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ノゾミノカゼ -死んだ兄は、馬として家族のもとへ帰ってきた-  作者: ビッグサム


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第8話 売るしかない馬

 ◇ 客観視点


 血統書が、帳簿の横に置かれた。


 その二枚が並んだだけで、事務所の空気が変わった。


 血統書には、クラウンメアの名前がある。


 父馬の名前がある。


 祖父、母の母、さらにその奥に続く馬たちの名前がある。


 走った馬。


 走らなかった馬。


 高く売れた馬。


 誰にも見られず消えた馬。


 人間は、それを線でつないで、値段をつける。


 春江は椅子に座っていた。


 背筋は伸びている。


 でも、右手だけが帳簿の端を押さえていた。


 紙がめくれないように、ではない。


 手が震えないように。


「クラウンの仔だもの」


 春江が言った。


「血統だけ見れば、安く見る仔じゃない」


 宗一郎は答えなかった。


 事務所の奥で、杖を膝の横に置いている。


 顔色はまだ悪い。


 それでも、今日は馬房の方を見ていた。


 昨日より、目を逸らす時間が短い。


 三浦は血統書を見た。


 帳簿を見た。


 それから、分娩房の中にいるノゾミノカゼを見た。


 ◇ 望視点


 事務所から、紙の擦れる音がした。


 俺の位置から、文字は読めない。


 机の上に何が置かれているかも、はっきりとは見えない。


 でも、音で分かる。


 帳簿だ。


 望だったころ、夜中に何度も聞いた音。


 乾草代。


 獣医代。


 削蹄。


 修繕費。


 電気代。


 借入の返済。


 数字は声を出さない。


 でも、人間の手を止める。


 クラウンメアが、俺の背を一度舐めた。


「坊や」


「うん」


「紙」


「見る」


「踏む?」


「踏まない」


「大事?」


「大事」


 母さんは納得したように鼻を鳴らした。


 馬にとって紙は、踏むか、避けるか、そのくらいのものだ。


 でも、人間は違う。


 薄い紙一枚で、馬を残すか売るか決める。


「売れば」


 春江の声が聞こえた。


「乾草代は払える。相馬先生にも、きちんと払える。鈴鹿の受験料も……少しは」


 鈴鹿。


 その名前で、廊下の方の足音が止まった。


 軽い足音だった。


 学校から帰ってきたところだ。


 たぶん、事務所の前に立っている。


 俺には見えない。


 でも、息を止めたのは分かった。


「このまま残すなら、育成までのお金がいる。体調を崩せば、もっとかかる。セリに出すにしても、そこまで持たせないといけない」


 セリ。


 その言葉で、廊下の空気が硬くなった。


 三浦さんの低い声が続く。


「当歳セールという手もあります」


「当歳セール」


「生まれて間もない仔馬に、将来の値段がつく場所です」


 将来の値段。


 嫌な言葉だ。


 でも、正しい。


 走る前の馬に、人間が値段をつける。


 骨格。


 血統。


 歩き方。


 母馬。


 父馬。


 牧場の信用。


 全部を見て、まだ走ったこともない命に札がつく。


 望だったころの俺は、それを何度も見てきた。


 売る側でも。


 見送る側でも。


 悔しいほど、値段は正直な時がある。


 そして、正直なだけで優しくはない。


「当歳で出せば、早く現金化できます」


 三浦さんは続けた。


「ただし、まだ見せる材料が少ない。安く見られる危険もあります」


「じゃあ、個別に買ってくれる人を探す方が」


「それもあります。ただ、急ぐと足元を見られる」


 足元。


 嫌な言葉だ。


 父さんの足。


 春江の帳簿。


 鈴鹿の進路。


 全部、今の風見牧場の足元だ。


 見られたくないところばかりだ。


「夢を見るにも、お金がいるの」


 春江が言った。


 その声は、泣いていなかった。


 だから余計に痛かった。


「この仔が走るかもしれない。牧場を変えるかもしれない。そう思いたい。でも、思うだけじゃ乾草は買えない」


 廊下で、小さく息を吸う音がした。


 鈴鹿だ。


 兄のジャンパーの袖を握っている気がした。


 やめろ。


 握るな。


 今は握ってもいいけど、全部自分のせいにするな。


 俺は鼻を鳴らした。


 クラウンメアが俺を見る。


「坊や」


「鈴鹿」


「痛い?」


「たぶん」


「行く?」


「まだ」


 俺は動けない。


 馬房を出て、鈴鹿の袖をくわえることはできない。


 今できることは、立つことだけだ。


 春江の言葉を聞きながら。


 父さんの沈黙を聞きながら。


 鈴鹿の息を聞きながら。


 俺は、前脚をそろえた。


 揺れるな。


 膝を折るな。


 首を上げすぎるな。


 仔馬らしく。


 でも、頼りなく見せるな。


 すぐ売るしかない馬じゃない。


 もう少し見たいと思わせろ。


 ◇ 客観視点


 三浦の目が、ノゾミノカゼの脚で止まった。


 長くは見ない。


 だが、蹄から膝、肩、首へ、順番に視線を上げる。


「……立ち方は悪くない」


 春江が顔を上げた。


 宗一郎も、馬房を見た。


 クラウンメアが、仔の背を舐める。


 ノゾミノカゼは、母馬の横で立っていた。


 まだ細い。


 まだ危うい。


 それでも、腹を落とさず、前へ倒れず、じっと事務所の方を聞いている。


 三浦はしばらく黙っていた。


「無理はさせられません。でも、この仔は様子を見る価値があります」


 その一言で、事務所の空気が少しだけ変わった。


 売れば金になる。


 残せば金がかかる。


 その間に、細い板が一本だけ渡された。


 様子を見る価値。


 完全な救いではない。


 でも、ゼロではない。


 宗一郎が、ようやく口を開いた。


「三浦」


「はい」


「当歳セールに出すなら、いつまでに決める」


「申し込みの準備は早い方がいいです。写真も要ります。状態も整えなきゃならない。ただ、今日明日で決める話ではありません」


「個別に売るなら」


「相手を選ぶ必要があります。血統を見てくれる人。クラウンメアを知っている人。安く買い叩くだけの相手は避ける」


 宗一郎は黙った。


 血統書を見る。


 帳簿を見る。


 それから、馬房を見る。


 ノゾミノカゼの脚。


 首。


 額。


 王冠みたいな白い流星。


 クラウンメアと同じ模様。


 鈴鹿が好きだと言った模様。


「望なら」


 宗一郎が言いかけて、止めた。


 春江が少しだけ顔を伏せる。


 廊下の向こうも静かになる。


 宗一郎は、言葉を選び直した。


「……あいつなら、売るなと言っただろうな」


 馬房の中で、ノゾミノカゼが鼻を鳴らした。


 低く、短く。


 宗一郎の目が、仔馬に止まる。


「……違うのか」


 春江が宗一郎を見る。


「何が?」


「いや」


 宗一郎は目を伏せた。


「今、違うと言われた気がした」


 三浦が、ノゾミノカゼをじっと見る。


 仔馬は藁に鼻を寄せていた。


 食べているわけではない。


 急に、ただの仔馬のふりをしたように見えた。


「この仔、やっぱり変だな」


「変?」


 春江の声が揺れる。


「悪い意味ではありません。人の声に反応しすぎる」


 三浦は、少しだけ間を置いた。


「ただ、だからこそ、雑に売る馬じゃない」


 春江の手が、帳簿の上で止まった。


 宗一郎は、ゆっくり息を吐く。


「今日決めたら、金に決めさせることになるな」


 三浦は頷いた。


「はい」


 金に決めさせる。


 今の風見牧場には、いちばん怖いことだった。


 春江は帳簿を閉じなかった。


 閉じずに、血統書の横へ置いた。


「じゃあ、何を見ればいいの」


 三浦はすぐ答えた。


「期限です」


「期限?」


「いつまで様子を見るか。その間に何を確認するか。売る場合の候補。残す場合の費用。その材料を出す」


 宗一郎が頷く。


「家族で話さないといけないな」


 家族。


 その言葉で、廊下にいた鈴鹿が動いた。


 ◇ 鈴鹿視点


 聞くつもりじゃなかった。


 玄関で靴を脱いで、鞄を置いて、ただ馬房へ行くつもりだった。


 でも、母さんの声が聞こえた。


 売れば。


 乾草代。


 相馬先生。


 受験料。


 その単語が、廊下で足を止めた。


 鈴鹿は袖口を握っていた。


 今日は兄のジャンパーではない。


 制服の袖だ。


 それでも、握り方は同じだった。


 聞いてしまった。


 聞こえたのに、聞こえなかったふりはできなかった。


 血統書が机にある。


 帳簿もある。


 ノゾミノカゼの名前はまだ紙の上にないのに、もう値段の話になっている。


 鈴鹿は、事務所の入口に立った。


「私も、聞いていい?」


 母さんがすぐに言った。


「鈴鹿、これは」


「私の受験料の話、してた」


 母さんが黙る。


 鈴鹿は一歩入った。


「聞こえた。聞こえたから、聞いてないふりはしない」


 父さんが目を伏せた。


 三浦さんは口を挟まない。


 鈴鹿は血統書を見た。


 帳簿を見た。


 それから馬房のノゾミノカゼを見た。


 ノゾミノカゼは、クラウンメアの横で立っていた。


 まだ小さい。


 まだ細い。


 でも、なぜか逃げない。


 兄さんみたいに、逃げない。


「売れば、楽になるの?」


 誰もすぐには答えなかった。


 母さんの手が止まる。


 父さんは杖を握る。


 三浦さんも黙る。


「売れば、少し息はできる」


 三浦さんが言った。


「でも、それで全部解決するわけじゃない」


 鈴鹿は頷いた。


 泣かなかった。


 鼻の頭だけが熱かった。


「じゃあ、聞く」


 母さんが何か言おうとした。


 鈴鹿は先に言った。


「進学をやめるって言ってない。牧場に残るって決めてもいない。でも、知らないまま決められるのは嫌」


 あの進路希望用紙には、まだ答えを書けていない。


 保留。


 未定。


 その続きだった。


 鈴鹿は、逃げていない。


 でも、縛られようとしているわけでもない。


 父さんが、低く言った。


「座れ」


 鈴鹿の目が少し開く。


「いいの?」


「聞いたなら、座れ」


 鈴鹿は椅子に座った。


 袖を握ったまま。


 でも、逃げるような座り方ではなかった。


 ◇ 客観視点


 三浦が机の白い紙を一枚引いた。


 まだ何も書かれていない紙だった。


 鈴鹿が反射でペンを取る。


 三浦が少しだけ笑った。


「今日は、まだ全部は決めません」


 鈴鹿の手が止まる。


「決めないんですか」


「決めるための材料を出します。足りないものを見つける日です」


 春江が小さく息を吐いた。


 宗一郎が頷く。


 三浦は紙の端を指で押さえた。


「当歳セールに出す場合。個別に売る場合。残す場合。鈴鹿の進学費用。全部、数字を出す必要があります」


 鈴鹿は、ゆっくりペンを動かした。


 当歳セール。


 個別売却。


 残す。


 進学費用。


 四つの言葉が、同じ紙に並んでいく。


 血統書の横に、鈴鹿の進学費用が書かれた紙が置かれた。


 誰も、その紙を端へ寄せなかった。


 馬房の中で、クラウンメアが仔の首に鼻を寄せる。


「今夜、数字を出すわ」


 春江が言った。


「鈴鹿の受験料も、牧場の支払いも、ノゾミノカゼを残す場合も」


 宗一郎が頷いた。


「俺も見る」


 春江が宗一郎を見る。


 宗一郎は少しだけ目を逸らした。


「見ないと、また望に怒られる」


 鈴鹿は、白い紙を見つめていた。


 袖から手を離して、ペンを持ち直す。


「今日、売るとも残すとも言えるだけの材料はなかった」


 小さな声だった。


「でも、見ないふりもしない」


 三浦が頷いた。


「それでいい」


 今日、売るとも残すとも言えるだけの材料はない。


 ただ、血統書と帳簿と鈴鹿の進学費用が、同じ机に置かれた。


 それは小さい。


 苦い。


 でも、前に進んだ。


 三浦が、春江と宗一郎を見た。


「明日、血統を見たいという人間に声をかけてもいいですか」


 春江が顔を上げる。


「買い手ですか」


「買い手になるかどうかは、向こうがこの仔を見てからです」


 鈴鹿のペンが止まる。


「信用できる人ですか」


 三浦は少しだけ考えた。


「悪い人ではない」


「いい人ですか」


「いい人だから高く買う、とは限らない」


 馬主は慈善家ではない。


 明日来る人間も、ノゾミノカゼを見るなら値段をつける。


 ただ、弱みから入る相手ではない。


 三浦は続けた。


「声をかけるだけです。実際に見せるかどうかは、明日の朝の状態を見て決めます」


 馬房の方を見る。


「無理はさせない」


 宗一郎が頷いた。


 春江も。


 鈴鹿も。


 ◇


 話が、少しだけ静かになった。


 誰かが泣いたわけじゃない。


 誰かが勝ったわけでもない。


 ただ、机の上に置くものが増えた。


 血統書。


 帳簿。


 鈴鹿の進学費用。


 俺には見えない。


 でも、声で分かる。


 今すぐ売るとは決まらなかった。


 残すとも決まらなかった。


 材料が足りない。


 だから、見る。


 聞く。


 数字を出す。


 それだけだ。


 俺は、ようやく脚を折った。


 藁が少し跳ねる。


 クラウンメアがすぐに俺を舐めた。


「寝る」


「うん」


「飲む?」


「あとで」


「生きて」


「うん」


 母さんの言葉は短い。


 でも、全部そこに戻る。


 売るか。


 残すか。


 セリか。


 個別に売るか。


 帳簿か。


 受験料か。


 人間はたくさん言葉を並べる。


 母さんは一言だけだ。


 生きて。


 俺は藁の上で目を閉じた。


 明日、俺に値段をつける人間が来るかもしれない。


 でも、今日ひとつだけ変わった。


 俺の値段を、家族の未来から切り離して決めない。


 鈴鹿の進学費用も。


 春江の帳簿も。


 父さんが見ないふりをしてきた数字も。


 母さんの疲れた腹も。


 どれも、机の端には寄せられなかった。


 それが苦しくても。


 それが、風見牧場の家族だった。

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