! おやすみなさい、また明日よろしくお願いします!」
「ご苦労さん」
エーミールは手を振りながら、レッロを店から送り出した。
すっかり日も落ちて、空にはそろそろ満月を迎える月が昇ろうとしている。火の月の夜空を彩る星座たちも、控えめながらも誇らしく光を放っていた。
夜風にはほんの少し、火の月の次にやって来る夜の月の落ち着きが混ざり始めていた。レッロは月明かりと街灯が照らす夜道を駆ける。早くフィーと一緒にマドレーヌを食べたかった。
「ただいまーっ!」
勢い良くドアを開けると、玄関から繋がる廊下に、リビングからフィーがひょこっと顔を覗かせた。
「お帰りなさい、レッロ。今日も遅かったのね。疲れたでしょう、晩ごはんは?」
「食べる! あとフィー、今日は最高のデセールもあるんだ、なんと師匠のマドレーヌ!」
「まあ、本当!? いつも売り切れちゃうのに?」
フィーが目をぱちくりさせる。レッロはにっと笑った。
「びっくりだろ? 師匠が持たせてくれたんだ」
「すごくうれしいわ、明日ちゃあんとお礼を伝えてね?」
「もちろん!」
言いながらレッロは、廊下を進んでリビングへと移動した。キッチンからおいしそうなスープの匂いが漂ってくる。
「今日はお野菜たっぷりのスープと、キッシュよ」
フィーがのんびりした口調で言った。
「フィーも今日は仕事遅くなるって言ってたのに、ありがとう」
「だってレッロも頑張ってるんだもの。さ、食べましょ。あ、手を洗って来るのよ?」
「はーい」
レッロが洗面台に向かうのを確認してから、フィーは食卓の用意を始めた。
スープとキッシュをゆったりと堪能すると、いよいよ二人は食後のお楽しみ、マドレーヌを前にした。フィーが気に入っているアールグレイの用意も調っている。
「……相変わらず、きれいな黄金色のマドレーヌね」
「それにこのバターたっぷりのいい匂い……」
フィーとレッロはそれぞれ、マドレーヌを手に持ってうっとりする。
やがて二人はマドレーヌを一口囓った。
「……しあわせ~」
姉弟の口から、同じ言葉が同時に漏れる。それから二人はくすっと笑った。
レッロはふと、フィーの表情を観察する。ふにゃ、ととろけるような、こちらまで自然と嬉しくなってしまうような表情だ。自分も同じ顔を浮かべていることには気付かずに、レッロは決意を新たにした。
――いつか俺も、誰かをこんな素敵な笑顔にさせるパティシエになるんだ。




