第7話 クラウンメアの罪
相馬先生が帰ったあとも、クラウンメアは分娩房の入口を見ていた。
首を上げる。
耳を向ける。
鼻を鳴らす。
そして、俺を見る。
「坊や」
「うん」
「人間、来ない」
俺は返事に詰まった。
母さんが待っているのは、毎日この馬房に来ていた人間だ。
水を替えて、首を撫でて、夜になると「また明日」と言っていた男。
俺だ。
でも、分娩房の入口から、望はもう戻ってこない。
俺はここにいる。
クラウンメアの仔として。
でも、望としては戻れない。
「来ない」
クラウンメアは、もう一度言った。
人間の死を、馬がどこまで分かるのかは知らない。
でも、いなくなったことは分かる。
毎日来ていた足音。
水桶を替える手。
首筋を撫でる指。
出産の夜、自分のそばに立った人間。
それが消えたことは、分かる。
「痛い」
クラウンメアが言った。
「怖い」
俺は鼻を寄せた。
「母さん」
クラウンメアの耳が動く。
「俺は、いる」
「坊や、いる」
「うん」
「人間、消えた」
「……うん」
それ以上は言えなかった。
言えるわけがなかった。
消えた人間は、俺だ。
でも、それをこの母さんに伝える口がない。
馬の口は、人間の言葉を作れない。
俺はただ、クラウンメアの首に鼻を押しつけた。
母さんの体は温かい。
ただ、出産の疲れはまだ抜けていない。
腹のあたりに力が足りない。
立っているだけで、少しずつ息が深くなる。
それでも母さんは、俺の前に立つ。
入口を見る。
俺を見る。
また入口を見る。
自分が何をしたのか、完全には分かっていない。
でも、何かを壊したことだけは感じている。
「母さん」
「坊や」
「寝て」
「守る」
「俺、いる」
「守る」
だめだ。
聞かない。
母馬はそういうものだ。
仔が立っている限り、自分も立とうとする。
望だった頃の俺なら、こういう時は刺激を減らした。
人を近づけすぎない。
大きな声を出さない。
母馬の逃げ道を塞がない。
仔を無理に触らせない。
だから、俺は馬房の真ん中には立たなかった。
クラウンメアの肩の少し横。
入口に近すぎず、母さんから離れすぎない場所。
誰かが来ても、母さんが跳ねない位置。
しばらくして、通路の方から足音がした。
軽い。
でも、途中で何度も止まる。
鈴鹿だ。
俺は耳を向けた。
クラウンメアの体が硬くなる。
「来る」
「鈴」
「怖い?」
「大丈夫」
俺は一歩だけ前に出て、すぐ止まった。
近づきすぎると、鈴鹿が怖がる。
前に出すぎると、母さんが俺を守ろうとする。
だから、母さんの肩の横。
鈴鹿の手が届くか届かないかの場所に立った。
馬房の前で、足音が止まる。
鈴鹿は、すぐには入ってこなかった。
木の柵の向こうで、息を吸う音がする。
「……クラウン」
その呼び方は、震えていた。
俺は鈴鹿を見た。
兄の古い牧場ジャンパーを着ている。
袖が長い。
右手が、袖口を丸めている。
泣く時の癖だ。
まだ泣いてはいない。
でも、泣く直前の握り方だった。
馬房の入口脇で、三浦さんが柵に手を置いた。
「鈴鹿、肩より後ろには入るな。触るなら首だけだ」
「……はい」
「怖くなったら、すぐ下がれ。クラウンを責めるために入るんじゃない。挨拶するだけだ」
鈴鹿は小さくうなずいた。
通路の奥で、紙を伏せる音がした。
春江は何も言わなかった。
◇ 鈴鹿視点
クラウンメアを見ると、胸の奥が痛くなった。
悪いのはクラウンじゃない。
そう思おうとするたび、あの夜の音が先に戻ってくる。
鈍い音。
倒れた兄。
藁に落ちた手。
名前を呼んでも、返事がなかったこと。
兄さんは、クラウンを助けようとして分娩房に入った。
クラウンが苦しんでいたから。
仔馬が危なかったから。
兄さんなら、入る。
絶対に入る。
何度考えても、そこだけは変わらない。
でも。
それでも。
クラウンメアの後ろ脚が跳ねた瞬間を、鈴鹿は忘れられない。
だから馬房の前まで来ても、足が動かなかった。
クラウンメアは、こちらを見ている。
大きな目。
少し疲れた首。
その前に、ノゾミノカゼが立っていた。
小さい。
まだ細い。
でも、妙にまっすぐ立つ仔だ。
兄さんみたいに、誰かと誰かの間に立とうとする。
「……どいて」
鈴鹿は小さく言った。
ノゾミノカゼは動かなかった。
怒っているようには見えない。
止めているようにも見えない。
ただ、見ている。
鈴鹿は袖を握った。
兄さんのジャンパーの袖。
何度も握ったせいで、少し伸びている。
「分かってる」
鈴鹿は、誰に言ったのか分からないまま言った。
「あなたのせいじゃ……」
そこまで言って、口が止まった。
簡単には言えなかった。
兄さんが倒れた音を、まだ覚えている。
藁に落ちた手を、まだ覚えている。
でも、クラウンメアの首は温かそうだった。
生きている。
兄さんが助けようとした命が、ここにいる。
鈴鹿は柵に手をかけた。
三浦さんに言われた通り、真正面からは入らない。
声をかける。
相手の耳を見る。
肩より後ろには行かない。
兄さんにも同じことを言われたことがある。
馬は悪くない。
でも、馬は大きい。
怖いと思った時、人間の都合なんて待ってくれない。
鈴鹿は、ゆっくり馬房の中へ入った。
一歩。
藁が靴の下で鳴った。
二歩。
クラウンメアの鼻が動く。
ノゾミノカゼが、半歩だけ横にずれた。
まるで、通れる場所を作るみたいに。
鈴鹿は手を伸ばした。
けれど、指先が首筋に触れる前に止まった。
あの夜の音が戻る。
兄さんの体が藁に落ちた音。
鈴鹿は奥歯を噛んだ。
それでも、手を下ろさなかった。
指先が、クラウンメアの首筋に触れる。
温かかった。
思っていたよりずっと。
生きている温度だった。
「……全部、あなたのせいじゃない」
やっと、それだけ言えた。
声にした瞬間、喉が詰まった。
「兄さんは、たぶん怒らない」
本当は分からない。
兄さんがここにいたら、何と言うか。
でも、鈴鹿には分かる気がした。
兄さんなら、きっと困った顔で言う。
クラウンばかり見るな。
仔を見ろ。
生まれたんだから、生かせ。
そういう人だった。
クラウンメアは動かなかった。
鈴鹿の手を避けなかった。
ただ、長い息を吐いた。
その息が、鈴鹿の袖を揺らした。
◇
鈴鹿の手が、クラウンメアの首に触れている。
俺は、クラウンメアの肩の横に立っていた。
止められる体じゃない。
まだ仔馬だ。
でも、少しでもいい。
鈴鹿を驚かせない。
母さんを怖がらせない。
それだけは、やる。
「坊や」
「うん」
「この子」
「鈴」
「痛い?」
「痛い」
「嫌?」
「嫌じゃない」
クラウンメアは、鈴鹿の手の匂いを嗅いだ。
鈴鹿は逃げなかった。
袖を握っていた反対の手が、少しだけ開く。
兄のジャンパーの袖が、くしゃくしゃのまま揺れた。
「ごめんね」
鈴鹿が言った。
「私、少しだけ……怖かった」
クラウンメアは答えない。
代わりに、俺の背を舐めた。
それから、鈴鹿の手の近くに鼻を寄せる。
鈴鹿の指が、一瞬だけ強張った。
でも、引かなかった。
「……温かい」
鈴鹿はそう言って、目を伏せた。
涙は落ちなかった。
でも、鼻の頭が赤かった。
昔からそうだ。
鈴鹿は泣く前に、鼻が赤くなる。
俺はその顔を見るたび、袖で拭くなと言っていた。
今は言えない。
だから、俺は鈴鹿の袖口にそっと鼻を寄せた。
くわえない。
引っ張らない。
ただ、触れるだけ。
鈴鹿の指が止まる。
「また、それ」
声が小さく震えた。
それでも、鈴鹿は笑おうとした。
うまく笑えてはいなかった。
でも、さっき馬房の前で固まっていた顔とは違った。
許した、とはまだ言えない。
兄さんは戻らない。
母さんの帳簿も、明日になればまた開かれる。
それでも鈴鹿は、手を離さなかった。
今日のところは、それでいい。
「母さん」
「坊や」
「鈴、怖くない」
「少し」
「うん。少し」
俺は鈴鹿の袖から鼻を離した。
鈴鹿が小さく息を吸う。
「ノゾ」
俺を見る。
「クラウンのそばにいてね」
言われなくても。
俺は前脚を揃えた。
母さんの横に立つ。
鈴鹿の前にも立つ。
どちらにも背を向けない位置で。
クラウンメアが、もう一度入口を見た。
望が戻らない入口。
鈴鹿も、同じ場所を見た。
俺は見なかった。
そこにはもう、人間の俺はいない。
でも、ここにいる。
仔馬の体で。
母さんの舌の温かさと、鈴鹿の袖の匂いの間に。
俺はここにいる。
その時、馬房の外で紙が擦れた。
春江の声が、小さく聞こえた。
「……明日、帳簿を見直すわ」
鈴鹿の手が、クラウンメアの首で止まった。
俺は、その言葉の意味を知っている。
許すことと、残せることは、別の話だった。




