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ノゾミノカゼ -死んだ兄は、馬として家族のもとへ帰ってきた-  作者: ビッグサム


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9/21

第9話 売られたくない、でも

 ◇ 客観視点


 翌朝、三浦は電話を一本かけた。


「まだ生まれて数日です。母馬も仔も無理はさせられません。見るなら馬房の外から。写真はなし。触るのもなし。それでもいいなら」


 長くは話さなかった。


 電話を切ると、三浦は春江たちを見た。


「来ます。昼前に」


「誰だ」


 宗一郎が聞く。


「岸部透です」


 鈴鹿が首を傾げた。


「きしべ、とおる?」


「地方で何頭か持っている馬主です。中央にも挑戦したい。大牧場の高額馬には手が出ない。だから、弱小牧場の血統馬を見る」


「いい人ですか」


 三浦は少しだけ間を置いた。


「悪い人ではない」


「いい人では?」


「馬主です」


 その一言で、事務所の空気が少し冷えた。


 馬主。


 馬を買う人。


 馬に値段をつける人。


 夢を買う人。


 でも、夢だけで金を出す人ではない。


「岸部は血統を見る。歩きも見る。母馬も見る」


 三浦は続けた。


「ただし、風見牧場が困っていることも見る」


 春江の指が、帳簿の端を押さえた。


 ◇ 望視点


 昼前。


 牧場の入口に、車の音がした。


 砂利を踏む音は急がない。


 でも、軽くもない。


 クラウンメアが耳を立てる。


「来る」


「人」


「嫌?」


「分からない」


「近い?」


「まだ」


 俺は母さんの横で立っていた。


 立ちすぎるな。


 見せるために作った立ち姿は、馬を壊す。


 望だったころ、何度も見た。


 人間が「少しだけ」と言って馬を歩かせる。


 「もう一度だけ」と言って立たせる。


 その一度が、あとで脚に来る。


 今の俺は、まだ生まれて数日だ。


 人間の期待に付き合う体じゃない。


 でも。


 今日来る人は、俺に値段をつけるかもしれない。


 売られたくない。


 クラウンメアのそばにいたい。


 鈴鹿の声を聞いていたい。


 父さんが馬房の前まで来るのを、もう少し待ちたい。


 春江が帳簿を閉じずに済むところを見たい。


 でも、売られて金になるなら。


 乾草代が払えるなら。


 鈴鹿の受験料になるなら。


 その時、俺は何を選べばいい。


「坊や」


「うん」


「痛い?」


「少し」


「寝る?」


「まだ」


「立つ?」


「少し」


 母さんは俺の背を舐めた。


 人間は、売るか残すかで迷う。


 母さんは、いつも一つだ。


 生きて。


 それだけ。


 ◇ 客観視点


 岸部透は、三浦と一緒に事務所へ入ってきた。


 四十代半ばくらい。


 黒い上着に、歩きやすそうな靴。


 顔つきは穏やかに見える。


 ただ、目は笑っていなかった。


 冷たいというより、見ることに慣れた目だった。


「岸部です。急にすみません」


 岸部は、相手との距離を測るように頭を下げた。


「お悔やみを申し上げます」


 春江の手が少し止まる。


 宗一郎の拳も膝の上で固くなった。


 岸部は、それ以上は踏み込まなかった。


 ただ、言うべきことだけ言った。


 それから、机の上の血統書へ目を向ける。


「見ても?」


 宗一郎が小さく頷いた。


「どうぞ」


 岸部は血統書を手に取った。


 指先が、クラウンメアの名前で一度止まる。


「クラウンメア」


 声が少しだけ変わった。


「若い頃、一度だけ見ました。いい牝馬でした」


 春江の目が揺れる。


「母系は、まだ残す価値がある」


 岸部はそう言った。


 褒めている。


 でも、甘やかしてはいない。


「父はハルカゼブレイブですか」


 三浦が言う。


「長く脚を使う産駒が出ます」


「ええ。ただ、完成に時間がかかる」


 岸部は血統書を置いた。


「すぐ売れる派手さではない。けれど、見たい血です」


 春江の手が帳簿の上で止まった。


「馬房の外からだけです」


 三浦が言った。


「分かっています。触りません。写真も撮りません」


 岸部は少しだけ間を置く。


「ただ、歩きは見たい」


 三浦が首を横に振った。


「今日は無理です」


「少しだけでも?」


「今日は無理です」


 岸部は引いた。


「分かりました。では、立ち姿だけで」


 ◇ 望視点


 人の気配が近づいてくる。


 三浦さん。


 春江。


 知らない男。


 鈴鹿。


 父さんの杖の音は、少し後ろ。


 馬房の前で、足音が止まった。


 俺はすぐには顔を上げなかった。


 反応するな。


 人を見るな。


 でも、見ないわけにもいかない。


 岸部透。


 背は高すぎない。


 声も大きすぎない。


 でも、立ち方が馬房に慣れている。


 真正面に立たない。


 目をじっと見すぎない。


 手を出さない。


 母さんの逃げる場所を塞がない。


 クラウンメアが耳を動かす。


「人」


「岸部」


「敵?」


「分からない」


「守る?」


「まだ」


 俺は鈴鹿の方へ半歩だけ体を向けた。


 岸部の方へは行かない。


 媚びるために立つんじゃない。


 鈴鹿の横に立つ。


 今は、それだけでいい。


「ノゾ」


 鈴鹿の声が小さくした。


「こっち」


 来い、ではない。


 ただ、呼んだだけ。


 俺は耳だけ動かした。


 行きたい。


 でも、行きすぎるな。


 母さんの肩の横から、鈴鹿の方へ半歩。


 それだけ。


 岸部に近づかない。


 鈴鹿からも離れすぎない。


 俺はそこで止まった。


 ◇ 客観視点


 岸部は声を出さず、口元だけを少し動かした。


「人懐っこいというより、誰を見るか選ぶ馬ですね」


 鈴鹿の手が、袖口で止まった。


 春江が息を止める。


 宗一郎の目が細くなる。


「普通、仔馬はもう少し雑に寄るか、雑に逃げる。この仔は、近づく相手を見ている。母馬を見て、あなたたちを見て、それから自分の場所を決めている」


「偶然では」


 春江が言いかける。


 岸部は否定しなかった。


「偶然かもしれません。ただ、馬を見る時は、偶然を見落とさない方がいい」


 岸部はクラウンメアも見た。


「母馬は疲れている。高齢で難産なら当然です。ただ、仔を離したがっていない。乳も飲めているなら、まずは母馬を崩さないことです」


 三浦が小さく頷いた。


 岸部は、もう一度ノゾミノカゼを見る。


「血統だけなら、欲しい人はいるでしょう。ただ、今すぐ高く買うかと言われると難しい」


 春江の顔が伏せられる。


 宗一郎の拳が固くなる。


 岸部は続けた。


「失礼を承知で言います。今なら、こちらも手を出せる」


 その言葉は、買い叩きではない。


 でも、優しさでもない。


 弱小牧場の事情を分かったうえでの現実だった。


「大牧場の血統馬には、私は手が届きません。ですが、ここなら可能性がある。もちろん、状態次第です」


 鈴鹿が小さく言った。


「ノゾは、可能性だけじゃないです」


 全員が鈴鹿を見る。


 鈴鹿自身も、言ってから驚いた顔をした。


 それでも続けた。


「クラウンの仔です。兄さんが助けた仔です。うちの……馬です」


 最後だけ、少し声が小さくなった。


 岸部は鈴鹿を見た。


 責める目ではなかった。


 値踏みする目でもない。


 ただ、聞いていた。


「分かります」


 岸部は言った。


「大事な馬なら、なおさら曖昧に買えません。値段をつける側も、逃げられませんから」


 鈴鹿は袖を握った。


 でも、目は逸らさなかった。


 岸部は名刺を一枚、机に置いた。


「今日、金額は出しません」


 春江が顔を上げる。


「いいんですか」


「歩きも見ていません。写真も撮っていません。母馬の回復も見ていない。今日値段を出したら、ただの足元見になります」


 三浦の目が少しだけ動いた。


「ただ」


 岸部は名刺を指で押さえた。


「一歳になる前に、また見たい」


 宗一郎が黙る。


「その時、歩かせてください。母馬の回復も、馬体の変化も見たい。値段の話は、それからです」


「待つ、ということですか」


 春江が聞いた。


「待つというより、見ないと決められません」


 岸部はそう言った。


「ただし、その時に馬体が崩れていたら、私は手を引きます」


 鈴鹿の指が、袖口で止まった。


「それでも、もし他へ売るなら、その前に一度だけ連絡をください」


 優しい言葉ではない。


 でも、急がせる言葉でもなかった。


 宗一郎は、ゆっくり頷いた。


「分かりました」


 岸部は馬房へもう一度目を向けた。


 ノゾミノカゼは、鈴鹿の近くに立っている。


 岸部には近づかない。


 岸部は少しだけ笑った。


「高く買いたい馬ではなく、安く買うと後味が悪くなる馬ですね」


 春江が顔を上げる。


「この家から離すなら、理由が要る。そういう馬です」


 鈴鹿の目が赤くなった。


 でも、泣かなかった。


 ◇ 鈴鹿視点


 岸部さんが帰ったあと、鈴鹿はしばらく名刺を見ていた。


 岸部透。


 買うかもしれない人。


 買わないかもしれない人。


 悪い人ではない。


 でも、ノゾを連れていくかもしれない人。


「私のために売られるとか、嫌だからね」


 気づいたら、そう言っていた。


 馬房の前だった。


「受験料とか、進学とか、そういうのに使われるのは嫌」


 声が震えた。


「でも、牧場が潰れるのも嫌」


 どちらも嫌だった。


 子どもみたいなことを言っている。


 自分でも分かる。


 でも、他の言葉がなかった。


「だから、勝手に売られないで」


 ノゾミノカゼは鳴かなかった。


 代わりに、柵の近くまで来た。


 近すぎない。


 触れそうで触れない距離。


 兄さんがよく言っていた距離だ。


 馬に甘えたいなら、まず馬の逃げる場所を残せ。


 鈴鹿は袖を握った。


 でも、今日は少しだけ早く離した。


    ◇ 望視点


「ノゾ」


 鈴鹿が言う。


「残りたい?」


 俺は答えられない。


 でも、体は勝手に動いた。


 俺はクラウンメアの方を見た。


 それから、鈴鹿を見た。


 最後に、事務所の方を見た。


 机の上は見えない。


 名刺がどこに置かれているかも、俺には分からない。


 でも、さっきから紙の音が増えていた。


 知らない男の声。


 三浦さんの短い返事。


 父さんの沈黙。


 春江の息。


 その全部で分かる。


 売る話は、消えていない。


 今日、誰かが俺を買うとは決まらなかった。


 でも、終わったわけでもない。


 俺は売られたくない。


 でも、家族が苦しむなら、ただ嫌だとは言えない。


 鈴鹿が少しだけ笑った。


「……分かんない顔するなあ」


 泣きそうな笑いだった。


 クラウンメアが、俺の背を舐める。


「坊や」


「うん」


「残る?」


「分からない」


「走る?」


「まだ」


「生きる?」


「うん」


「よし」


 母さんは、それで話を終えた。


 強い。


 たぶん、今いちばん正しい。


 残るか。


 売られるか。


 走るか。


 金になるか。


 そんなことは、人間が勝手に悩む。


 馬はまず、生きる。


 俺は鈴鹿の前で、ゆっくり脚を折った。


 今日は立ちすぎた。


「ごめん。寝て。寝ていい」


 命令が遅い。


 でも、まあいい。


 俺は藁に体を預けた。


 食べるためではなく、眠るために顔を寄せる。


 目を閉じる前に、鈴鹿の袖が見えた。


 握られていない。


 ただ、膝の上に落ちている。


 今日ひとつだけ分かった。


 俺は、誰にでも近づく馬ではない。


 家族を選ぶ馬だ。


 それが値段になるのか、厄介さになるのかは分からない。


 分からないけど。


 鈴鹿の横に立ったことだけは、間違いじゃなかった。

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