少女の夢 ―王歴929年・夜の月8日―
リュミエリア王国にも昇る月が満ちる夜だった。
夜の月は、それまでの暑さが落ち着いてくる頃合いだ。星の瞬きの美しさが増し、月の静けさが際立つ――夜の時間を楽しむ人々が増えるため、この月は夜の月と呼ばれるのだった。
その満月の夜、かすかなオルゴールの旋律を漂わせながら、王国に降り立った一団があった。
「さあ、今宵は満月。今日の舞台は――ここにしましょう」
シルクハットを被った女性が、月光を思わせる声で言う。
彼女はリュンヌ・ド・ノクテュルヌ。月夜の晩を旅する『月下のサーカス団』の団長だ。そしてリュンヌは、柔らかい微笑みを浮かべた。
* * *
文化都市として知られるランスピレの端にある小さな家の寝室で、ソフィことソフィア・カレイドスコープは眠れない夜を過ごしていた。
ソフィはぼんやりと窓の外を眺め、星を数えている。
「はぁ……今日もうまくいかなかったなぁ」
プリマ・バレリーナを夢見てバレエを始めたものの、思うようには上達しない。ついつい結果を焦っては、こうして落ち込んでしまう夜がある。
いつもより星の光が目立たないな、と思って、それからソフィは思い出した。今日は満月だ。月の光がいつもより明るいから、星は月に主役を譲っているのだった。
そこに、かすかなオルゴールの音色が聞こえてきた。
「……ん?」
聞き間違いかな、と思って、窓を開けてみる。するとオルゴールは、確かに聞こえているのだった。しかも少しずつ近づいているようだ。
「……何だろう?」
ソフィは薄手のストールを巻き付けると、両親を起こさないようにそうっと家を出た。
かすかな音色は段々そのボリュームを上げながら、中央広場の方へ向かっているようだった。だからソフィも中央広場を目指す。
王国の最初の王様は、詩を好んでいたそうだ。その詩碑が建つ広場に、ソフィは辿り着いた。詩碑に刻まれた詩がどういう意味を持つのか、まだソフィには難しくてわからない。
「……こんなテント、あったっけ?」
中央広場には、夜の色をした大きなテントが立っていた。オルゴールの旋律は、そこから流れていた。月の光がテントの輪郭を柔らかく浮き上がらせている。ソフィの記憶では、この広場にこんなテントはなかった。夕方もこの広場を横切ったばかりだから、それは間違いないはずだ。
「小さなお客さま、ようこそお越しくださいました」
だから、気付けばそのテントの入り口に立っていた女の人に声を掛けられて、ソフィは思わず飛び上がった。
「わっ?」
ソフィに声を掛けたのは、三日月の飾りが付いたシルクハットに、不思議な燕尾服を纏った、神秘的な色の目をした女性だった。
「ふふ、驚かせてしまいましたね。私たちは『月下のサーカス団』、精霊界から人間界、妖精界に数多の異世界――様々な世界の満月を旅するサーカス団です。私は団長のリュンヌ・ド・ノクテュルヌ、ささやかなお楽しみをお届けに参りました」
女性――リュンヌはそう言って、ソフィを手招きした。ソフィは少しだけ訝しみながら、それでもリュンヌの方へと歩み寄る。危険な気配はなかった。その月の光にどことなく似た声からは、静かな優しさを感じた。
リュンヌに導かれてテントの中に入ると、中央のステージを取り囲むように客席が存在していた。ソフィが思ったよりもテントの中はずっと広かった。こんなにたくさんの客席があるのに、観客はソフィ一人だけのようだ。
「――それでは、お好きな席にお掛けください……さあ、今宵の演目の始まりです!」
ソフィがちょこんと席に着いたのを見届けてリュンヌが宣言し、ステージに星が降り始めた。
「…………!」
ソフィはステージに釘付けになる。
優しいオルゴールの音色に合わせて、満ちては欠ける月の飾りを付けた踊り子たちが優雅なダンスを始めた。ソフィの大好きなバレエとは違った、けれど見ているソフィまで楽しくなるようなダンスだった。知らず知らず、ソフィの体もオルゴールに合わせてゆるやかなリズムを取り始める。
やがてステージの両袖から、小さなピエロたちも姿を現した。衣装を飾る星は、ちかちかと瞬いている。本物の星かもしれない、とソフィは思った。
ピエロたちは跳ねるような動きでステージを移動し、それぞれ綱渡りや空中ブランコ、玉乗りなどを始めた。その隙間を縫うように、踊り子たちはしなやかに舞い続けている。
「……すごーい!」
ソフィが思わず声を上げると、綱の上で逆立ちをしていた星のピエロがぴょんっと片足立ちの体勢に変わり、それからソフィに向けて小さな星をぽーんと放った。星は着地点を知っていたように、ソフィの両手に収まる。小さな星はひんやりとしていた。
「……本物の、星?」
ソフィは両手に包まれた星を見つめ、不思議そうに呟く。ひんやりとしているのに、星は暖かな光を放っていた。
オルゴールの旋律が、これまでと違う調子に変わる。流れ星の音楽のようにソフィには思えた。
ピエロと踊り子たちがステージを去って行き、ぜんまい仕掛けの曲芸師たちが現れた。曲芸師たちはみんな、たくさんの星を自在に操っている。流れ星の音楽に合わせて、ジャグリングされている星々は華やかな光を発した。
ステージを飛び交う流れ星に見惚れているソフィの隣に、いつの間にか先ほどの踊り子の一人が立っていた。ソフィと目が合うと、踊り子は優しくソフィの手を取り、ステージに促す。
「わたしも、行っていいの?」
ソフィが問うと、踊り子はにっこりと頷く。ソフィは顔を輝かせて、踊り子に導かれるままステージに上がった。曲芸師たちはソフィのために、ステージの中央を空ける。オルゴールの旋律は、ソフィがよく知るものに変わった。このところ練習している音楽だ。
まだうまく踊れないけれど――ソフィは少しだけ不安になり、けれど右手に持った小さな星を見やって、頷いた。そして楽しい気持ちのままで、ステップを踏み始める。いつもは足がもつれそうになる箇所も、
「……やった!」
うまく踊れた。ソフィはうれしくなって、先生からのアドバイスを思い出しながら体の隅々まで意識して、けれど楽しみながらステップを踏み続けた。
やがてオルゴールが止み、ソフィもアラベスクのポーズで静止した。
踊り子やピエロ、曲芸師たちから拍手が起こる。拍手の音はきらきらと星が瞬くような音だった。
「ありがとうございます、ソフィアさん、では私たちからも、最後の演目を――」
気付くとステージの端に立っていたリュンヌに、頭上から月の光が注ぐ。
リュンヌは優雅な所作でターンして、ぱちんと指を鳴らした。
それを合図に、どこからともなく純白の天馬が舞い降りてきた。ソフィはテントの天井を見上げる。いつの間にか天井は消え、そこには夜空が広がっているのだった。
音もなく隣に降り立った天馬に、リュンヌはひらりと飛び乗る。
そして、右手をすーっと動かした。その軌跡を追うように、オルゴールの音色を纏った星の光が飛び散った。
「では、ソフィアさん、またいつか――満月の夜に」
リュンヌは不思議な色をした声で言うと、天馬の背をそっと撫でる。天馬は上品に天空へと駆け出した。そのあとを、サーカスの団員たちが次々と追う。
ソフィは夢見心地でそれを見送った。
やがてサーカス団が夜空に消えると、ソフィは中央広場にぽつんと佇んでいた。
「……夢? だけど」
右手を見る。さっき受け取った星が、確かにソフィの手の中で光っている。
「夢、じゃ、ない……楽しかったな」
つん、と星をつっついて、ソフィは幸せそうに笑った。
「よし、帰って、寝よう。それでわたし、ぜったいにプリマ・バレリーナになるんだ!」
ソフィは月夜のランスピレを、家に向かって音もなく駆けた。
夢のようなサーカスの一夜は、その後ソフィとその夢を王都サン・レクラへと運ぶことになる。




