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ノゾミノカゼ ――死んだ兄は、馬として家族のもとへ帰ってきた――  作者: ビッグサム


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第2話 乾草屋の電話

 古い電話が鳴った。


 兄が死んだ朝でも、牧場の支払いは待ってくれなかった。


 ジリリリリ、と事務所の奥で音が跳ねる。


 分娩房と事務所は、古い引き戸一枚でつながっている。


 夜中の出産にすぐ対応できるように、望だった俺が、去年の冬に無理やり片づけた場所だ。


 だから、聞こえる。


 電話の音も。


 椅子を引く音も。


 春江――人間の母さんが、泣く前に息を止める音も。


 馬房の中で、俺は耳を動かした。


 人間だったころなら、すぐに受話器を取っていた。


 相手の名前を聞く前に、だいたい分かった。


 獣医。


 装蹄師。


 飼料屋。


 乾草屋。


 農協。


 銀行。


 牧場にかかってくる電話は、たいてい金か、馬か、金のかかる馬の話だ。


「坊や」


 クラウンメアが、俺の首元を舐めた。


 ざらりとした舌が、産毛を倒す。


「飲め」


「……母さん」


「飲め。冷える」


 馬の母さんの声は長くない。


 意味は分かる。


 飲め。


 立て。


 生きろ。


 クラウンメアは、それだけで全部を伝えてくる。


 俺は乳を飲もうとした。


 電話は鳴り続けている。


 ジリリリリ。


 事務所の床が鳴った。


 誰かが椅子を引いた。


「はい。風見牧場です」


 春江の声だった。


 かすれている。


 泣いたあとだ。


 いや、泣く前の声かもしれない。


 人前で泣かないように、喉だけ先に潰している声。


 俺はその声を知っている。


 帳簿を見て、支払い予定を一つずつ後ろへずらしていた時の声だ。


「はい。いつもお世話になっております」


 乾草屋だ。


 聞こえた瞬間、腹の奥が冷えた。


 仔馬の腹じゃない。


 風見望だったころの腹が、冷えた。


 乾草は止められない。


 馬は食う。


 どれだけ家が苦しくても、馬は食う。


 食わせなければ、馬房の中から順番に壊れていく。


 クラウンメアの乳も落ちる。


 俺も育たない。


 生まれたばかりの仔馬が、いきなり家計の重りになる。


 笑えない。


 俺は自分の脚を見た。


 長い。


 細い。


 まだ震えている。


 この脚で、いつか牧場を救う。


 そう決めたばかりなのに、今の俺は請求書一枚どころか、受話器も持てない。


「……はい。分かっています。先月分がまだ」


 春江の声が小さくなった。


 俺は馬房の柵へ近づいた。


 藁が腹の下で擦れる。


 一歩出るたび、膝が少し抜ける。


 クラウンメアが首を伸ばした。


「坊や」


「行く」


「危ない」


「聞く」


 クラウンメアは、それ以上止めなかった。


 俺が柵の前に立つと、開けっぱなしの事務所が見えた。


 机。


 積まれた請求書。


 昨日の夜まで俺が使っていたマグカップ。


 白地に、青い馬の絵が入ったやつ。


 片づけられていない。


 春江は受話器を耳に当てたまま、机の端に手を置いていた。


 指先が赤い。


 洗い物と消毒液で荒れた手だ。


「少しだけ、待っていただけませんか」


 その言葉を聞いた瞬間、俺は柵を噛みそうになった。


 違う。


 そこは俺が言うところだ。


 俺が頭を下げるところだ。


 俺が来週の入金予定を説明して、セリの見込みを話して、クラウンメアの仔が無事に生まれたことを材料にして、もう少し待ってもらうところだ。


 なのに。


 春江が謝っている。


 受話器の向こうから、乾いた男の声が少し漏れた。


 早川さんだ。


 うちに乾草を入れてくれている。


 雪の日にトラックがぬかるみに嵌まった時、俺がトラクターで引っ張った相手でもある。


 悪い人じゃない。


 善人だけでは商売はできない。


 早川さんにも倉庫代がある。


 仕入れがある。


 燃料代がある。


 だから、責められない。


 責められないのが、きつい。


「望が……」


 春江の声が、そこで一度切れた。


 受話器を持つ手に力が入る。


「……はい。昨日の夜に」


 事務所の入口に、鈴鹿が立っていた。


 兄の古い牧場ジャンパーを羽織っている。


 袖が長い。


 手が半分隠れている。


 その袖口を、鈴鹿は両手で握っていた。


 布がねじれて、白くなっている。


 やめろ。


 そんな握り方をするな。


 袖が伸びる。


 手首も冷える。


 言おうとした。


 出たのは小さな鼻息だけだった。


 鈴鹿は俺を見ない。


 電話を聞いている。


 聞かせたくなかった金の話を、聞いている。


「……一週間、ですか」


 春江が繰り返した。


 受話器の向こうで、早川さんが何か言った。


 春江は目を閉じた。


「ありがとうございます。本当に……ありがとうございます」


 一週間。


 一週間だけ、乾草は止まらない。


 たぶん、望の名前が効いた。


 俺が何度も電話して、遅れる時は逃げずに謝って、雪の日も雨の日も手伝ってきた分。


 それが、家族を一週間だけ助けた。


 死んだあとで。


 たった一週間。


 今の風見牧場には、その一週間が必要だった。


 春江は電話を切った。


 受話器を置く音が、やけに大きかった。


 事務所が静かになる。


 鈴鹿が言った。


「お母さん」


「大丈夫」


 春江はすぐに答えた。


 俺は喉の奥で、変な音を出しそうになった。


 それは望の悪い癖だ。


 大丈夫じゃない時ほど、大丈夫と言う。


 鈴鹿はそれを知っている。


 案の定、鈴鹿は動かなかった。


「兄さんと同じ言い方」


 春江の手が止まった。


 机の上には請求書がある。


 乾草代。


 飼料代。


 獣医代。


 燃料代。


 補修費。


 春江は、その一枚を裏返した。


 白い紙の裏が上になる。


 見えなくしただけだ。


 消えたわけじゃない。


「鈴鹿には、まだ言わないでおこうと思ってたの」


「もう聞いた」


「そうね」


 春江は椅子に座った。


 座るというより、腰から落ちた。


 鈴鹿は袖口を握ったまま、机の横に立っている。


 事務所の壁には、鈴鹿の進路資料が挟んであった。


 大学案内。


 専門学校のパンフレット。


 赤い付箋が貼られている。


 たぶん、望だった俺が貼ったものだ。


 家から通える。


 奨学金制度あり。


 馬の仕事以外も選べる。


 そう書いた記憶がある。


 鈴鹿は、その資料を見なかった。


「私、学校休む」


「だめ」


「でも」


「だめ。望が怒る」


 春江はそこで、言葉を飲み込んだ。


 望。


 俺の名前。


 自分で聞いても、変な感じがした。


 俺はここにいる。


 馬房の中にいる。


 母さんたちにとっての望は、昨日の夜にいなくなった。


 鈴鹿の顔が歪んだ。


 泣く、と思った。


 けれど泣かなかった。


 代わりに、袖をさらに握った。


 ああ。


 やめろって。


 兄さんがいるなら、そう言うところだ。


 俺は馬房の柵を鼻で押した。


 カタン、と音がした。


 鈴鹿がこちらを見る。


 ようやく目が合った。


 赤い鼻。


 寝ていない目。


 長すぎる袖。


 昨日の分娩房で見た顔と同じだった。


 俺は柵の隙間から、首を伸ばした。


 鈴鹿が一歩近づく。


「ノゾミノカゼ?」


 その名前で呼ばれると、胸の奥が少し熱くなる。


 俺は鈴鹿の袖口を、そっとくわえた。


 破らない。


 引っ張らない。


 ただ、握りつぶされた布を口先でほどく。


 昔、人間の指でやっていたことを、今は歯と唇でやる。


 鈴鹿の手から、少しだけ力が抜けた。


「……また、それ」


 小さな声だった。


 春江もこちらを見た。


 俺はすぐに袖を離した。


 やりすぎるな。


 ただの仔馬が、あまりに望みたいに動けば、鈴鹿を余計に苦しめる。


 放っておけない。


 鈴鹿が自分の未来を握りつぶすところを、黙って見ていられない。


 春江が、ゆっくり立ち上がった。


「この仔、不思議ね」


「うん」


「生まれたばかりなのに、妙に落ち着いてる」


 春江の視線が俺に向く。


 まずい。


 落ち着きすぎるのも変だ。


 仔馬はもっと無駄に動く。


 転ぶ。


 鳴く。


 母馬の腹にぶつかる。


 今の俺は、耳を立てて請求書の話を聞いている。


 可愛げが足りない。


 俺は慌てて、クラウンメアの腹へ戻った。


 乳を探す。


 口元が少しずれる。


 わざとじゃない。


 まだ本当に下手だ。


 それでも飲む。


 弱って見せるな。


 俺まで不安材料になるな。


 この家には、もう心配を増やす余裕がない。


 クラウンメアが後ろから鼻を寄せてきた。


「坊や」


「飲む」


「よし」


 馬の母さんの短い声が、背中に落ちる。


 鈴鹿が少しだけ息を吐いた。


「ちゃんと飲んでる」


「そうね」


 春江はそう言ってから、机の上の請求書を見た。


 また伏せた。


 今度は一枚だけじゃない。


 三枚。


 四枚。


 白い裏面が並ぶ。


 雪みたいだった。


 雪なら春になれば溶ける。


 請求書は溶けない。


「お母さん」


「うん」


「ノゾミノカゼ……うちの仔なのに、いなくなるのかな」


 鈴鹿の声が低くなった。


 本当に泣きそうな時の声だ。


 春江は、すぐに答えなかった。


 その沈黙だけで、答えは半分出ていた。


 俺は乳を飲むのを止めた。


 当歳で売る。


 あり得る。


 血統はいい。


 クラウンメアは、もう忘れられかけた名牝系の最後の枝だ。


 父馬も、派手な人気種牡馬ではない。


 ただ、長く脚を使う仔を出す。


 血統表だけを見れば、欲しがる人はいる。


 風見牧場の名前が弱くても、見る人が見れば声はかかる。


 当歳セール。


 庭先の打診。


 一歳まで待つ。


 どの形でも、金にはなる。


 俺はそれを知っている。


 知っているから、怖い。


 売られたら、風見牧場から離れる。


 鈴鹿の袖に触れられない。


 春江の電話に耳を立てられない。


 父さんの杖の音も聞けない。


 クラウンメアからも離される。


 勝てば家族を救えるかもしれない。


 家族のそばでは育てない。


 そんな未来が、もう机の上に置かれている。


 春江は、やっと口を開いた。


「まだ決めてない」


「それ、考えてるってことだよね」


「……考えないといけない」


 鈴鹿が袖を握った。


 俺はまた柵を押しそうになった。


 今度は我慢した。


 ここで騒げば、仔馬として扱われるだけだ。


 売られたくないなら、何を見せる。


 泣くな。


 暴れるな。


 ただ生きろ。


 この家の人間が、今日だけでも少し息をできるように。


 俺はクラウンメアの腹の下で、もう一度乳を飲んだ。


 音を立てすぎないように。


 止まらないように。


 生まれた仔馬がちゃんと飲む。


 それだけで、牧場の人間は少し救われる。


 望だった俺は、それを知っている。


 鈴鹿が、ゆっくりしゃがんだ。


 袖口はまだ皺になっている。


 さっきより握り方は弱い。


「ノゾミノカゼ」


 俺は顔を上げた。


 鈴鹿が手を差し出す。


 冷えた指先。


 消毒液と、藁と、古いジャンパーの匂い。


 俺はその手に鼻を寄せた。


 鈴鹿は俺の額の流星を撫でた。


 王冠みたいな白い模様。


 クラウンメアに似た印。


 その先だけ、風に流れたみたいに曲がっている。


「……兄さん、こういう模様、好きだった」


 鈴鹿の指が、俺の額で止まった。


「白いところがあると、すぐ縁起がいいって言うの。馬の顔ばっか見て」


 嫌だ。


 そんな顔で笑うな。


 泣くより痛い。


 鳴けない。


 兄だと伝えられない。


 俺は鈴鹿の手のひらに、鼻先を押しつけた。


 強くではなく。


 離れない程度に。


 春江が、後ろで小さく息を吸った。


「鈴鹿」


「何」


「学校、行きなさい」


「……うん」


「望が、鈴鹿の進路資料に付箋貼ってたでしょ」


 鈴鹿の肩が揺れた。


 春江は机の横の資料を見た。


 赤い付箋。


 俺が書いた字。


 家から通える。


 奨学金あり。


 馬以外の道も見ること。


 鈴鹿はその文字を見て、口を閉じた。


「兄さん、勝手に見るなって言ったのに」


「見てたわね」


「最低」


「そうね」


 春江は、少しだけ笑った。


 笑ったというより、息が漏れた。


 鈴鹿は泣かなかった。


 ただ、兄のジャンパーの袖で目元を押さえた。


 その袖がまた伸びそうになって、俺は鼻を伸ばした。


 鈴鹿は手を止めた。


「分かってる。握らない」


 分かっているなら、いい。


 俺は短く息を吐いた。


 クラウンメアが、俺の耳を舐める。


「坊や」


「いる」


「ここに」


「うん」


 俺はここにいる。


 それを人間の言葉で言えない。


 だから、飲む。


 立つ。


 倒れない。


 鈴鹿が学校へ行けるように。


 春江が、伏せた請求書を一枚でも表に戻せるように。


 父さんが、杖をついたまま事務所の入口で立ち尽くさなくて済むように。


 俺は、馬としてここにいる。


 その時、外から軽トラックの音がした。


 砂利を踏む、短い音。


 春江が窓を見る。


「……三浦さん、早い」


 鈴鹿が顔を上げた。


「誰?」


「望が、生まれたら一度見てほしいって頼んでた人」


 育成の三浦史門。


 馬を見る目は厳しい。


 情で褒めない。


 牧場が苦しいからといって、甘いことも言わない。


 俺が人間だったころ、何度も言われた。


『望。血統だけで飯は食えないぞ』


 その三浦さんが、俺を見る。


 売るべきか。


 残すべきか。


 走る可能性があるのか。


 春江は聞く。


 鈴鹿も聞く。


 俺は乳から口を離した。


 脚に力を入れる。


 まだ震える。


 それでも、立つ。


 事務所の引き出しには、伏せられた請求書が入っている。


 鈴鹿の袖には、俺がほどいた皺が残っている。


 クラウンメアの乳は、まだ温かい。


 俺は顔を上げた。


 馬房の外で、軽トラックのドアが閉まった。

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