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ノゾミノカゼ -死んだ兄は、馬として家族のもとへ帰ってきた-  作者: ビッグサム


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第12話 父の杖の音

 ◇ 望視点


 夜の厩舎に、杖の音が二回響いた。


 こつん。


 少し間が空く。


 こつん。


 それだけで、俺は目を開けた。


 父さんだ。


 春江の足音はもっと軽い。


 鈴鹿なら、途中で一度立ち止まる。


 三浦さんは、足音より先に咳払いが来る。


 父さんの杖は、床を探すみたいに鳴る。


 クラウンメアが顔を上げた。


「来る」


「父さん」


「痛い?」


「痛い」


「怖い?」


「少し」


 母さんは耳を動かし、俺の背を一度だけ舐めた。


「守る?」


「今日は、いい」


「いい?」


「俺が見る」


 俺は立ち上がろうとして、少しだけ膝が揺れた。


 今日は寝ておくべきだった。


 でも、父さんの足音を聞いて、寝たふりはできなかった。


 こつん。


 また近づく。


 父さんは、馬房の前で止まった。


 寝間着の上に古い上着。


 片手に杖。


 もう片方の手は、柵に届きそうなところで止まっている。


 顔色は悪い。


 でも、逃げてはいない。


「……起こしたか」


 父さんが言った。


 俺は鼻を鳴らした。


 起きた。


 でも、父さんのせいだけじゃない。


 俺も、待っていたのかもしれない。


 父さんは小さく息を吐いた。


「やっぱり、妙な仔だな」


 そう言いながら、俺の脚を見る。


 蹄。


 膝。


 肩。


 首。


 そして、俺の目。


 その順番が、望だった俺の癖と似ていた。


 嫌になる。


 親子だ。


 父さんは俺を見ている。


 俺は父さんの右足を見ている。


 杖を突く時、体重が左に逃げる。


 右足に乗りきれていない。


 腰もかばっている。


 今日の乾草小屋までの往復で、かなり痛めたはずだ。


「……また俺の足を見てるのか」


 父さんが言った。


 しまった。


 俺は慌てて藁に鼻を寄せた。


 食べるためではない。


 ただの仔馬のふりをするためだ。


 遅かった。


 父さんは、低く笑った。


「あいつも、そうだった」


 あいつ。


 望。


 俺のことだ。


「俺が痛いと言う前に、歩き方を見る。杖を出す前に、椅子を寄せる。湿布を貼ったか、薬を飲んだか、うるさかった」


 父さんの手が、柵の上に置かれた。


 節の太い手。


 昔より細い。


 でも、まだ牧場主の手だった。


「俺は、それが嫌だった」


 父さんは馬房の中を見た。


 クラウンメア。


 俺。


 水桶。


 藁。


 夜の黒い木壁。


「息子に世話を焼かれるのが、嫌だった。父親なのに、先に気づかれるのが嫌だった」


 俺は動かなかった。


 母さんも動かない。


 ただ、耳だけが父さんへ向いている。


「だから、礼を言わなかった」


 父さんの声が、少し沈んだ。


「助かった、とも。悪いな、とも。よく見てくれてるな、とも」


 父さんは、柵を握った。


 指先が白くなる。


「俺は、あいつに礼を言わなかった」


 その言葉は、夜の馬房に落ちた。


 藁の上に落ちて、消えなかった。


 言わなくていい。


 そう思った。


 嘘だ。


 本当は、聞きたかった。


 人間だったころに。


 父さんの口から。


 助かった。


 よくやっている。


 ありがとう。


 たったそれだけで、何日かは眠れたかもしれない。


 でも、今さら責めたいわけじゃない。


 父さんも遅かった。


 俺も、言わなかった。


 疲れているなら休め。


 無理するな。


 俺が何とかする。


 そんな言葉ばかりで、父さんがどれだけ悔しかったかは見なかった。


 足は見ていたのに。


 父さんの顔は、見ていなかったのかもしれない。


「坊や」


 クラウンメアが小さく言った。


「痛い?」


「うん」


「父?」


「痛い」


「行く?」


「行く」


 俺は一歩、柵へ近づいた。


 近づきすぎるな。


 父さんを驚かせるな。


 でも、今は逃げるな。


 柵の手前で止まり、鼻先を上げる。


 父さんの手が、まだ柵の上にある。


 届く。


 俺は、父さんの手の甲に鼻を寄せた。


 温かい。


 少し乾いている。


 薬と湿布と、古い木の匂いがした。


 父さんの指が、一瞬だけ震えた。


「……お前」


 声が出かけて、止まる。


 俺はそのまま動かなかった。


 撫でろとは言わない。


 謝れとも言わない。


 ただ、ここにいる。


 それだけを伝える。


 父さんの手が、ゆっくり俺の額へ動いた。


 王冠みたいな白い流星に触れる。


 一度だけ。


 それから、すぐには離れなかった。


「望に」


 父さんが言った。


 声が詰まる。


 俺は鼻を鳴らした。


 続けなくていい。


 でも、続けろ。


 どっちも本音だった。


「望に、頼りすぎた」


 父さんは、ようやく言った。


「鈴鹿にまで、同じことをさせるところだった」


 俺は父さんを見た。


 父さんの目は、馬ではなく、俺の奥を見るようだった。


「進路の紙を見た」


 鈴鹿の進路希望用紙。


 あの折れた紙。


 まだ空欄の多い紙。


「牧場に関係する学校の名前が、いくつか書いてあった」


 父さんは唇を結んだ。


「牧場を嫌ってるわけじゃない。むしろ、まだ見てる」


 夜の厩舎が静かになった。


「だから余計に、縛ったら駄目だ」


 遠くで、どこかの馬が一度だけ鼻を鳴らした。


「俺は明日、学校に電話する」


 父さんは言った。


「鈴鹿の進路面談の日を、ちゃんと聞く。金がないから諦めろ、とは言わない。牧場に残れ、とも言わない」


 杖を握る手に力が入る。


「ただ、あいつが何を選ぼうとしているのか、俺が聞く」


 俺は小さく息を吐いた。


 父さん。


 それでいい。


 遅い。


 遅いけど、それでいい。


 鈴鹿を、帳簿の余白に書くな。


 乾草代の横に並べるな。


 進路は進路として、聞け。


「お前は、どう思う」


 父さんが俺に聞いた。


 答えられるわけがない。


 でも、俺は父さんの手から鼻を離さなかった。


 離さないまま、ゆっくり息を吹いた。


 父さんの指が、少しだけ曲がる。


「……そうか」


 何が伝わったのかは分からない。


 でも、父さんは頷いた。


 クラウンメアが俺の背を舐めた。


「父、行く?」


「まだ」


「痛い」


「うん」


「座る?」


「座らない」


「頑固」


「うん」


 俺がそう返すと、母さんは納得したように鼻を鳴らした。


 父さんは、俺の額から手を離した。


 すぐには歩き出さない。


 杖を持ち直す。


 右足へ体重を乗せようとして、一度だけ失敗する。


 俺は見た。


 父さんも、それに気づいた。


「見るな」


 低い声だった。


 怒ってはいない。


 俺は耳だけ動かした。


 見る。


 見ないふりはしない。


 父さんは、短く笑った。


「本当に、嫌な仔だな」


 それは、たぶん褒め言葉だった。


 父さんは一歩下がる。


 こつん。


 杖の音が鳴る。


 今度は、入ってきた時より少しだけまっすぐだった。


「明日、鈴鹿に言う」


 父さんは背中を向けたまま言った。


「兄貴の代わりにしない。牧場の穴埋めにも使わない。そう言う」


 俺は鼻を鳴らした。


 少し強く。


 父さんは振り返らなかった。


 でも、肩が少しだけ揺れた。


「……うるさい」


 こつん。


 こつん。


 杖の音が遠ざかっていく。


 夜の厩舎に、また静けさが戻った。


 クラウンメアが俺の首を舐める。


「坊や」


「うん」


「寝る」


「うん」


「父、痛い」


「うん」


「でも、来た」


「来た」


 俺は藁に脚を折った。


 今日はもう、できるだけ立たない。


 父さんが来た。


 礼を言えなかったと、言った。


 鈴鹿の進路を聞くと、言った。


 それだけで、全部が良くなるわけじゃない。


 乾草代は残っている。


 岸部の名刺も机にある。


 夏までの猶予も、条件付きだ。


 でも、父さんの杖の音は、行きより少しだけ前へ出ていた。


 それだけは、確かだった。


 目を閉じる前に、俺は父さんの手の匂いを思い出した。


 湿布と薬と、古い木の匂い。


 昔から知っている匂いだった。


 遅すぎる言葉だった。


 でも、手は冷たくなかった。


 それだけで、今日は寝られる気がした。

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