表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ノゾミノカゼ -死んだ兄は、馬として家族のもとへ帰ってきた-  作者: ビッグサム


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

10/21

第10話 猶予を勝ち取る馬

 ◇ 客観視点


 机の上に、紙が並んだ。


 血統書。


 請求書。


 鈴鹿の進路希望用紙。


 当歳セールの申込資料。


 そして、岸部透の名刺。


 名刺だけは、裏返されずに置かれていた。


 一歳になる前に、また見たい。


 ただし、馬体が崩れていたら手を引く。


 岸部の言葉は、まだ机の上に残っている。


 春江は帳簿を開いたまま、数字をなぞっていた。


 宗一郎は椅子に座り、杖を膝の横に置いている。


 三浦は黙っていた。


 鈴鹿だけが、少し離れた椅子に座っていた。


 制服の袖口を握って、離して、また握る。


「このままだと」


 春江が言った。


「鈴鹿の受験料も危ない」


 鈴鹿の指が止まった。


「ノゾミノカゼを当歳セールに出せば、早く現金になる可能性はある」


 三浦が言う。


「ただし、今は材料が少ない。安く見られる危険もあります」


「一歳まで見るなら?」


 宗一郎が聞いた。


「費用がかかります。母馬の管理、獣医、削蹄、登録、写真、育成先の相談。乾草代も止まりません」


 春江が目を伏せた。


 鈴鹿は立ち上がった。


 椅子の脚が床を擦る。


「鈴鹿」


「ごめん。少しだけ」


 鈴鹿はそれだけ言って、事務所を出た。


 ◇ 鈴鹿視点


 馬房までの通路が、いつもより長かった。


 受験料。


 乾草代。


 当歳セール。


 一歳まで見る。


 頭の中で、言葉だけが回る。


 ノゾを売れば、受験料になるかもしれない。


 でも、そのお金で進学したとして。


 自分は笑えるのか。


 分からない。


 馬房の前で足が止まった。


 クラウンメアが顔を上げる。


 ノゾミノカゼも、母馬の横で立っていた。


 少し眠そうだった。


 昨日も今日も、立ちすぎている。


「ノゾ」


 声が震えた。


「私の未来のために、あんたがいなくなるのは嫌だよ」


 言った瞬間、喉が詰まった。


 売らないでほしい。


 でも、牧場は潰れてほしくない。


 進学も諦めたくない。


 兄さんの牧場も残したい。


 クラウンも、ノゾも、父さんも母さんも、全部失いたくない。


 そんな都合のいいことばかり言っている。


「嫌なんだよ」


 鈴鹿は袖を握った。


「私の受験料のために売られるのも嫌。だからって、牧場が潰れるのも嫌」


 ノゾミノカゼが、ゆっくり近づいた。


 近すぎない。


 でも、届く距離。


 そして、鈴鹿の袖口をそっとくわえた。


 強くはない。


 歯も立てない。


 引っ張りもしない。


 ただ、離さない。


「……行くなってこと?」


 ノゾミノカゼは答えない。


 袖を破らない。


 でも、離さない。


「分かった」


 鈴鹿は小さく言った。


「戻る。戻って、言う」


 ノゾミノカゼは、少し待ってから袖を離した。


 袖口は濡れていた。


 でも、破れていなかった。


    ◇ 望視点


 鈴鹿が馬房へ来た時、足音で分かった。


 逃げてきた足音だった。


 でも、完全に逃げる足音ではない。


 止まる場所を探している足音だった。


 受験料。


 乾草代。


 売る。


 残す。


 事務所の声は全部は聞こえない。


 でも、鈴鹿の声で分かる。


 あいつは、また自分を削ろうとしている。


 俺が売られれば、鈴鹿の未来が少し軽くなる。


 そんなふうに考え始めている。


 違う。


 それは違う。


 いや、完全には違わない。


 だから厄介だ。


 俺は鈴鹿の袖をくわえた。


 強く噛まない。


 引っ張らない。


 破らない。


 止めるだけ。


 望だったころなら、言えた。


 鈴鹿、お前の進路と俺を交換するな。


 牧場を理由に、自分の未来を小さくするな。


 でも、今の俺は馬だ。


 言葉は出ない。


 だから袖を離さない。


「戻る。戻って、言う」


 鈴鹿が言った。


 俺は少しだけ待ってから、袖を離した。


 クラウンメアが鼻を寄せる。


「鈴」


「戻る」


「泣く?」


「少し」


「守る?」


「今は、行かせる」


「よし」


 母さんは、それで納得したように俺の背を舐めた。


 ◇ 客観視点


 鈴鹿が事務所へ戻ってきた時、袖口が少し濡れていた。


 春江はそこを見た。


 宗一郎も気づいた。


 三浦は何も言わなかった。


 鈴鹿は椅子に座らず、机の前に立った。


「すぐ売るのは嫌」


 声は震えていた。


 でも、言葉は切れなかった。


「でも、残すって決めるのも怖い。お金がないのは分かる。受験料が危ないのも、聞いた」


 春江が目を伏せる。


「でも、私のために売られるのは嫌」


 鈴鹿は濡れた袖口を指で押さえた。


「せめて、もう少し見てからにして。ノゾがちゃんと立てるのか、クラウンが回復するのか、岸部さんがまた見たいって言うのか。そういうのを見てからにして」


 宗一郎は黙って聞いていた。


 杖を握る手に力が入る。


 春江は帳簿を見た。


 請求書を見た。


 進路希望用紙を見た。


 それから、馬房の方を見た。


「一歳まで見るのは、簡単じゃない」


 春江が言った。


「途中でお金が足りなくなるかもしれない」


「うん」


「三か月後に数字が合わなければ、私は売る話を戻す」


 鈴鹿の肩が少し動いた。


「うん」


「鈴鹿の進学費用も、別に考える。ノゾを売れば済む、みたいにはしない」


「……うん」


 宗一郎が、ようやく口を開いた。


「当歳セールには出さない」


 春江が顔を上げた。


 三浦も宗一郎を見る。


「一歳の夏まで見る」


 宗一郎は言った。


「ただし、三か月ごとに数字を出す。乾草代が詰まれば、その時点でまた話し合う」


 鈴鹿が息を止める。


 春江はすぐには頷かなかった。


 帳簿の端を押さえる。


 指が白くなる。


「……それは、売らないってことじゃないのね」


「ああ」


 宗一郎は頷いた。


「売らないと決めたわけじゃない。だが、今すぐ売るのはやめる」


 三浦が小さく息を吐いた。


「現実的です」


 春江は、長く目を閉じた。


 それから、ゆっくり頷いた。


「分かった」


 その声は、安心ではなかった。


 請求書は消えていない。


 乾草屋の期限も近い。


 受験料の問題も、まだ机の上にある。


 でも、今日ノゾミノカゼを売る話は消えた。


 少なくとも、当歳セールへ急いで出す話は。


 鈴鹿は、ようやく椅子に座った。


 袖口を見て、小さく笑う。


「破れてない」


 春江が少しだけ目を細めた。


「何が?」


「袖」


 鈴鹿は馬房の方を見た。


「止められた。でも、破られなかった」


 宗一郎も馬房の方を見た。


 ノゾミノカゼは、クラウンメアの横で立っていた。


 少し疲れている。


 それでも、こちらを見ているように見えた。


「望なら」


 宗一郎が言いかけて、今度は止めなかった。


「……たぶん、そういう止め方をしただろうな」


 春江は何も言わなかった。


 三浦も黙っていた。


 ◇ 望視点


 事務所の声は、全部は聞こえなかった。


 でも、空気が変わったのは分かった。


 誰かが勝った空気じゃない。


 借金が消えた空気でもない。


 でも、今すぐ連れていかれる空気ではなくなった。


 俺はクラウンメアの横で、前脚を踏み直した。


 疲れている。


 今日は、もう立ちすぎた。


「坊や」


「うん」


「残る?」


「少し」


「少し?」


「まだ、分からない」


「売る?」


「今は、ない」


「生きる?」


「うん」


「よし」


 母さんは、それで十分だと言うように俺の背を舐めた。


 一歳の夏まで見る。


 そんな声が聞こえた気がした。


 確かではない。


 でも、鈴鹿の足音が戻ってきた時、分かった。


 あいつは、さっきより少しだけ真っ直ぐ歩いていた。


 売られないわけじゃない。


 牧場が助かったわけでもない。


 鈴鹿の受験料が用意できたわけでもない。


 俺はただ、猶予をもらっただけだ。


 それでも。


 今の俺には、それが大きかった。


 俺はゆっくり脚を折った。


 藁に体を預ける。


 目を閉じる前に、鈴鹿の声が聞こえた。


「ノゾ。夏までだって」


 夏まで。


 まだ遠い。


 仔馬の俺には、どれくらい遠いのか分からない。


 でも、明日よりは遠い。


 今日売られるよりは、ずっと遠い。


 俺は小さく鼻を鳴らした。


 夏までに、倒れない。


 飲む。


 寝る。


 出す。


 母さんの腹を空にしすぎない。


 鈴鹿の袖を、もう少しだけ汚す。


 それが、俺にできる最初の仕事だった。


 その夜、事務所の電話が一度だけ鳴った。


 乾草屋からだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ