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ノゾミノカゼ ――死んだ兄は、馬として家族のもとへ帰ってきた――  作者: ビッグサム


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第6話 立てる仔は、生き残る

 相馬先生の手が、俺の前脚に触れた。


 冷たい指だった。


 でも、雑ではない。


 蹄の向き。


 膝の入り。


 繋ぎの角度。


 触る順番で、この人が何を見ているのか分かる。


 俺は動かなかった。


 本当は少し下がりたい。


 仔馬の体は、人に触られるだけで逃げようとする。


 でも、ここで暴れたら駄目だ。


 母さんが不安になる。


 鈴鹿がまた袖を握る。


 春江が診療費のことを考える。


 父さんが、杖の先を見たまま黙る。


 だから、立つ。


 立って見せる。


「……落ち着いているな」


 相馬先生が低く言った。


 馬房の外で、三浦さんが腕を組んでいる。


 春江は少し離れたところに立っていた。


 鈴鹿は入口の柱の横。


 兄の古い牧場ジャンパーの袖を、また握っている。


 父さんは椅子に座っていた。


 杖の先が、床にまっすぐ置かれている。


 俺はそれを見ないようにした。


 見たら、父さんが気づく。


 俺が人間みたいに見ていると。


「難産だったんですよね」


 春江が言った。


 声が硬い。


「ええ。難産のあとは、立ち上がりが遅い、乳の飲みが悪い、反応が鈍い。そういうのが出てもおかしくありません」


 春江の息が止まる。


 鈴鹿の袖が、ぎゅっと丸まった。


 俺はクラウンメアの腹の方へ鼻を向けた。


 乳を探す。


 飲む。


 今は、それが一番分かりやすい。


「飲む?」


「飲む」


「よし」


 母さんは動かなかった。


 俺は乳を含んだ。


 一口。


 もう一口。


 強く飲みすぎるな。


 でも、弱く見せるな。


 仔馬が初乳を飲めるかどうかは大事だ。


 望だった頃の俺は、何度も見てきた。


 飲めない仔は、すぐに目が沈む。


 立てない仔は、人の手が必要になる。


 そして、人の手には金がかかる。


 獣医代。


 薬代。


 検査代。


 全部、帳簿に乗る。


 春江の方で、紙がかさ、と鳴った。


 たぶん診療費のメモだ。


 見るな。


 今は飲め。


「飲みは悪くないですね」


 相馬先生が言った。


 春江の肩が、少しだけ下がった。


 鈴鹿も息を吐く。


 父さんの杖の先が床をこすった。


 俺は飲むのをやめ、ゆっくり首を上げた。


 口元に乳が残る。


 仔馬らしく見えるだろうか。


 いや、仔馬なんだけど。


「坊や」


「うん」


「立つ?」


「立つ」


「眠い?」


「少し」


「寝る?」


「まだ」


 クラウンメアが俺の背を舐めた。


 相馬先生は、その様子を黙って見ている。


 獣医の目だ。


 かわいいとか、かわいそうとかではない。


 動けるか。


 飲めるか。


 反応するか。


 母馬が受け入れているか。


 そこを見ている。


「少し歩かせても?」


 三浦さんがすぐに答えた。


「馬房の中だけなら」


「ええ。外には出しません」


 鈴鹿が一歩動きかけた。


 三浦さんが手で止める。


「鈴鹿、そこにいろ」


「……はい」


「母馬の後ろには立つな」


 鈴鹿の足が止まった。


 当たり前のことだ。


 でも、その当たり前で、望は死んだ。


 誰も、その言葉に続けて何も言わなかった。


 俺は馬房の中で、前脚を出した。


 一歩。


 藁が沈む。


 二歩。


 少し膝が揺れた。


 危ない。


 立て直せ。


 俺は首を下げた。


 仔馬の体でバランスを取るには、首を使うしかない。


 三歩。


 クラウンメアが鼻を鳴らす。


「遠い」


「近い」


「来て」


「まだ」


「守る」


「見せる」


 母さんは意味が分からなかったのか、耳だけ動かした。


 相馬先生の目が細くなる。


「今の、見ましたか」


 三浦さんが頷いた。


「前へ出ますね」


「転びかけた時、後ろに逃げずに首を使った」


 やめろ。


 そんなに言うな。


 俺はただ、転ばないようにしただけだ。


 でも、三浦さんも相馬先生も見逃さない。


 前脚の出方。


 後肢の踏み込み。


 膝の入り。


 繋ぎの柔らかさ。


 首の使い方。


 どれも、将来を断言するものではない。


 でも、見逃していい反応でもない。


「もう一度」


 俺は止まりかけた脚を動かした。


 今度は少しだけ斜めに。


 藁が深いところを避ける。


 湿った場所を踏まない。


 足を取られる。


 望だった頃なら、そこはあとで掃除する場所だ。


 馬房の湿り方を見れば、どこに負担がかかるか分かる。


 俺は自然に避けた。


 相馬先生の手が止まる。


「……この仔、妙にこちらを見るな」


 まずい。


 俺はすぐに母さんの腹の方へ顔を戻した。


 ただの仔馬。


 乳。


 母馬。


 眠い。


 それだけだ。


 三浦さんが少し笑った。


「気が強いんじゃないですか」


「気が強いだけなら、人の手元までは見ませんよ」


 相馬先生は俺の首筋を撫でた。


 俺は耳を動かしすぎないようにした。


 鈴鹿が、ぽつりと言う。


「兄さんみたい」


 馬房の中の空気が止まった。


 言った本人も、自分の声に驚いたようだった。


 鈴鹿は袖を握り直す。


「……ごめん」


 誰に謝ったのか分からない。


 俺か。


 クラウンメアか。


 父さんか。


 自分か。


 父さんは何も言わなかった。


 ただ、杖の先が床から少し浮いて、また落ちた。


 こつ。


 その音が、妙に大きかった。


 それから父さんは、何か言いかけた。


 でも、言わなかった。


 唇を結んで、俺を見ていた。


 相馬先生は話題を戻すように、俺の前脚にもう一度触れた。


「今の段階で、走る馬になるとは言えません」


 春江が顔を上げる。


 鈴鹿も。


「当歳で将来を断言するのは危険です。脚元も変わる。成長の仕方も変わる。育成で崩れる馬もいます」


 冷たいようで正しい。


 生まれた時に良く見えても、全部が競走馬になるわけじゃない。


 血統が良くても走らない馬はいる。


 立ち姿が良くても、気性で崩れる馬もいる。


「ただ」


 相馬先生は、俺ではなくクラウンメアを見た。


「今日明日で無理をさせて判断する段階ではありません。まずは飲むこと、出すこと、母馬が落ち着くことです」


 春江の方で、紙の音が止まった。


「母馬も、ですか」


「ええ」


 相馬先生は頷いた。


「クラウンメアは難産のあとです。仔を守ろうとして神経も張っています。人が何度も出入りすれば、それだけ負担になります」


 クラウンメアが、分娩房の入口を見た。


 そこから、望はもう戻ってこない。


 母さんが待っているのは、毎日水を替えて、首を撫でて、夜になると「また明日」と言っていた男だ。


 俺だ。


 でも、俺はここにいる。


 母さんの仔として。


「母馬が落ち着かないと、仔にも出ます」


 相馬先生は続けた。


「乳の飲みが落ちる。休めない。人を警戒する。そうなると、いい脚をしているかどうか以前の問題になります」


 いい脚。


 その言葉に、三浦さんが少しだけ目を動かした。


 春江も、鈴鹿も、父さんも何も言わなかった。


 でも、その沈黙の中で、乾草代のことも、診療費のことも、俺がこれから飲んで、出して、寝る場所のことも、全部そこにあった。


 待てばいい。


 言うだけなら簡単だ。


 一日待てば、乾草が減る。


 母さんの敷料も汚れる。


 相馬先生への支払いも残る。


 春江の紙が、もう一度かさりと鳴った。


 父さんが低く言った。


「休ませるにも、金がかかる」


「はい」


 相馬先生は否定しなかった。


「だからこそ、今は余計な悪化を増やさない方がいい。母馬と仔を崩すと、もっと費用がかかります」


 その言葉は、馬房に落ちたまま、しばらく動かなかった。


 売る。


 残す。


 値段をつける。


 そんな話の前に、俺と母さんは、まず生きなきゃいけない。


 立つ。


 飲む。


 出す。


 寝る。


 母さんを休ませる。


 当たり前のことばかりだ。


 でも、その当たり前が崩れたら、牧場の帳簿はもっと重くなる。


 三浦さんが、俺を見て言った。


「立てる仔は、生き残る」


 その言葉を、望だった頃にも聞いたことがある。


 生まれたばかりの仔馬に必要なことは、驚くほど単純だ。


 でも、その単純なことができないだけで、命はすぐ遠くなる。


 俺は立っている。


 生きている。


 でも。


 生き残っただけでは、家族を守れない。


 相馬先生は診療鞄を閉じた。


「今日のところは、無理をさせないでください。母馬も仔も、刺激を減らして。様子が変わったらすぐ連絡を」


「はい」


 春江が答える。


 その声は、母親の声だった。


 でも、すぐに紙の音がした。


 診療費のメモを、春江が折った音だ。


 母親の声のすぐ後に、帳簿の音が来る。


 それが、今の風見牧場だった。


 鈴鹿はまだ、クラウンメアを見ている。


 怖い目ではない。


 でも、触れたい目でもない。


 兄を蹴った馬。


 兄が助けようとした馬。


 その二つの間で、鈴鹿は立っている。


 クラウンメアが、また分娩房の入口を見た。


「人間、来ない」


 俺は返事ができなかった。


 そこから望は戻らない。


 鈴鹿も、まだクラウンメアに触れない。


 父さんも、春江も、すぐに何かを決められる顔ではない。


 でも、今日の俺は立った。


 飲んだ。


 転ばなかった。


 母さんを不安にさせずに、相馬先生に脚を見せた。


 それだけだ。


 それだけなのに、春江は診療費のメモを何度も折り直していた。


 父さんは杖の先を床につけたまま、俺を見ていた。


 鈴鹿は、兄のジャンパーの袖を握ったまま、クラウンメアから目を逸らさなかった。


 俺は母さんの首に鼻を寄せた。


 今は、母さんを休ませる。


 鈴鹿を急かさない。


 父さんに期待させすぎない。


 春江の帳簿から目を逸らさない。


 俺は馬房の中で、前脚を揃えた。


 立てる仔は、生き残る。


 でも、生き残っただけでは足りない。


 まずは、母さんと一緒に明日を越える。


 鈴鹿がクラウンメアに触れられる日は、まだ少し遠い。

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