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ノゾミノカゼ -死んだ兄は、馬として家族のもとへ帰ってきた-  作者: ビッグサム


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11/21

第11話 乾草代の期限

 ◇ 客観視点


 電話は、乾草屋からだった。


 春江は受話器を取ったまま、しばらく黙っていた。


「……はい。分かっています」


 その声で、事務所の空気が変わった。


 机の上には、まだ紙が並んでいる。


 血統書。


 請求書。


 鈴鹿の進路希望用紙。


 岸部の名刺。


 そして、乾草屋の請求書。


 春江の指が、その一枚の上で止まった。


「明後日まで、ですか」


 鈴鹿の肩が揺れる。


 宗一郎が杖を握った。


「次の納品は、入金確認後……はい」


 春江は、一度だけ目を閉じた。


「すみません。明日の朝、こちらから必ず連絡します」


 受話器を置く音は、静かだった。


「乾草屋か」


 宗一郎が聞いた。


 春江は頷いた。


「明後日までに、先月分。払えなければ、次の納品は止まるって」


 鈴鹿が請求書を見た。


「止まるって……クラウンの分も?」


「牧場全部」


 春江は言った。


「クラウンだけじゃない。残っている馬、全部」


 ノゾミノカゼを売らない。


 一歳の夏まで見る。


 その猶予を決めたばかりだった。


 けれど、乾草は待ってくれない。


「在庫は」


 宗一郎が言った。


 三浦が先に動いた。


「見に行きましょう」


 ◇ 望視点


 夜の馬房は、昼より音がよく聞こえる。


 事務所の電話。


 春江の声。


 父さんの杖。


 鈴鹿の息。


 全部が、木の壁を通って落ちてくる。


 乾草屋。


 納品。


 止まる。


 その単語だけで、だいたい分かった。


 まずい。


 俺はまだ乾草を食べない。


 この口が知っているのは、母さんの乳だけだ。


 でも、母さんは違う。


 クラウンメアは食べなきゃいけない。


 食べて、俺に飲ませなきゃいけない。


 乾草が止まるということは、母さんの腹が減るということだ。


 母さんの腹が減れば、俺の乳も減る。


「坊や」


 クラウンメアが、俺の背を舐めた。


「人間、固い」


「お金」


「お金?」


「乾草」


「草?」


「母さんの草」


 母さんの耳が動いた。


「なくなる?」


「かもしれない」


 クラウンメアは飼い桶の方を見た。


 それから、俺を見た。


「坊や、飲む」


「うん」


「母、食べる」


「うん」


「草、要る」


「うん」


 馬の答えは、いつも短い。


 でも、正しい。


 草は要る。


 金も要る。


 俺は立とうとして、脚に力を入れた。


 クラウンメアが鼻で俺の首を押した。


「寝る」


「まだ」


「寝る」


 押し返す力が強い。


 今、俺が立っても乾草代は払えない。


 分かっている。


 でも、何もできないのが腹立たしかった。


 ◇ 客観視点


 乾草小屋の扉を開けると、古い草の匂いが冷たい空気に混じった。


 三浦が先に中へ入る。


 春江が懐中電灯を向けた。


 宗一郎は入口で杖をつき、鈴鹿はその横に立っている。


 積まれた乾草は、思っていたより少なかった。


 奥に数束。


 壁際に崩れかけた束。


 床には、細かい草くずが落ちている。


「……これだけ?」


 鈴鹿が言った。


 三浦が束を数える。


「節約しても、長くは持ちません」


「何日」


 宗一郎が聞いた。


「全部の馬に普通に回せば、数日です。減らせばもう少し持ちますが、母馬には減らせません」


 春江が唇を噛んだ。


「クラウンは減らせない」


「はい。産後です。削る場所を間違えると、仔にも来ます」


 鈴鹿が乾草の束を見た。


 兄がいた頃、この小屋はもっと詰まっていた。


 兄は乾草の束を持つ時、いつも一度だけ膝で受けてから肩に乗せていた。


「私の貯金」


 鈴鹿が言った。


 春江が振り返る。


「鈴鹿」


「少しだけある。お年玉とか、バイト代とか」


「それは使わない」


 春江の声は早かった。


「でも」


「使わない」


 春江は、いつもより強く言った。


「ノゾを売れば済む、みたいにしない。鈴鹿のお金を出せば済む、にも絶対しない」


 鈴鹿は何も言えなくなった。


 宗一郎が、入口で低く言った。


「俺が電話する」


「誰に?」


「乾草屋に。明日の朝じゃなく、今」


「宗一郎さん」


「昔からの付き合いだ。頭を下げるなら、俺が下げる」


 宗一郎の手は、杖の上で震えていた。


 でも、声は逃げていなかった。


 ◇ 望視点


 乾草小屋の方から、人の声が戻ってきた。


 全部は聞こえない。


 でも、鈴鹿の声だけは分かった。


 私の貯金。


 やめろ。


 それは本当にやめろ。


 俺を売るな。


 鈴鹿を削るな。


 父さんも春江も、それを分かっているはずだ。


 分かっていても、金が足りないと、人間は自分の体を少しずつ切ろうとする。


 望だった俺もそうだった。


 自分だけならいい。


 そう思って、何度も夜を詰めた。


 馬房に立った。


 帳簿を隠した。


 鈴鹿の前では笑った。


 その結果が、今だ。


「坊や」


 母さんが俺を見る。


「怒る?」


「怒る」


「誰?」


「俺」


「俺?」


「昔の俺」


「分からない」


「うん。俺も、少し分からない」


 母さんは、俺の額を舐めた。


 それで終わりだった。


 馬は、過去の後悔を長く舐めない。


 今、立てるか。


 今、飲めるか。


 今、生きているか。


 そこへ戻す。


 ◇ 客観視点


 事務所へ戻ると、宗一郎は古い電話帳を開いた。


 春江は止めなかった。


 鈴鹿も黙っている。


 三浦は壁際に立ったまま、口を挟まない。


 宗一郎は番号を押した。


 呼び出し音が三度鳴る。


 四度目で、相手が出た。


「夜分にすまない。風見牧場の宗一郎です」


 春江の指が、帳簿の端で止まる。


「支払いの件で、こちらから話すべきだった。遅れて申し訳ない」


 受話器の向こうで、低い男の声がした。


『うちも、待てるなら待ちたいんです。ただ、仕入れの支払いがある。毎月遅れると、こっちも持たないんですよ』


 宗一郎は目を伏せた。


「分かっている。そちらも商売だ」


 鈴鹿は父の横顔を見ていた。


 父が人に頭を下げるところを、こんなにはっきり見るのは初めてだった。


「全額は、明後日には難しい」


 春江の肩が固まる。


「ただ、半分は明日入れる。残りは三週間以内に払う。これからは、遅れる前に必ず連絡する」


 宗一郎の声は、強くはない。


 でも、逃げていない。


「クラウンが産んだ。仔もいる。乾草を止められると、母馬に来る」


 そこで、宗一郎は一度だけ息を吸った。


「頼む。次の納品を、半分でいい。止めないでくれ」


 長い沈黙があった。


 春江は両手を膝の上で握った。


 鈴鹿は袖を握りそうになって、机の白い紙を押さえた。


 やがて、宗一郎が目を閉じた。


「……助かる」


 春江の息が漏れた。


「明日の午前中に半分。残りは三週間以内。次の納品は半量。分かった。必ず守る」


 受話器を置いた時、宗一郎の手は震えていた。


 けれど、声は最後まで折れなかった。


「半量なら、入れてくれる」


 春江は目を閉じた。


 鈴鹿は、そこでようやく袖を握った。


 でも、すぐに離した。


「父さん」


「何だ」


「ありがとう」


 宗一郎は、すぐには返事をしなかった。


 少しだけ顔を背けて、咳をした。


「礼を言うのは、払ってからだ」


 三浦が小さく笑った。


「その通りです」


 ◇ 望視点


 電話が終わった音がした。


 空気が少しだけ緩んだ。


 乾草の匂いが増えたわけじゃない。


 小屋が満杯になったわけでもない。


 でも、止まる音ではなかった。


 半分。


 三週間。


 納品。


 そんな言葉が聞こえた気がする。


 確かではない。


 でも、春江の息が少し軽くなった。


 鈴鹿の足音も、さっきより沈んでいない。


「坊や」


「うん」


「草、来る?」


「少し」


「少し?」


「でも、来る」


「よし」


 母さんは、それで満足した。


 俺は笑いそうになった。


 馬の世界は、潔い。


 全部じゃなくても、少し来るなら、よし。


 帳簿の数字は、半分では済まない。


 それでも母さんは、少し来るならよし、と言った。


 今夜は、その単純さに救われた。


 俺は母さんの腹の近くへ鼻を寄せた。


 まだ乳の匂いがする。


 乾草が止まらなければ、この匂いも続く。


 俺が明日も飲める。


 母さんが明日も立てる。


 それだけで、今日の勝ちは小さいけれど十分だった。


 鈴鹿の声が、事務所から聞こえた。


「ノゾ、乾草、半分だけ来るって」


 半分。


 まだ足りない。


 でも、ゼロじゃない。


 俺は小さく鼻を鳴らした。


 鈴鹿が笑った気配がした。


 その夜、俺は早く眠った。


 夏まで生きるには、今日の夜を落とせない。


 立つより先に、寝る。


 飲むより先に、母さんを休ませる。


 それくらいしか、今の俺にはできない。


 でも、それを落としたら、夏までもたない。

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