第5話 妹の進路希望用紙
落ちた紙には、薄い字で「牧場」と書いてあった。
赤い付箋がついた進路希望用紙。
それが、事務所の机の下に滑り落ちていた。
春江は、すぐには拾わなかった。
落ちた音は聞こえていたはずだ。
けれど、手が止まっている。
父さんが廊下の奥へ戻ったあと、事務所には杖の音だけが残っていた。
こつん。
こつん。
もう聞こえないのに、まだ耳の奥で鳴っている。
俺の額には、父さんの手の温度が残っていた。
白い流星の毛が、少しだけ寝ている。
そこを動かすのが惜しくて、俺は首を振らなかった。
クラウンメアが、俺の背を舐める。
「坊や」
「うん」
「紙」
「見る」
「食べる?」
「食べない」
「なぜ」
「大事」
「大事?」
クラウンメアは首を傾けた。
馬には、紙の大事さが分からない。
食べられるか。
踏むと滑るか。
風で飛ぶか。
それくらいだ。
人間は、薄い紙一枚で泣く。
進路希望用紙。
請求書。
セリの申込書。
どれも薄いくせに、やけに重い。
春江が、ようやく机の下へ手を伸ばした。
紙を拾う。
裏返す。
その瞬間、指が止まった。
俺は馬房の中から首を伸ばす。
見えない。
けれど、分かる。
鈴鹿の字だ。
第一希望。
農学部。
動物資源科学系。
第二希望。
畜産科学系。
第三希望。
空欄。
そして、志望理由の端。
鉛筆で薄く書かれた文字。
牧場。
消しかけた跡がある。
消しゴムをかけたのに、まだ残っている。
鈴鹿らしい。
消すなら最後まで消せ。
昔からそうだった。
宿題の間違いも。
ノートの落書きも。
怒った時の手紙も。
消したふりをして、少し残す。
気づいてほしいのか。
気づかれたくないのか。
妹は、昔からそういうところが面倒だ。
「……見ちゃった」
春江が小さく言った。
春江は「牧場」の文字を見たあと、机の端の請求書を一度だけ見た。
すぐに目を戻す。
見なかったことには、できない。
机の端には、俺が貼った赤い付箋が残っている。
家から通える。
奨学金あり。
馬以外の道も見ること。
望だったころの俺の字だ。
汚い。
三浦さんに言われるまでもない。
それでも、真剣に書いた。
鈴鹿には、選べる場所を残したかった。
牧場を選ぶな、とは言わない。
ただ、牧場しか選べない形にはしたくなかった。
風見牧場は好きだ。
馬も好きだ。
朝の水桶の冷たさも。
雨前の風の匂いも。
馬房の中で乾草を噛む音も。
全部、好きだった。
だからこそ、鈴鹿の進路希望欄まで牧場で埋めるのは違う。
春江は進路希望用紙を折り直そうとして、失敗した。
角が合わない。
もう一度、折る。
またずれる。
指先が震えていた。
「望なら、怒るわね」
その通りだ。
怒る。
鈴鹿の前で金の話をした大人全員に怒る。
父さんにも。
春江にも。
自分にも。
そして鈴鹿本人には、たぶん一番下手な言い方をする。
お前が気にすることじゃない。
進学しろ。
牧場の金は俺が何とかする。
そう言って、鈴鹿に怒られる。
目に見えている。
春江は進路希望用紙を引き出しにしまおうとして、途中で止めた。
しまわない。
机の上に置く。
赤い付箋が見えるように。
隠したら、鈴鹿はもっと傷つく。
春江はそれを分かっている。
俺は馬房の中で、前脚を踏み直した。
字を書けない。
紙を直せない。
鈴鹿の進路希望欄に、勝手に大学名を足すこともできない。
できるなら、今すぐ蹄で押してやる。
第一希望。
鈴鹿の未来。
第二希望。
鈴鹿の未来。
第三希望。
鈴鹿の未来。
牧場は、兄が勝手に重くしておく。
お前の欄にまで乗せるな。
そう書きたい。
書けない。
口の中に、藁の味だけが残った。
◇
夕方、鈴鹿が帰ってきた。
玄関の引き戸が開く音で分かった。
いつもより少し遅い。
靴を脱ぐ音が乱れている。
一度、踵を踏んだ。
鈴鹿は疲れている時ほど、靴をきちんと脱がない。
望だったころなら、玄関から言っていた。
靴を揃えろ。
踵を踏むな。
その靴、まだ履けるんだから。
今は言えない。
「ただいま」
声は普通だった。
普通にしようとしている声だ。
「おかえり」
春江も普通に返した。
鈴鹿が事務所に入る。
足が止まった。
机の上の紙を見たのだ。
「……それ」
春江は逃げなかった。
「落ちてた」
「勝手に見たの?」
「見るつもりはなかった。見えた」
鈴鹿は口を閉じた。
怒っていい。
進路の紙だ。
本当なら、本人が出すものだ。
鈴鹿は怒らなかった。
兄のジャンパーの袖を握りかけて、指を開いた。
俺はそれを見た。
偉い。
いや、偉くなくていい。
今日くらい、泣いてもいい。
怒ってもいい。
袖くらい握ってもいい。
鈴鹿は笑った。
下手な笑いだった。
「今じゃなくていいから」
春江は何も言えなかった。
「まだ決めてないし。先生に言われて書いただけだし」
「鈴鹿」
「本当に。候補。候補っていうか、仮」
鈴鹿は早口になった。
嘘をつく時の癖だ。
テストの点が悪かった時。
友達と喧嘩した時。
進路資料を隠した時。
袖を握らない代わりに、言葉が増える。
「農学部は、別に牧場だけじゃないし。動物のこと勉強したら、どこでも役に立つし。畜産系も、仕事いろいろあるし」
春江は黙っている。
鈴鹿は机の上の紙を取った。
赤い付箋を見る。
望だったころの俺の字を見る。
家から通える。
奨学金あり。
馬以外の道も見ること。
鈴鹿の口元が少し歪んだ。
「兄さん、勝手に貼りすぎ」
「うん」
「しかも字、汚い」
「うん」
「読めるのが腹立つ」
春江の目が赤くなった。
鈴鹿は紙を折ろうとした。
角がずれた。
春江と同じずれ方だった。
親子だ。
そんなところまで似なくていい。
「着替えてくる」
鈴鹿の声が普通に戻った。
普通のふりが、少しうまくなっていた。
それが嫌だった。
◇
夜。
馬房の中は、昼より静かだった。
乾草の匂いが濃い。
クラウンメアは立ったまま、目を半分閉じている。
時々、尾を動かす。
俺は乳を飲んだあと、藁の上に立っていた。
寝ろ。
生まれたばかりの仔馬は寝るものだ。
分かっている。
それでも、眠れなかった。
進路希望用紙。
薄く書かれた「牧場」。
あれが頭から離れない。
「坊や」
「起きる」
「寝る」
「まだ」
「まだ?」
「今は、立つ」
「よし」
クラウンメアは、それなら分かるというように鼻を鳴らした。
引き戸が、そっと開いた。
鈴鹿だった。
制服ではない。
部屋着の上に、兄の牧場ジャンパー。
袖は長い。
夜の馬房に来る時まで、それを着るな。
寒いのは分かる。
兄の匂いを探すみたいに着るな。
俺は首を上げた。
鈴鹿は馬房の前で立ち止まった。
手には紙を持っている。
進路希望用紙。
赤い付箋は外されていない。
「起きてた」
鈴鹿が言う。
俺は小さく鼻を鳴らした。
「寝なよ。仔馬でしょ」
お前こそ寝ろ。
高校三年生だろ。
明日も学校だろ。
言えない。
鈴鹿は柵に額を寄せた。
冷たい木に、こつん、と音がした。
「ノゾ」
短い呼び方。
初めてだった。
ノゾミノカゼじゃなくて、ノゾ。
胸の奥が、少しだけ熱くなる。
「私、牧場に残った方がいいのかな」
その言葉は、静かだった。
叫ばない。
泣かない。
ただ、馬房の中へ落ちた。
クラウンメアが耳を動かした。
「鈴」
「うん」
「痛い?」
「痛い」
俺は返した。
馬の母さんは、鈴鹿の名前を短く覚えたらしい。
鈴。
たぶん、それで十分なのだろう。
鈴鹿は紙を見た。
「兄さんがいたら、怒るよね」
怒る。
怒るに決まっている。
「お前が気にすることじゃない、って言う」
その通りだ。
「金の話は俺が何とかする、って言う」
そう言う。
「でも、もう兄さんいないじゃん」
息が止まった。
鈴鹿は笑わなかった。
紙の角を親指で押している。
同じ場所を何度も押すから、そこだけ白く折れ始めていた。
「お母さん、請求書見てる。お父さん、まだちゃんと歩けない。兄さんのノート、開けたけど、途中で閉じた。字が汚くて、腹立って、でも読めて」
鈴鹿の声が小さくなる。
「兄さんがやってたこと、多すぎる」
そうだ。
多すぎた。
俺が自分で増やした。
鈴鹿に見せないように。
春江に言わせないように。
父さんに背負わせないように。
全部、俺が持っていればいいと思った。
そのせいで、俺が死んだあと、空白が大きくなった。
「私がやれば、少しは埋まるのかな」
違う。
違う、鈴鹿。
埋めるな。
兄の穴を、自分で埋めようとするな。
俺は強く鳴いた。
思っていたより大きな声が出た。
クラウンメアが目を開ける。
鈴鹿も肩を跳ねさせた。
「え」
俺は柵の前へ出た。
脚がまだ頼りない。
夜の藁は少し滑る。
それでも前に出る。
「ノゾ?」
鈴鹿が一歩下がろうとした。
俺は首を伸ばした。
袖口をくわえる。
破らない。
強く引っ張らない。
ただ、離さない。
鈴鹿の手が止まった。
「……また、袖」
違う。
袖じゃない。
お前だ。
お前が、牧場の方へ歩こうとしているから止めている。
進路希望用紙を、牧場で塗りつぶそうとしているから止めている。
俺は袖をくわえたまま、鼻先で紙を押した。
鈴鹿の手元。
進路希望用紙。
赤い付箋。
家から通える。
奨学金あり。
馬以外の道も見ること。
俺の汚い字。
鈴鹿は、俺と紙を交互に見た。
「これ?」
俺は鼻を押しつけた。
紙がくしゃっと鳴る。
やばい。
破るな。
大事な紙だ。
俺は慌てて力を抜いた。
鈴鹿が、少しだけ笑った。
今度は下手な笑いじゃなかった。
泣きそうではある。
そこに少しだけ、息が混じっていた。
「ノゾ、怒ってる?」
怒ってる。
めちゃくちゃ怒ってる。
望だったころなら、たぶん説教している。
今のお前に必要なのは牧場じゃない。
飯を食え。
寝ろ。
学校に行け。
先生と話せ。
奨学金の資料を持ってこい。
兄のノートは一人で読むな。
そう言っている。
全部、鳴き声になる。
俺は短く鳴いた。
「進学やめるなって言ってるみたい」
鈴鹿が言った。
俺は袖を離さなかった。
その通りだ。
やめるな。
お前が牧場を好きなら、それでいい。
帰ってくる場所にすればいい。
だから、逃げ道を消してここに残るな。
俺はもう一度、紙を鼻で押した。
今度は赤い付箋のところ。
鈴鹿の指が止まった。
馬以外の道も見ること。
鈴鹿は、そこを親指でなぞった。
「兄さんさ」
声が震えた。
「こういう時だけ、ずるい」
そうだな。
ずるい兄で悪かった。
「死んだあとまで、進路に口出ししてくる」
悪かった。
口出しする。
馬になってもする。
お前が、自分の未来を勝手に削るなら、蹄でも鼻でも袖でも止める。
鈴鹿は柵の前にしゃがんだ。
紙を膝の上に置く。
袖は俺の口の中に残ったまま。
俺はもう少しだけ力を抜いた。
鈴鹿の手が、柵の隙間から入ってくる。
俺の額に触れた。
父さんが触れたところとは少し違う場所。
白い流星の端。
鈴鹿の指は冷たかった。
「私、まだ分かんない」
それでいい。
「牧場が好きかって聞かれたら、好き」
うん。
「でも、怖い」
うん。
「お金も、将来も、お父さんも、お母さんも、ノゾも」
俺も入るのか。
そうか。
「全部置いて大学行くのも怖い」
鈴鹿は息を吸った。
「でも、牧場に残るって書いたら、兄さんに怒られる気がする」
怒る。
間違いなく怒る。
「ノゾにも怒られた」
怒った。
かなり怒った。
鈴鹿は、袖を少しだけ引いた。
俺は離さない。
「まだだめ?」
まだだめ。
「じゃあ、分かった」
鈴鹿は進路希望用紙を広げた。
膝の上で、折れた線を伸ばす。
ポケットからシャープペンを出した。
夜の馬房で進路希望用紙を書くな。
止めなかった。
鈴鹿は、薄く書かれた「牧場」の横に、一本線を引いた。
消さない。
ただ、横に文字を足す。
保留。
小さな字だった。
それから、第三希望の空欄に書き込んだ。
未定。
変な希望欄だ。
今の鈴鹿には正しい。
決めない。
今すぐ牧場に縛られない。
逃げもしない。
考える場所を残す。
俺は袖を離した。
鈴鹿がその袖を見た。
皺が残っている。
握りつぶした皺ではない。
俺の歯と唇でついた皺だ。
「……兄さんより、止め方が雑」
悪かったな。
蹄で書くよりましだ。
鈴鹿は紙を胸に抱えた。
今度は折らなかった。
「明日、先生に相談する」
よし。
「奨学金も、ちゃんと調べる」
よし。
「牧場のことも、逃げずに見る」
それはいい。
ただし、一人で見るな。
「兄さんのノートは……」
鈴鹿の声が止まる。
俺は顔を上げた。
「お母さんと見る」
よし。
俺は短く鼻を鳴らした。
鈴鹿が笑った。
「偉そう」
兄だからな。
言えないけど。
クラウンメアが、後ろから俺の背を押した。
「坊や」
「何」
「鈴、泣く?」
「泣く」
「近い?」
「近い」
「なら、いる」
「うん」
クラウンメアは、それだけ言って鈴鹿を見た。
舐めようとはしなかった。
ただ、母馬の大きな体で、夜の冷えた空気を少し遮っていた。
鈴鹿は立ち上がった。
袖を軽く払う。
進路希望用紙を、今度は丁寧に持っている。
赤い付箋は、まだ貼られたままだ。
「おやすみ、ノゾ」
俺は小さく鳴いた。
「明日も、ちゃんと飲んでね」
飲む。
飲むし、立つし、生きる。
お前が先生に相談している間、俺はここで生きる。
売られるかもしれない仔馬として。
それでも、今夜はまだ風見牧場にいる仔として。
鈴鹿が引き戸へ向かう。
途中で一度だけ振り返った。
「……兄さんがいたらさ」
俺は耳を立てた。
「たぶん、今の私の字、赤ペンで直すよね」
直す。
まず「保留」の字が小さい。
もっと大きく書け。
それから第三希望に「未定」と書くな。
先生が困る。
今はそれでいい。
鈴鹿は、小さく笑って馬房を出た。
引き戸が閉まる。
夜の馬房に、乾草の匂いが戻った。
俺は藁の上に立ったまま、少しだけ息を吐く。
クラウンメアが鼻を寄せてくる。
「坊や」
「うん」
「寝る?」
「寝る」
「よし」
俺はようやく脚を折った。
まだ下手だ。
少し藁が跳ねる。
横になると、額の流星が藁に触れた。
父さんが触れたところ。
鈴鹿が触れたところ。
両方が、少しだけくすぐったい。
事務所の方で、椅子を引く音がした。
春江が起きている。
たぶん、鈴鹿の進路希望用紙を見る。
たぶん、泣く。
たぶん、泣いたあとで奨学金の資料を探す。
春江はそういう人だ。
俺は目を閉じた。
明日、鈴鹿は先生に相談する。
俺は獣医に見られる。
父さんは、たぶんまた馬房の前を通る。
乾草屋の一週間は、一日ずつ減っていく。
それでも今夜、鈴鹿はまだ自分の未来を消さなかった。
それだけで、俺は少しだけ眠れた。




