第63話 有馬という声
◇ 客観視点
菊花賞の翌朝、京都の滞在馬房はまだ薄暗かった。
夜明け前の空気は冷えている。
バケツの水面に、小さな揺れが残っていた。
三浦さんは、ノゾミノカゼの右前に手を当てていた。
腱の上を、指先でゆっくりなぞる。
熱はある。
ただし、跳ねるような熱ではない。
三千メートルを走った脚に残る、深い疲れの熱だった。
「腫れは?」
朝倉が聞く。
「大きくはない」
三浦さんは答えた。
「でも、昨日より少し張ってる」
朝倉は黙って記録用紙を見た。
記録用紙の上では、菊花賞馬もただの馬体だった。
熱。
張り。
歩様。
それだけが、赤い線で残っている。
「歩かせる」
朝倉が言った。
「ゆっくりだ」
厩務員が無口に頷く。
ノゾミノカゼが馬房から出る。
一歩目。
右前が床を踏む。
二歩目。
少し慎重。
三歩目。
崩れない。
だが、昨日の表彰前よりも、置き方が深い。
朝倉はそこで初めて、短く息を吐いた。
「有馬の話は、まだ出すな」
三浦さんが顔を上げる。
「もう出てる」
「新聞か」
「新聞も、テレビも、ネットも。ダービー馬が菊を勝った。次は有馬だってな」
朝倉は返事をしなかった。
ただ、ノゾミノカゼの右前を見ていた。
「世間は脚を見ない」
その声は低かった。
「俺たちは見る」
◇ 望視点
朝の床は冷たい。
右前を置くと、腱の奥で鈍い重さが揺れた。
痛い、ではない。
でも、軽くもない。
京都の三千。
二度の淀の坂。
ナガレボシステイヤーを追い詰めた直線。
勝った。
俺は勝った。
けれど、脚は勝利を知らない。
脚は、使った分だけ重くなる。
俺は鼻から息を抜いた。
馬房の外で、朝倉さんと三浦さんが話している。
有馬。
その言葉が聞こえた。
有馬記念。
人間だった頃の俺なら、その名前だけで胸が熱くなった。
ダービーと菊を勝った馬が、有馬へ。
牧場の名前は、もっと広がる。
金も動く。
種牡馬の話も、もっと大きくなる。
風見牧場は救われるかもしれない。
鈴鹿の入学金。
春江が裏返して伏せた請求書。
父さんの杖の音。
人間だった頃の俺なら、その全部を、有馬の向こうに並べたはずだ。
でも、今は右前が先に来る。
地面を踏む。
重い。
もう一歩。
崩れない。
でも、昨日より深い。
ここで無理をすれば、帰れなくなる。
俺はそれを知っている。
クラウンメアの声が、耳の奥に残る。
戻れ。
勝て、ではなく。
戻れ。
俺は首を下げた。
◇ 鈴鹿視点
宿の部屋で、鈴鹿は新聞を開いていた。
一面に、ノゾミノカゼの写真が載っている。
菊花賞制覇。
二冠達成。
年末の有馬記念へ期待。
太い見出しが、紙の上で騒いでいた。
でも、鈴鹿は見出しを読まなかった。
ゴール板を過ぎたあとの写真。
首を伸ばすノゾ。
低く沈む美浦騎手。
その下に写った、右前。
鈴鹿は写真の端を指で押さえた。
「母さん」
「うん」
「この写真、右前……少し沈んで見える」
春江が新聞を覗き込む。
机の上には、味噌汁と焼き魚が置かれていた。
湯気はもう細い。
「写真だけじゃ、分からないわ」
「分かってる」
鈴鹿は小さく頷いた。
「でも、有馬って、出なきゃだめなの?」
春江はすぐに答えなかった。
味噌汁の湯気が、窓の方へ流れていく。
「だめ、ではないと思う」
「みんな、出るって思ってる」
「みんなは、ノゾの右前を触ってないもの」
鈴鹿の指が、新聞の端を握った。
紙が少し曲がる。
宗一郎は窓際に座っていた。
杖を膝の横に置き、朝刊の別の面を見ている。
そこにも、ノゾミノカゼの名前があった。
「父さんは?」
宗一郎は、新聞を畳んだ。
「出てほしい」
鈴鹿の胸が、一瞬だけ固くなる。
宗一郎は続けた。
「牧場主としてはな」
新聞を畳む手に、古い皺が寄る。
「だが、父親としては、帰ってこられんレースなら要らん」
鈴鹿は新聞から手を離した。
紙の角に、爪の跡が残っていた。
◇ 客観視点
昼前、朝倉の携帯は鳴り続けていた。
馬主関係者。
記者。
番組スタッフ。
競馬専門誌。
どの声も、同じ言葉へ向かっていく。
有馬記念は。
次走は。
ファン投票は。
年末の夢は。
朝倉は、何度目かの電話を切ったあと、机の上に携帯を伏せた。
その横で、美浦騎手が椅子に座っていた。
顔色は戻っている。
けれど、右手は膝の上で開いたままだった。
「先生」
「何だ」
「俺は、乗りたいです」
朝倉は美浦を見た。
美浦は目を逸らさない。
「有馬に。あいつで」
「だろうな」
「でも」
美浦の右手が、軽く握られる。
「昨日の脚なら、今すぐ言えません」
朝倉は少しだけ目を細めた。
「言える騎手なら降ろしている」
美浦は何も返さなかった。
三浦さんが記録用紙を持って入ってきた。
「冷却後、熱は少し引いた。ただ、張りは残る」
「歩様は」
「大崩れなし。けど、戻した方がいい」
朝倉は頷いた。
「輸送は?」
「焦って動かすな。まず今日一日見たい」
携帯がまた震えた。
朝倉は画面を見なかった。
「有馬は、馬が決める」
美浦が顔を上げる。
「人間が夢を見る前に、脚が返事をする」
その時、馬房の方でノゾミノカゼが短く鼻を鳴らした。
◇ 望視点
有馬は、馬が決める。
朝倉さんの声が聞こえた。
正確な意味は分からない。
でも、だいたい分かる。
俺は右前を少しだけ動かした。
床を踏む。
重い。
でも、立てる。
歩ける。
今は、まだ。
有馬。
その名前だけで、胸の奥が熱くなる。
けれど右前は、まだ冷えた床の上で返事をしていない。
菊花賞を勝ったから、走りたい気持ちが消えたわけじゃない。
もっと強い馬と走りたい。
もっと大きな声を、鈴鹿に聞かせたい。
でも。
俺は馬房の扉の方へ顔を向ける。
鈴鹿の指が、ノートの端を押さえていた日を思い出す。
春江が水筒を持ち替えた手。
父さんが帽子を胸に当てた姿。
クラウンメアの白い毛。
戻れ。
俺は鼻を鳴らした。
まず、戻る。
脚を冷やす。
水を飲む。
眠る。
明日の朝、もう一度歩く。
有馬のことは、それからだ。
勝ちたい気持ちを、今ここで使うな。
胸の奥に残したまま、右前より先に出すな。
俺は右前を腹の下へ戻した。
冷えた床を、静かに踏む。
その一歩は、レースの一歩ではなかった。
帰るための一歩だった。




