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ノゾミノカゼ ――死んだ兄は、馬として家族のもとへ帰ってきた――  作者: ビッグサム


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第4話 父は仔馬を見られない

 父さんは、馬房の前で立ち止まった。


 あと三歩。


 たった三歩で、俺の顔が見える。


 それなのに、杖の先は床から動かなかった。


 こつん、と一度だけ鳴って、そのまま止まる。


 廊下の曲がり角で、父さん――風見宗一郎は壁に左手をついていた。


 寝間着の上に、古い上着。


 右手には杖。


 顔色は悪い。


 昨日より、さらに痩せたように見えた。


「宗一郎さん」


 春江が、事務所の入口から声をかけた。


 父さんは答えない。


 馬房の方を見ようとして、途中で視線を落とす。


 俺を見る前に、床を見る。


 床には、三浦さんの長靴が残した泥が少しついていた。


「無理しなくていい」


 春江はそう言った。


 けれど、すぐに唇を噛んだ。


「……あの子は生きてる」


 父さんの杖を持つ手に、力が入った。


「望が助けようとした命だから」


 その一言で、父さんの肩が小さく落ちた。


 助けようとした命。


 そうだ。


 望だった俺は、クラウンメアを助けようとした。


 仔馬も助けようとした。


 それで死んだ。


 そして、その仔馬が今の俺だ。


 牧場の神様がいるなら、たぶん性格が悪い。


 俺は馬房の中で、動かなかった。


 近づきたい。


 父さんの足を見たい。


 いや、もう見えている。


 右足をかばっている。


 杖を突く時、体重が左に逃げる。


 腰が痛い時の立ち方だ。


 冬の朝、馬房掃除をしたあとに悪化するやつ。


 望だったころなら言った。


 父さん、今日は歩くな。


 湿布貼ったか。


 薬、朝の分を飲んだか。


 今は、鼻息しか出せない。


 父さんは一歩だけ進んだ。


 こつん。


 杖の音が、分娩房に響く。


 クラウンメアが耳を伏せた。


「母さん」


「来る」


「父さん」


「痛い?」


「うん」


 クラウンメアは父さんを見た。


 人間の言葉は分からない。


 痛みの匂いは分かるのだろう。


 不安そうに、俺の首筋を舐めた。


「大丈夫」


「大丈夫?」


 クラウンメアは、少し首を傾けた。


 馬には、その言葉が広すぎるのだと思った。


 痛いのか。


 怖いのか。


 立てるのか。


 逃げるのか。


 それなら分かる。


 大丈夫だけは、分からない。


 俺は返せなかった。


 父さんが、馬房の前に来た。


 やっと。


 まだ俺を見ない。


 柵の角。


 水桶。


 乾草。


 空白の給餌表。


 そんなものばかり見ている。


 春江は少し離れた場所で立っていた。


 鈴鹿はいない。


 学校へ行った。


 行かせた。


 望だったころの俺のノートは、まだ開けられていない。


 それでも鈴鹿は制服を着て、玄関で一度だけ戻りそうになって、俺の方を見て、それから靴を履いた。


 袖は握らなかった。


 えらい。


 それを父さんに言いたかった。


 鈴鹿はちゃんと行ったぞ、と。


「……その仔が」


 父さんの声がかすれた。


「望が、助けようとした仔か」


 春江が小さく頷いた。


「そう」


 父さんは、そこでようやく俺を見た。


 目が合った。


 俺は動かなかった。


 耳も伏せない。


 首も伸ばさない。


 近づきすぎるな。


 父さんを怖がらせるな。


 ここで、望だった俺みたいに振る舞えば、父さんは壊れる。


 俺は、ただの仔馬として立つ。


 膝を折らない。


 逃げない。


 呼吸だけを、ゆっくりにする。


 父さんの目が、俺の脚へ落ちた。


 馬を見る目だ。


 さっきまでの父さんではない。


 昔、牧場を一人で回していた頃の目。


 蹄。


 繋ぎ。


 膝。


 肩。


 首。


 俺の体を、順番に見る。


 その目が一瞬だけ鋭くなって、すぐに曇った。


「脚が長いな」


 父さんが言った。


 春江が少しだけ息を吐いた。


「三浦さんも、安く見る仔じゃないって」


「三浦が?」


「ええ」


 父さんは俺を見たまま、黙った。


 杖の先が、床を軽く擦る。


「……あいつが聞いたら、喜んだだろうな」


 あいつ。


 死んだ望。


 父さんの中では、もういない俺だ。


 父さんは、俺が立っている馬房で、俺のいない話をする。


 胸の奥が変に痛む。


 父さんにとっては、それが現実だ。


 俺は死んだ。


 ここにいる仔馬は、望ではない。


 そう思わないと、父さんは立っていられないのだろう。


 父さんは柵に手をかけた。


 節の太い手。


 昔より細くなった。


 爪の横が割れている。


 薬袋の匂いがした。


 湿布と、胃薬と、古い木の匂い。


「俺が動けていれば」


 低い声だった。


 春江が顔を上げる。


「宗一郎さん」


「俺が倒れなければ、望にここまで背負わせなかった」


 やめろ。


 違う。


 それは違う。


 俺は自分で背負った。


 父さんのせいだけじゃない。


 牧場が好きだった。


 馬房の匂いも、雨前の風も、鈴鹿がうるさいと言うほど馬の顔を見る時間も。


 全部、俺が選んだ。


 言いたい。


 口にはできない。


 俺は一歩も動かず、父さんを見た。


 父さんの眉間に、深い皺が寄る。


「……お前」


 父さんが、俺を見る。


「俺の足を見てるのか」


 しまった。


 見すぎた。


 父さんの右足。


 杖の角度。


 腰の逃げ方。


 望だったころの癖で、全部追ってしまった。


 俺は慌てて視線を落とした。


 藁を嗅ぐ。


 ただの仔馬のふりをする。


 遅い。


 父さんは気づいている。


「望も、そうだった」


 父さんの手が柵の上で止まった。


「俺が痛いと言う前に、足を見る」


 春江が唇を結んだ。


 父さんは短く笑った。


 笑ったというより、息が抜けた。


「気味の悪い息子だった」


 ひどい言い方だ。


 声は怒っていなかった。


 むしろ、少しだけ懐かしそうだった。


 俺は顔を上げた。


 父さんの手が、柵を越えてくる。


 途中で止まる。


 俺の額までは、まだ届かない。


 王冠みたいな白い流星。


 鈴鹿が好きだと言ってくれた模様。


 父さんは、その白いところを見ている。


「その目で見るな」


 声が低くなった。


「望みたいな顔をするな」


 春江が一歩動きかけた。


 父さんは手を下ろさなかった。


 俺も動かなかった。


 逃げたら、父さんは手を引く。


 近づいたら、父さんは壊れる。


 だから、動かない。


 父さんの手が、ゆっくり近づいた。


 指先が震えている。


 俺の額に触れた。


 温かい。


 少し乾いている。


 馬房掃除をしなくなってから、父さんの手は柔らかくなったと思っていた。


 違った。


 まだ硬いところが残っている。


 昔の牧場主の手だ。


 父さんは、俺の流星を撫でた。


 一度だけ。


 それから、手を離さなかった。


「……助けられたんだな」


 誰に言ったのか分からない声だった。


 俺にか。


 クラウンメアにか。


 死んだ望にか。


 春江は何も言わなかった。


 父さんの手が、俺の額に置かれたままになる。


 長い沈黙。


 クラウンメアも動かない。


 水桶の水面だけが、小さく揺れていた。


 父さんは、ようやく口を開いた。


「望に」


 声が詰まった。


 そこから先が出ない。


 父さんの指が、俺の額の毛を少しだけ押した。


 白い毛が寝る。


 そこだけ、父さんの手の形が残った。


 俺は鼻先を少しだけ上げた。


 父さんの手のひらに、息がかかるくらい。


 父さんの指が動いた。


「……まだ、言ってないことがある」


 春江が目を伏せた。


 俺は息を止めた。


 そんなこと。


 そんなこと、今さら。


 いや。


 嘘だ。


 聞きたかった。


 望だったころに、父さんの口から聞きたかった。


 よくやっている。


 助かった。


 ありがとう。


 たったそれだけでよかった。


 俺は馬だ。


 泣けない。


 だから、ただ立った。


 膝を折らずに。


 父さんの手を受け止めたまま。


 父さんは、その先を言わなかった。


 言えなかった。


 手だけが、もう一度、俺の額を撫でた。


「……お前は、生きろ」


 父さんが言った。


 父さんの目が、俺の脚でも流星でもなく、顔の真ん中で止まった。


「望が助けた命なら、なおさらだ」


 その言葉は、痛かった。


 少しだけ温かかった。


 父さんは俺の額から手を離した。


 すぐには戻らない。


 柵の上に手を置いたまま、呼吸を整える。


 杖を握り直す指が震えていた。


 春江が近づく。


「座る?」


「いや」


「無理しないで」


「少しだけだ」


 父さんはそう言って、馬房札を見た。


 古い木札。


 クラウンメアの名前の横に、まだ仮の小札がぶら下がっている。


 そこには、鈴鹿の字で書かれていた。


 ノゾミノカゼ。


 少し右上がりの字。


 途中で迷ったのか、「カゼ」の線だけ薄い。


 父さんは、その札を指で軽く弾いた。


 乾いた音がした。


「鈴鹿の字か」


「ええ」


「下手だな」


 春江が少しだけ睨んだ。


 父さんは目を逸らした。


「……望の字よりは、ましか」


 春江が笑いそうになって、口を押さえた。


 笑いきれない。


 泣くだけでもない。


 その顔を見て、俺はやっと息を吐いた。


 父さんは廊下へ戻ろうとした。


 一歩目で、右足が少し遅れる。


 俺は反射で耳を動かした。


 父さんが振り返る。


「見るな」


 低い声。


 怒ってはいなかった。


「お前にまで心配されるほど、まだ終わってない」


 そう言って、父さんは杖を突いた。


 こつん。


 今度の音は、さっきより少しだけ前へ出ていた。


 廊下の向こうへ消える前に、父さんは立ち止まった。


「春江」


「何?」


「鈴鹿には……」


 そこで、言葉が止まった。


 春江は待った。


 父さんの背中は、細い。


 昔はもっと大きかった。


 牧場の入口で、馬運車を誘導していた時の背中は、誰よりも邪魔なくらい大きかった。


 今は、廊下の壁に片手をついている。


「いや」


 父さんは首を振った。


「まだ、いい」


 言えなかった言葉が、廊下に残った。


 鈴鹿を牧場に縛るな。


 そう言いたかったのだと思う。


 それを口にすれば、望が死んだ現実をもう一度置くことになる。


 春江は何も聞かなかった。


「分かった」


 それだけ答えた。


 父さんの杖の音が遠ざかる。


 こつん。


 こつん。


 今度は馬房の前を通った。


 逃げなかった。


 止まらなかった。


 通った。


 それだけで、十分だった。


 クラウンメアが俺の背を舐める。


「父」


「うん」


「痛い」


「うん」


「来た」


「来た」


 俺は馬房札を見た。


 ノゾミノカゼ。


 鈴鹿の字。


 父さんが触れた木札。


 俺の額には、まだ父さんの手の温度が残っている。


 父さんが触れたところだけ、白い毛が少し寝ていた。


 俺はそこを動かさなかった。


 消えるのが、少し惜しかった。


 その時、事務所の机の上で、紙が一枚落ちた。


 赤い付箋のついた紙。


 鈴鹿の進路希望用紙だった。

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