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ノゾミノカゼ ――死んだ兄は、馬として家族のもとへ帰ってきた――  作者: ビッグサム


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1/7

第1話 兄は、馬として帰ってきた

 俺は、妹が泣く声を聞きながら死んだ。


 馬に蹴られた。


 胸の奥で、嫌な音がした。


 息が抜けて、分娩房の天井が揺れた。


「兄さんっ!」


 鈴鹿の声が、雨音を裂いた。


 ああ、まずい。


 あいつ、また袖を握りつぶして泣く。


 俺――風見望は、藁の上に倒れながら、そんなことを考えていた。


 夜明け前の風見牧場。


 分娩房には、汗と血と羊水の匂いがこもっていた。


 屋根を叩く雨音がうるさい。


 谷から吹く風が、古い扉をがたがた鳴らしている。


 ここは昔から、風の強い牧場だった。


 俺は子どもの頃から、その風の匂いで雨を読んでいた。


 鈴鹿はそれを見て、よく笑った。


「兄さん、馬じゃなくて風と話してるみたい」


 その鈴鹿が、今は笑っていない。


 母馬のクラウンメアは、横たわったまま荒く息を吐いていた。


 額に王冠みたいな白い流星を持つ、うちの大事な繁殖牝馬だ。


 血統だけなら文句なし。


 父は名種牡馬。


 母系には重賞馬が並ぶ。


 本来なら、大牧場が何千万でも欲しがるような仔が産まれるはずだった。


 けれど、うちは小さな牧場だ。


 乾草屋からの請求書は、事務所の電話の横に伏せたまま置いてある。


 三番馬房の屋根は、雨の日だけ水が落ちる。


 うちの母は、その下に古いバケツを置いて、毎朝、何も言わずに水を捨てている。


 鈴鹿の進路希望用紙は、台所の引き出しに折れたまま入っていた。


 俺が見ないふりをしても、分かる。


 あいつは、牧場の金が苦しいことを知っている。


 だから、この出産はただの出産じゃなかった。


 クラウンメアの命。


 仔馬の命。


 牧場の明日。


 鈴鹿の未来。


 全部が、この分娩房にあった。


「クラウン、もう少しだ。頼む。もう少しだけ頑張れ」


 俺はクラウンメアの首筋を撫でた。


 汗で濡れている。


 熱い。


 熱すぎる。


「兄さん、獣医さんは?」


 入口で鈴鹿がスマホを握っていた。


 高校のジャージの上に、俺の古い牧場ジャンパーを羽織っている。


 袖が長い。


 右手の先が半分隠れていた。


 不安になると、鈴鹿はその袖口を丸める。


 今も右袖だけが、ぐしゃぐしゃになっていた。


「山道で止まってる。雨で車が上がれない」


「そんな……」


「鈴鹿。そこから入るな」


「でも、兄さん一人じゃ」


「入るな」


 強く言った。


 鈴鹿の肩が跳ねた。


 悪い。


 でも、近づかせるわけにはいかなかった。


 難産の馬は危ない。


 痛みで脚が飛ぶ。


 普段どれだけ優しい馬でも、人間の骨くらい簡単に折る。


 俺はそれを知っている。


 知っているのに、クラウンメアのそばを離れられなかった。


 母馬を見捨てられなかった。


 仔馬を諦められなかった。


 鈴鹿に、これ以上何かを失わせたくなかった。


「クラウン。俺を見るな。前を見ろ」


 クラウンメアの黒い目が俺を見た。


 痛い。


 怖い。


 でも、産みたい。


 そんな目だった。


 馬は長い言葉を話さない。


 でも、牧場にいれば分かる。


 耳の角度。


 首の硬さ。


 鼻先の震え。


 蹄が床を掻く音。


 馬はずっと喋っている。


 人間が、聞き落としているだけだ。


「大丈夫だ」


 俺は言った。


「お前の仔だ。絶対に、外には出してやる。だから、産め」


 次の瞬間、クラウンメアの腹が大きく波打った。


 後肢が跳ねた。


 避けるには、近すぎた。


 胸に衝撃が入った。


 鉄の扉を内側から叩きつけられたみたいだった。


 息が抜ける。


 体が浮く。


 藁の上に落ちる。


「兄さん!」


 鈴鹿が駆け込んできた。


 近づくな。


 言いたかった。


 声が出ない。


 鈴鹿が俺の横に膝をついた。


 俺の作業着を掴む。


 右袖は、やっぱりぐしゃぐしゃだった。


 泣くな。


 鈴鹿。


 お前は泣くと、鼻の頭が赤くなる。


 小さい頃からそうだ。


 父さんが倒れて救急車で運ばれた日も。


 母が夜中に帳簿を見て黙った日も。


 俺が「大丈夫だ」と嘘をついた日も。


 お前は袖で涙を拭いて、無理に笑おうとした。


 だから、泣くな。


 兄ちゃんは大丈夫だ。


 そう言いたかった。


 でも、口の中に血の味が広がっただけだった。


「兄さん、起きて。お願い。ねえ、起きてよ」


 鈴鹿の指に、藁が一本ついていた。


 取ってやりたい。


 そんな、どうでもいいことが頭に浮かんだ。


 クラウンメアが荒く鳴いた。


 仔馬は、まだ出きっていない。


 俺は手を伸ばそうとした。


 伸びなかった。


 頼む。


 生きろ。


 クラウン。


 仔馬。


 鈴鹿。


 風見牧場。


 みんな、生きろ。


 最後に見えたのは、鈴鹿の赤くなった鼻と、握りつぶされた袖口だった。


   ◇


 寒い。


 最初にそう思った。


 次に、息ができないと思った。


 体が濡れている。


 重い。


 地面が近い。


 目を開けると、分娩房の明かりがぼやけていた。


 雨音がする。


 人の声がする。


 鈴鹿の泣き声もする。


 俺は起き上がろうとした。


 腕が動かない。


 いや、腕がない。


 代わりに、細い脚が四本あった。


 濡れた毛。


 頼りない膝。


 大きすぎる頭。


 動かし方が分からない。


「……ヒン」


 口から出たのは、人間の声ではなかった。


 小さな仔馬の鳴き声だった。


「産まれた!」


 誰かが叫んだ。


「仔馬が産まれたぞ!」


 産まれた?


 仔馬?


 誰が?


 視界の端に、男が倒れていた。


 藁の上。


 胸元を血で汚し、鈴鹿に抱かれている男。


 風見望。


 俺だった。


 俺の体が、そこにあった。


 動かない。


 鈴鹿がその体にしがみついている。


「兄さん……兄さん……っ」


 俺は鳴いた。


 違う。


 俺はここだ。


 鈴鹿。


 兄ちゃんはここにいる。


 でも、届かない。


 鈴鹿は俺を見なかった。


 当然だった。


 たった今、兄が目の前で動かなくなったのだ。


 産まれた仔馬を見る余裕なんて、あるはずがない。


「救急車、まだか!」


「仔馬を拭け! 冷える!」


「クラウンの出血を見ろ!」


 分娩房の中で、声が飛び交った。


 消えかけた命と、産まれた命が、同じ藁の上にあった。


 救急隊員の一人が俺だった体に手を当てた。


 少しして、その人は鈴鹿から目を逸らした。


 それだけで分かった。


 あの体には、もう戻れない。


「いや……」


 鈴鹿の声が、細く折れた。


「いやだ、兄さん、置いていかないで……」


 俺は鈴鹿のところへ行こうとした。


 でも、脚が動かない。


 前脚を出したつもりが、横に滑る。


 鼻先から藁に突っ込んだ。


 情けない声が出た。


 そのとき、大きな鼻先が俺に触れた。


 温かい息。


 濡れた舌。


 クラウンメアが、俺の体を舐めていた。


 さっきまで苦しんでいた母馬が、震える首を伸ばして俺を舐める。


 その声が、頭の奥に短く落ちてきた。


「坊や」


 言葉ではない。


 でも意味は分かった。


「立て」


「生きて」


 俺はクラウンメアを見た。


 母さん。


 そう思った。


 おかしい。


 俺は人間だった。


 風見牧場の牧場主だった。


 鈴鹿の兄だった。


 なのに、この体はクラウンメアの仔で。


 この馬は、俺の新しい母だった。


「……母さん」


 鳴き声にしかならなかった。


 けれど、クラウンメアの耳がぴくりと動いた。


 通じた。


「坊や」


「立て」


 俺は脚に力を入れた。


 知っている。


 仔馬は、生まれたら立たなきゃいけない。


 初乳を飲まなきゃいけない。


 立てない仔は危ない。


 飲めない仔は、もっと危ない。


 俺はそれを何度も見てきた。


 助かった仔も。


 助からなかった仔も。


 今度は、俺自身の番だった。


 前脚を伸ばす。


 滑る。


 倒れる。


 鈴鹿の泣き声が聞こえる。


 俺はまた立とうとした。


 立て。


 鈴鹿に、これ以上失わせるな。


 クラウンメアに、産んだ仔まで失わせるな。


 風見牧場を、今日で終わらせるな。


 前脚。


 後脚。


 腹。


 首。


 全部がばらばらだった。


 それでも、クラウンメアが俺を舐め続ける。


「坊や」


「立て」


「生きる」


 俺は立った。


 四本の脚が震えている。


 膝が折れそうになる。


 それでも立った。


 その向こうで、救急隊員が俺だった体を運んでいく。


 鈴鹿は最後まで、作業着の袖を掴んでいた。


「兄さん……」


 俺は鳴いた。


 ここにいる。


 でも、届かなかった。


 鈴鹿は振り返らない。


 振り返らなくていい。


 今は、兄だけを見ていていい。


 俺はクラウンメアの腹に顔を寄せた。


 初乳を探す。


 生きるために。


 走るために。


 いつか、鈴鹿に伝えるために。


 兄は消えていない。


 馬として、ここにいるのだと。


   ◇


 翌朝。


 雨は止んでいた。


 分娩房の前に、鈴鹿が立っていた。


 昨日と同じ牧場ジャンパーを羽織っている。


 袖口は乾いていない。


 涙を拭いた跡と、藁の粉がついたままだった。


 鈴鹿は、すぐには馬房に入らなかった。


 柵の前で立ち尽くしていた。


 目の下が赤い。


 鼻も赤い。


 たぶん、一晩ほとんど眠っていない。


「……あんたが」


 鈴鹿の声はかすれていた。


「兄さんが、助けた子なんだよね」


 俺は一歩、柵へ近づいた。


 まだ脚は震える。


 それでも近づいた。


 鈴鹿は俺を見ている。


 昨日みたいに、兄の体だけを見ているわけじゃない。


 俺は鼻先を伸ばした。


 柵の隙間から、鈴鹿の右袖が少しだけ垂れていた。


 泣くと握りつぶす、あの袖。


 俺はそっとくわえた。


 引っ張らない。


 破らない。


 昔、泣いている鈴鹿の袖を、俺が指でつまんで止めた時みたいに。


 鈴鹿の息が止まった。


「……兄さん?」


 俺は鳴いた。


 違う。


 でも、違わない。


 鈴鹿の指が、柵の隙間から伸びてきた。


 俺の額に触れる。


 クラウンメアと同じ、王冠みたいな白い流星。


 その先端だけが、風に流れるように曲がっている。


 鈴鹿はしばらく黙っていた。


 指先が震えていた。


「望、みたい」


 俺は鈴鹿の袖を離した。


 鈴鹿は笑おうとして、失敗した。


 涙が一つ落ちた。


「名前、決めた」


 誰も止めなかった。


 鈴鹿は俺の額を撫でながら、ゆっくり言った。


「ノゾミノカゼ」


 俺は耳を動かした。


「この子の名前。ノゾミノカゼがいい」


 鈴鹿はしゃがみ込んだ。


 柵越しに、俺の鼻先へ額を近づける。


「変だね。兄さんが、そこにいるみたい」


 俺は鳴いた。


 鈴鹿。


 俺はここにいる。


 まだ何も言えない。


 人間の言葉も話せない。


 帳簿も書けない。


 借金の電話にも出られない。


 でも、見えるものはある。


 鈴鹿の手。


 昨日より少し荒れている。


 爪の端に、乾いた泥が残っている。


 朝、うちの母の代わりに馬房の水桶を替えた手だ。


 俺が守らなきゃいけなかった手だ。


 走る。


 そう断言するには、まだ早すぎる。


 生まれたばかりの仔馬を見て、未来を決めつける牧場主は信用できない。


 それでも、俺の目は拾ってしまう。


 脚の長さ。


 首の柔らかさ。


 立ち上がった時、何度転んでも前に出ようとした癖。


 胸の奥で、強く打つ心臓。


 この脚を、安く見積もるわけにはいかない。


 この心臓を、ただの期待で終わらせるわけにはいかない。


 鈴鹿がもう一度、俺の名前を呼んだ。


「ノゾミノカゼ」


 クラウンメアが後ろで短く鳴いた。


「坊や」


「生きる」


 俺は鈴鹿の手に鼻先を寄せた。


 鈴鹿の袖には、まだ昨日の藁がついていた。


 払ってやる指は、もう俺にはない。


 進路希望用紙を一緒に見てやる声もない。


 夜中に帳簿を閉じて、「寝ろ」と言ってやる手もない。


 だから走る。


 この脚で、あいつの明日を取り返す。


 兄としては死んだ。


 でも、馬として帰ってきた。


 なら、生きる。


 クラウンメアの仔として。


 風見牧場の馬として。


 鈴鹿の兄として。


 俺は、ノゾミノカゼとして生きる。

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