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ノゾミノカゼ -死んだ兄は、馬として家族のもとへ帰ってきた-  作者: ビッグサム


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第64話 勝った後の馬の人生

 ◇ 鈴鹿視点


 講義室の窓に、冬の雲が映っていた。


 鈴鹿はノートの端に、昨日の検査結果を書いていた。


 右前。

 骨、大きな異常なし。

 腱、致命傷なし。

 疲労、蓄積。

 予定表、白紙。


 最後の一行で、ペン先が止まった。


 勝ったのに。


 菊花賞を勝ったのに、次の予定は空白になった。


 黒板には、別の文字が並んでいる。


 競走馬の引退後。

 種牡馬価値。

 繁殖ビジネス。

 セカンドキャリア。

 馬福祉。


 教授は淡々と話していた。


「競走馬は、勝ったあとも生きています。むしろ、勝った馬ほど、本人の意思とは別の価値が動くことがあります」


 鈴鹿の手が止まった。


 本人の意思。


 ノゾは、何を望んでいるのだろう。


 走りたいのか。


 休みたいのか。


 帰りたいのか。


 それとも、全部なのか。


 昨日の厩舎で、鈴鹿はノゾに言った。


 痛いの隠さないで。


 ノゾは鼻を寄せてきた。


 偶然かもしれない。


 でも、鈴鹿には、偶然とは思えなかった。


 教授の声が続く。


「種牡馬入りは名誉でもあります。経済でもあります。ただし、競走能力の価値と、馬自身の生涯を同じものとして扱ってはいけません」


 鈴鹿はノートに書いた。


 勝った馬ほど、本人の意思と関係なく価値が動く。


 書いてから、胸の奥が少し冷えた。


 ノゾには意思がある。


 そう思っているのは、風見家だけかもしれない。


 ◇ 客観視点


 夕方、風見牧場に厚い封筒が届いた。


 差出人は、投資会社だった。


 春江は事務所の机に封筒を置き、すぐには開けなかった。


 宗一郎は窓際の椅子に座っている。


 杖は膝の横。


 鈴鹿は大学から戻ったばかりで、鞄を下ろす前に封筒を見た。


「また?」


 春江は頷いた。


「今度は、かなり本格的ね」


 封を切る。


 中から、光沢のある資料が出てきた。


 早期種牡馬入り。

 現役続行リスク。

 資産価値保全。


 その下に、知らない会社名と、知らない肩書が並んでいる。


 春江は一枚めくって、手を止めた。


 金額があった。


 乾草代でも、獣医代でも、入学金でもない。


 桁が違う数字だった。


 鈴鹿は、その数字より先に、ノゾミノカゼの名前を見た。


 ノゾミノカゼ。


 その横に、資産価値という文字がある。


「……ノゾの脚、昨日見たばかりなのに」


 春江は何も言わない。


 宗一郎が資料へ手を伸ばした。


 一枚目だけを見る。


 それから、裏返して机に伏せた。


「あいつは、金庫じゃない」


 低い声だった。


 鈴鹿は顔を上げた。


 宗一郎は窓の外を見ている。


 厩舎の方だ。


「走ったら金になる。勝ったらもっと金になる。種牡馬にしたら、さらに金になる」


 杖の先が、床を一度だけ鳴らした。


「そんなことは、分かってる」


 春江の手が、伏せられた資料の端に置かれた。


 宗一郎は続けた。


「だが、あいつの脚を数字にして、うちが助かった顔をするなら……望にまた同じことをさせる」


 事務所が、しばらく黙った。


 望の名前だけが、机の上に残った。


 春江は台所へ行き、湯呑みを持って戻ってきた。


 湯気の立つお茶が入っている。


 春江はその湯呑みを、伏せた資料の上に置いた。


「冷めるまで、これは見ない」


 誰も反対しなかった。


 ◇ 鈴鹿視点


 鈴鹿は鞄から大学ノートを出した。


 講義の文字が、まだ紙の上に残っている。


 勝った馬ほど、本人の意思と関係なく価値が動く。


 その下に、もう一行書いた。


 知らないままじゃ、守れない。


 ペン先が震えた。


 悔しかった。


 ノゾを家族だと思っている。


 兄が帰ってきたように思っている。


 でも、それを言うだけでは、資料を持ってくる人たちには届かない。


 金の話から逃げたら、ノゾは守れない。


 契約を読めなければ、ノゾは守れない。


 種牡馬価値という言葉を嫌うだけでは、ノゾは守れない。


「私、勉強する」


 鈴鹿が言うと、春江が湯呑みから目を上げた。


「してるじゃない」


「もっと。馬の体だけじゃなくて、契約とか、お金とか、引退したあとのことも」


 宗一郎は黙って聞いていた。


 鈴鹿はノートを握る。


「兄さんが守った馬を、今度は私が守りたい。でも、好きだから守る、だけじゃ足りない」


 春江は少しだけ笑った。


 泣きそうな顔ではなかった。


 疲れた顔だった。


 でも、まっすぐだった。


「足りないなら、足せばいいわ」


 鈴鹿は頷いた。


 ◇ 望視点


 馬房の外で、風が鳴っている。


 右前の奥には、まだ重さが残っていた。


 痛い、ではない。


 でも、何もないわけではない。


 俺は床に右前を置いた。


 冷たい。


 その冷たさが、少し気持ちいい。


 事務所の方から、人の声が聞こえる。


 言葉までは分からない。


 ただ、鈴鹿の声が一度だけ高くなった。


 春江の足音。


 父さんの杖。


 紙を伏せる音。


 湯呑みが机に置かれる音。


 その全部が、馬房の壁を越えて届いた。


 俺は鼻を鳴らす。


 勝った。


 菊花賞を勝った。


 でも、勝ったあとも、家族は黙り込む。


 喜ぶ声ではない。


 泣く声でもない。


 何かを、また机の上に置かれている音だった。


 馬房の外で、鈴鹿の足音が止まった。


「ノゾ」


 声がした。


 俺は顔を上げた。


 鈴鹿は馬房の前に立っていた。


 ノートを胸に抱えている。


「知らないままじゃ、守れないね」


 小さな声だった。


 俺は鼻を伸ばした。


 柵の隙間から、鈴鹿の袖に触れる。


 いつもの布の匂い。


 インクの匂い。


 冬の外気の匂い。


 鈴鹿は袖を引かなかった。


「痛いの隠さないでって言ったのに、私も知らないこと隠してたら駄目だよね」


 俺は答えられない。


 だから、鼻先を少しだけ押しつけた。


 ◇ 客観視点


 夜になってから、電話が鳴った。


 春江が受話器を取る。


「はい、風見牧場です」


 相手の名前を聞いて、春江の表情が少し変わった。


 宗一郎が顔を上げる。


 鈴鹿もノートから目を離した。


「岸部さん」


 春江は、伏せた投資資料ではなく、別のメモ用紙を引き寄せた。


 受話器の向こうで、岸部透が何かを言った。


 春江は聞き返す。


「ノゾミノカゼではなく……うちの、別の当歳馬ですか」


 鈴鹿のペンが止まった。


 宗一郎の杖が、床に触れる。


 机の上では、湯呑みの下に敷かれた資料が、まだ伏せられたままだった。

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