第3話 一週間で決める馬じゃない
軽トラックのドアが閉まった。
その音の前に、牧場はもう一つ失敗していた。
分娩房の横に置かれた給餌表。
いつもなら、朝の欄には望の字が入っている。
クラウンメア、産後確認。
乾草、少なめ。
水桶、交換。
胎便、要確認。
けれど、今日の欄は空白だった。
誰も書いていない。
誰も書けていない。
春江は請求書を引き出しに押し込む。
鈴鹿は兄のジャンパーの袖を握る。
俺は馬房の中で、脚に力を入れた。
まだ膝が頼りない。
生まれたばかりの脚だ。
それでも、今だけは崩れたくなかった。
外から長靴が砂利を踏む音が近づいてくる。
少し重い。
迷いがない。
三浦史門。
育成牧場の人間だ。
人間だったころの俺は、何度もこの足音を聞いた。
馬を見る前から、厳しいことを言う男だった。
「おう」
引き戸が開いた。
雨上がりの冷えた空気と一緒に、三浦さんが入ってくる。
五十手前。
日に焼けた顔。
作業帽のつばに、乾いた泥がついている。
三浦さんは、まず事務所を見た。
机。
伏せた請求書。
俺のマグカップ。
鈴鹿。
春江。
それから、馬房。
少しだけ間が空いた。
「……望は」
誰も答えなかった。
三浦さんは帽子を取った。
それだけで、事務所の空気が変わった。
春江が頭を下げた。
「昨夜、クラウンの分娩中に」
「そうか」
三浦さんは短く言った。
余計な慰めはなかった。
言えないのだと思う。
牧場の人間は、死を知らないわけじゃない。
馬の死も、人の怪我も、取り返しのつかない事故もある。
それでも、名前を知っている若い男が死ぬと、言葉は減る。
三浦さんは帽子を胸の前に持ったまま、数秒だけ目を伏せた。
それから顔を上げる。
「仔は」
仕事の声だった。
鈴鹿の顔が少し歪む。
早い。
そう思ったのかもしれない。
俺には分かる。
馬は待たない。
死んだ人間を悼んでいる間にも、仔馬は飲まなければならない。
立たなければならない。
母馬の状態も見なければならない。
悲しみと仕事を同じ部屋に置く。
それが牧場だ。
「こちらです」
春江が馬房へ歩いた。
足元が少しふらつく。
鈴鹿が横についた。
支えようとした手を、途中で止める。
春江は気づかないふりをした。
俺は首を上げた。
クラウンメアが俺の横に立つ。
「坊や」
「見る人」
「怖い?」
「厳しい」
「蹴る?」
「蹴らない」
クラウンメアは耳を一度だけ伏せた。
母馬としては、見知らぬ男が仔を見に来るのが気に入らないのだろう。
俺は鼻先をクラウンメアの胸に寄せた。
「見るだけ」
「嫌」
「俺、立つ」
クラウンメアの鼻息が背中にかかる。
熱い。
それでも、少しだけ下がってくれた。
三浦さんの目が変わった。
見逃さなかった。
俺が母馬を落ち着かせたことを。
「今の、偶然か」
まずい。
俺はすぐに頭を下げて、藁を嗅ぐふりをした。
仔馬らしく。
何も分かっていません、という顔で。
たぶん、できていない。
三浦さんは馬房の前に立った。
まずクラウンメアを見る。
腹。
後肢。
乳の張り。
呼吸。
それから俺。
顔ではない。
脚から見た。
蹄。
球節。
蹄の上にある大きな関節。
繋ぎ。
球節から蹄へ落ちる角度。
膝。
肩。
背中。
首。
最後に、目。
その順番が、いかにも三浦さんだった。
「立てるか」
春江が答える。
「はい。生まれてから、思ったより早く」
「飲んだか」
「さっき飲みました」
「胎便は」
「まだ……確認できていません」
胎便。
生まれた仔馬が最初に出す便だ。
これが遅れると、腹を痛める。
「出たらすぐ記録しろ。初乳は足りてるか」
「たぶん」
「たぶんじゃ困る」
春江の肩が固まった。
鈴鹿が一歩前に出ようとする。
俺は柵を鼻で押した。
カタン。
鈴鹿がこっちを見る。
出るな。
三浦さんは敵じゃない。
口が悪いだけだ。
「三浦さん」
鈴鹿が言った。
「お母さん、昨日から寝てません」
「だろうな」
「なら、そんな言い方しなくても」
三浦さんは鈴鹿を見た。
怒ってはいない。
「寝てない人間が見るから、確認するんだ」
鈴鹿は言葉を失った。
「悲しい時ほど、見落とす。仔馬は一つ見落とすと死ぬ。母馬もだ」
それは正しい。
腹が立つほど正しい。
春江は目元を押さえなかった。
ただ、頷いた。
「確認します」
「謝るな。見るだけでいい」
三浦さんはそれ以上責めなかった。
俺は一歩、前に出た。
脚が震える。
膝が抜けそうになる。
ここで転ぶな。
見せるのは、走りじゃない。
生きる力だ。
三浦さんの目が、俺の膝で止まった。
次に、前肢の出方。
それから首の使い方。
「……ふうん」
その声で、春江の指がわずかに動いた。
鈴鹿も息を止める。
三浦さんは馬房に入った。
クラウンメアは一歩だけ身を引く。
俺は逃げなかった。
逃げた方が仔馬らしい。
けれど、逃げれば足元を見られない。
残る価値を見せられない。
三浦さんの手が、俺の首筋に触れる。
硬い手だ。
人間だったころ、何度も握手した手。
皮膚が厚くて、爪の間に土が残る手。
「骨は軽すぎない」
低い声。
「首は柔らかい。肩も悪くない」
三浦さんは俺の前肢の横にしゃがんだ。
「繋ぎは少し寝てるが、今なら許容範囲。蹄はこれからだな。脚は長い。長すぎるのは怖いが……」
そこで言葉を切る。
俺は、ゆっくり体重を移した。
左。
右。
無理に格好よく立つな。
仔馬が不自然に立てば、かえって怪しまれる。
ただ、崩れない。
それだけでいい。
三浦さんの眉が動いた。
「自分で戻したな」
春江が聞き返す。
「え?」
「今、重心が前に落ちかけた。普通なら膝をつく。こいつは首で戻した」
鈴鹿の目が丸くなる。
「すごいんですか」
「すごいと決めるには早い」
三浦さんは即答した。
鈴鹿の表情が少し落ちる。
そのあとで、三浦さんは言った。
「ただ、安く見ていい仔じゃない」
春江の手が止まった。
事務所の引き出しの中には、伏せた請求書が入っている。
その場所だけ、やけに近く感じた。
「三浦さん」
春江の声が細くなる。
「売るなら、どうでしょうか」
言った。
言ってしまった。
鈴鹿が春江を見る。
責める顔ではない。
分かってしまう顔だ。
その顔が一番つらい。
三浦さんは俺から手を離した。
立ち上がる。
帽子をかぶり直す。
「今、安く売る馬じゃない」
春江が息を止めた。
「血統表だけなら、声はかかる。クラウンメアの母系を知ってるやつなら欲しがる。ただ、今の風見牧場は足元を見られる」
「足元……」
「望がいない。金に困ってる。そう思われたら、買う側は値を下げる」
その通りだ。
嫌になるくらい、その通りだ。
馬の価値は、馬だけで決まらない。
売る側の事情でも決まる。
急いで売れば、相手は分かる。
金がないのだと。
待てないのだと。
だから叩く。
「じゃあ、残した方がいいんですか」
鈴鹿が聞いた。
三浦さんはすぐには答えなかった。
俺を見る。
春江を見る。
鈴鹿を見る。
「残すには金がいる」
短い一言。
事務所がまた静かになった。
「飼うだけじゃない。育成に出す。獣医に診せる。蹄を整える削蹄もいる。怪我をさせない環境もいる。いい馬ほど、金がかかる」
「……はい」
春江は頷いた。
「売れば、今の金になる。残せば、未来の金になるかもしれない。どっちが正しいかは、俺には決められん」
三浦さんは俺の額を見た。
白い流星。
王冠のような模様。
「ただ」
そこで、初めて声が少しだけ変わった。
「望が生きてたら、たぶん言うな」
春江が顔を上げる。
鈴鹿も。
三浦さんは、俺の首筋を軽く叩いた。
「一週間で決める馬じゃない、って」
胸の奥が詰まった。
そうだ。
俺なら言う。
売るにしても、残すにしても、材料が足りない。
初乳。
胎便。
立ち上がり。
母馬の回復。
数日の脚元。
性格。
それを見てからだ。
金は待ってくれない。
馬を見る目まで急がせたら終わりだ。
鈴鹿が、ゆっくり息を吐いた。
「一週間……」
乾草屋がくれた一週間。
それは、支払いの猶予だけじゃない。
この仔を見極める時間でもある。
春江は引き出しの方を見た。
伏せた請求書のある場所だ。
それから、俺を見た。
「一週間、見ます」
三浦さんは頷いた。
「毎日記録しろ。飲んだ時間、胎便、歩様、母馬の乳、熱。望がやってたみたいにな」
春江の目が揺れた。
「……望みたいに、できるかしら」
鈴鹿が口を開いた。
「やる」
声は小さかった。
それでも、消えなかった。
「私が記録する」
「学校は」
春江が言う。
「行く。でも、朝と夜は見る」
そこまで言って、鈴鹿は事務所の奥を見た。
兄の机。
引き出しの中には、望だった俺のノートがある。
分娩記録。
馬体メモ。
支払い予定。
鈴鹿の進路資料に貼った付箋と同じ、汚い字。
鈴鹿は一歩だけ机に近づいた。
けれど、引き出しには手を伸ばせなかった。
「……兄さんのノート、残ってるでしょ」
声が少しだけ小さくなる。
春江は答えなかった。
泣きそうな顔で、頷いた。
三浦さんが鈴鹿を見た。
「字は読めるか。望の字、汚いぞ」
「読めます」
鈴鹿は袖口を親指で一度なぞった。
「兄妹なので」
「なら、任せる」
鈴鹿の背筋が、少しだけ伸びた。
それを見て、俺はようやく息を吐いた。
小さな報酬。
売却は消えていない。
請求書も消えていない。
望は帰ってこない。
それでも、一週間。
俺はここに残れる。
鈴鹿は学校へ行きながら、俺を見る理由を持った。
春江は、今日だけ決断しなくてよくなった。
クラウンメアが、俺の背に鼻を寄せた。
「坊や」
「残る」
「ここ?」
「まだ」
「よし」
馬の母さんは、それだけで満足したように俺を舐めた。
三浦さんは馬房を出る前に、もう一度だけ俺を見た。
「望」
思わず耳が動いた。
しまった。
三浦さんの目が細くなる。
けれど、彼は何も言わなかった。
俺ではなく、空になった給餌表を見た。
「お前の残した仕事、まだ終わってねえぞ」
その言葉は、俺に向けたものではない。
死んだ風見望に向けたものだ。
だから俺は、返事をしてはいけなかった。
馬房の中で、ただ立つ。
膝を折らない。
倒れない。
それだけが、今の返事だった。
その時、奥の廊下で杖の音がした。
こつん。
春江が振り返る。
鈴鹿も顔を上げる。
けれど、父さんは馬房の前まで来なかった。
廊下の曲がり角で、杖の音だけが止まった。
俺は耳を向けた。
父さん。
俺はここにいる。
そう言いたかった。
出せたのは、短い鼻息だけだった。
廊下の向こうで、杖の音が遠ざかる。
こつん。
こつん。
三浦さんは帽子のつばを下げた。
鈴鹿は、袖を握らなかった。
俺は前脚を踏み直した。
一週間。
まずは、そこまで生きる。
そして、見せる。
俺は、空白の給餌表を見た。
朝の欄はまだ白い。
そこへ、まだ書ける余白が残っていた。




