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ノゾミノカゼ -死んだ兄は、馬として家族のもとへ帰ってきた-  作者: ビッグサム


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第13話 鈴鹿、進学を消す

 ◇ 鈴鹿視点


 消しゴムの角が、紙の上で止まった。


 第一希望。


 農学部・動物資源科学系。


 第二希望。


 畜産科学系。


 どちらも、自分の字だった。


 昨日までなら、もう少しだけまっすぐ見られた。


 兄さんがいた頃なら、たぶん怒られた。


『字、薄い。出すならちゃんと書け』


 そう言って、横から勝手に赤ペンを持ってきたと思う。


 机の上には、進路希望用紙。


 横には、乾草屋の請求書の写し。


 わざと並べた。


 見ないふりをしないために。


「……無理じゃん」


 声に出すと、思っていたより低かった。


 進学したい。


 馬の体のことを勉強したい。


 飼料のことも、繁殖のことも、壊れない育て方も、ちゃんと学びたい。


 でも、今の風見牧場は、乾草代を半分払うだけで息が止まりかけている。


 兄さんはいない。


 父さんは腰を痛めている。


 母さんは帳簿の前で笑わなくなった。


 ノゾは売られない猶予をもらっただけ。


 だったら。


 自分だけが、何年も先の未来を紙に書いていいのか。


 鈴鹿は消しゴムを紙に当てた。


 農学部、の「農」の横。


 こすれば消える。


 字が薄くなれば、諦める準備ができる気がした。


 でも、手が動かなかった。


「……兄さんなら、怒ったかな」


 答えはない。


 鈴鹿は進路希望用紙を折った。


 折り目は、前より増えた。


 それを胸に抱えて、部屋を出た。


 ◇ 望視点


 朝の馬房は、まだ少し冷えていた。


 クラウンメアは立ったまま、ゆっくり乾草を噛んでいる。


 半分だけ来る乾草。


 全部じゃない。


 でも、ゼロじゃない。


 母さんが食べる。


 俺が飲む。


 それだけで、少しだけ世界が続く。


 足音がした。


 軽い。


 でも、今日は止まり方が変だ。


 馬房の前まで来るのに、何度も止まる。


 鈴鹿だ。


「来る」


 クラウンメアが言った。


「鈴鹿」


「痛い?」


「たぶん」


 俺は顔を上げた。


 鈴鹿は、兄の古い牧場ジャンパーを着ていない。


 制服でもない。


 部屋着の上に、薄い上着。


 でも、袖口は握っている。


 片手に、折れた紙。


 あれはたぶん、進路希望用紙だ。


「ノゾ」


 声が低い。


 本当に泣きそうな時の声だ。


「ちょっと、聞いて」


 聞く。


 言葉は返せないけど、聞く。


 俺は母さんの横から半歩だけ前に出た。


「行く?」


「行く」


「守る?」


「少し」


「よし」


 鈴鹿は柵の前にしゃがんだ。


 折れた紙を膝の上に広げる。


 俺の位置から、文字ははっきり読めない。


 でも、線の位置で分かる。


 第一希望。


 第二希望。


 そこに何かが書いてある。


 そして、鈴鹿の右手には消しゴムがあった。


 嫌な予感がした。


 ◇ 鈴鹿視点


「ここ」


 鈴鹿は紙を見せた。


「第一希望。農学部。動物資源科学系」


 声にすると、胸が痛くなった。


「第二希望。畜産科学系」


 ノゾミノカゼの耳が動く。


 分かっているのか、分かっていないのか。


 でも、その目で見られると、嘘がつけなくなる。


「兄さんには、言ってなかった」


 鈴鹿は紙の端を握った。


「言ったら、応援されるから。絶対。あの人、そういうところあるから」


 笑おうとして、失敗した。


「でも、今は無理だよ」


 消しゴムを紙に当てる。


 今度は、少しだけ動いた。


 紙の表面が白く毛羽立つ。


 農、の字の端が薄くなる。


 その瞬間。


 ノゾミノカゼが、柵の隙間から首を伸ばした。


 鈴鹿の袖口をくわえた。


 昨日より、少しだけ強い。


 痛くはない。


 でも、はっきり止められた。


「……やめろってこと?」


 ノゾは鳴いた。


 短く。


 鈴鹿の手から、消しゴムが落ちた。


 床で小さく跳ねる。


「分かんないよ」


 声が震えた。


「兄さんがいないんだよ」


 ノゾは袖を離さない。


「父さんも母さんも、無理してる。乾草代だって払えてない。ノゾだって、売るかどうかまだ分からない。なのに、私だけ進学したいとか、言えるわけないじゃん」


 言葉が止まらなかった。


「兄さんなら言うよ。行けって。たぶん言う。言うの分かってる。でも、その兄さんがいないんだよ」


 鼻の奥が熱くなる。


 袖で拭こうとして、できなかった。


 ノゾが、袖をくわえているから。


「離してよ」


 ノゾは離さない。


 強く引っ張るわけじゃない。


 ただ、消しゴムを拾わせない。


 紙を消させない。


 それだけをしている。


「……ずるい」


 鈴鹿は、ようやく泣いた。


 声は出さなかった。


 でも、涙が紙の端に落ちた。


 消しかけた「農」の横に、小さな丸い跡ができた。


 ◇ 望視点


 鈴鹿の袖をくわえた。


 昨日より少し強く。


 でも、破らない。


 傷つけない。


 止めるだけ。


 農学部。


 動物資源。


 畜産。


 その単語を、鈴鹿の口から聞いた。


 そうか。


 お前、そこまで考えていたのか。


 牧場から逃げたいんじゃない。


 牧場に戻るために、外へ出ようとしていたのか。


 なのに、消そうとしている。


 乾草代のせいで。


 俺のせいで。


 兄さんがいないから、と言って。


 違う。


 消すな。


 お前の進路を、俺の死で消すな。


 俺は袖を離さなかった。


 今だけは、聞かない。


 望だったころなら、もっとひどい言い方をしたかもしれない。


 馬鹿か。


 そんなもん消したら怒るぞ。


 牧場を理由にするな。


 俺を理由にするな。


 でも、今の俺には言葉がない。


 だから、袖をくわえる。


 消しゴムから遠ざける。


 紙から少しだけ離す。


 それしかできない。


「坊や」


 クラウンメアが言った。


「鈴、泣く」


「うん」


「守る?」


「守る」


「噛む?」


「噛まない」


「よし」


 母さんはそれで納得した。


 鈴鹿の涙が、紙に落ちた。


 俺は袖を離した。


 でも、すぐに鼻先を紙へ寄せた。


 読めない。


 細かい字は読めない。


 でも、消えかけた場所は分かる。


 俺はそこに、鼻先をそっと押しつけた。


 紙が少ししわになる。


 鈴鹿が息を止めた。


「ノゾ」


 俺は顔を上げる。


 鈴鹿を見る。


 消すな。


 それだけだ。


 伝わるかは分からない。


 でも、今の俺にできることは、それだけだ。


 ◇ 客観視点


 春江が馬房へ来たのは、その少し後だった。


 鈴鹿は柵の前に座っていた。


 膝の上には、進路希望用紙。


 床には、消しゴム。


 袖口は少し濡れて、ノゾミノカゼの唾で色が濃くなっている。


 春江は、すぐには声をかけなかった。


 紙を見た。


 消えかけた第一希望の文字を見た。


 鈴鹿の赤い鼻を見た。


 それから、ノゾミノカゼを見た。


「……消そうとしたの」


 鈴鹿は答えなかった。


 答えないまま、紙を握った。


 春江はしゃがんだ。


「鈴鹿」


「分かってる」


 鈴鹿の声は低かった。


「分かってるけど、分かんない」


 春江は、手を伸ばしかけて止めた。


 代わりに、床の消しゴムを拾った。


 それを鈴鹿に渡さず、自分の手の中に握った。


「今日は、消さなくていい」


「でも」


「今日は」


 春江の声は強くなかった。


 でも、逃げ道を塞ぐ声でもなかった。


「今日は、消さなくていい」


 鈴鹿は下を向いた。


 涙がまた落ちた。


 ノゾミノカゼは、柵の内側でじっと立っている。


 クラウンメアが、その背を舐めた。


「お父さん、学校に電話するって言ってた」


 春江が言った。


 鈴鹿の肩が動く。


「進路面談の日、ちゃんと聞くって。牧場に残れとも、諦めろとも言わないって」


「……父さんが?」


「うん」


 鈴鹿は紙を見た。


 消えかけた農学部の文字。


 涙の跡。


 ノゾミノカゼの鼻先で少ししわになった端。


 その全部を見て、紙を折らなかった。


 ただ、胸に押しつけた。


「締切」


 鈴鹿が言った。


「明後日」


 春江の表情が少し固まった。


 ノゾミノカゼが耳を動かす。


 乾草代の次は、進路希望用紙の締切。


 春江は、握っていた消しゴムを鈴鹿には返さなかった。


「じゃあ、明日、学校で聞いてきなさい」


「何を」


「消す前に、何を選べるのか」


 鈴鹿は返事をしなかった。


 でも、進路希望用紙を離さなかった。


 ◇ 望視点


 締切。


 明後日。


 また期限だ。


 乾草代。


 夏までの猶予。


 岸部の名刺。


 今度は、鈴鹿の紙。


 人間の世界は、締切ばかりだ。


 馬の俺には、カレンダーは読めない。


 でも、鈴鹿の指の力で分かる。


 明後日は、近い。


 俺は柵の内側で、息を吐いた。


 進路を消すな。


 でも、ただ残せと言うだけでは足りない。


 金がいる。


 時間がいる。


 父さんが学校に電話する。


 春江が消しゴムを拾って、鈴鹿には返さなかった。


 鈴鹿は紙を折らなかった。


 今日の勝ちは、それだけだ。


 でも、それでいい。


 俺は脚を折った。


 今日は立ちすぎる前に寝る。


 そう決めた。


 クラウンメアが俺を舐める。


「鈴、消す?」


「今日は、消さない」


「明日?」


「分からない」


「守る?」


「守る」


「寝る?」


「寝る」


「よし」


 母さんはいつも、最後はそこへ戻す。


 寝る。


 飲む。


 生きる。


 そして、守る。


 俺は藁に体を預けた。


 目を閉じる前に、鈴鹿の袖が見えた。


 濡れていた。


 破れてはいなかった。


 消しゴムは、鈴鹿の手にはない。


 進路希望用紙は、鈴鹿の胸にある。


 明後日までに、答えを出さなきゃいけない。


 俺は小さく鼻を鳴らした。


 兄としてなら、怒鳴れた。


 馬としてなら、袖をくわえるしかない。


 それでも。


 消しかけた文字は、まだ全部は消えていなかった。

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