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ノゾミノカゼ -死んだ兄は、馬として家族のもとへ帰ってきた-  作者: ビッグサム


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第62話 菊花賞馬の帰り道

 ◇ 客観視点


 表彰式が終わっても、京都競馬場のざわめきは消えなかった。


 菊花賞馬。


 二冠馬。


 風見牧場の奇跡。


 その言葉が、通路のあちこちで跳ねていた。


 係員が表彰後の導線を整理し、風見家を関係者側の待機場所へ案内する。


「風見様、こちらでお待ちください」


 宗一郎は頷いた。


 春江は水筒を持ち直す。


 鈴鹿はノートを胸に抱えたまま、ノゾミノカゼが戻る方向を見ていた。


 検量室へ続く通路の向こうでは、記者たちが美浦と朝倉を待っている。


「ダービーと菊を制した名馬になりましたね」


「神戸新聞杯から、どこを修正したんですか」


「右前の状態は?」


「有馬記念は視野に入りますか?」


 質問は、次から次へ出てくる。


 その中に、ひとつだけ、鈴鹿の指を止める言葉が混じった。


「お兄さんの命がつないだ馬、という見方もありますが」


 鈴鹿の顔が硬くなった。


 春江が、半歩だけ前に出る。


 朝倉も同じタイミングで、記者の前へ立った。


「まず検査だ」


 短い声だった。


 記者たちの声が一瞬だけ止まる。


 朝倉は続けた。


「菊花賞を勝った馬です。でも、三千メートルを走った馬です。今は脚を見ます」


 美浦は後検量を終えて戻ってきたばかりだった。


 まだ勝利の熱が顔に残っている。


 それでも、朝倉の声を聞いた瞬間、目線が掲示板からノゾミノカゼの右前へ落ちた。


「……はい」


 係員は祝福の言葉を長くしなかった。


 検量の確認をし、表彰後の通路を空け、報道の列を一歩下げる。


 安全確認の順番だけを、淡々と戻していく。


 朝倉はノゾミノカゼの前に立った。


「歩かせる」


 三浦が頷く。


 ノゾミノカゼが一歩を出す。


 一歩目。


 二歩目。


 三歩目。


 首は下がりすぎていない。


 呼吸は荒い。


 だが、乱れきってはいない。


 右前を置く時、沈み方が少し深い。


 京都の右回り。


 二度の淀の坂。


 下りで支え、コーナーで踏ん張り、最後の直線まで残した脚だ。


 痛みではない。


 疲労だ。


 それでも、朝倉は「大丈夫」とは言わなかった。


「冷やす。熱は夜も見る。明朝も歩かせる」


 三浦が記録用紙に書き込む。


 菊花賞後。

 右前、軽度熱感注意。

 歩様、大崩れなし。

 冷却開始。

 夜、再確認。


 美浦が低く聞いた。


「先生、どうですか」


「今すぐ騒ぐ脚じゃない」


 美浦の肩がわずかに落ちる。


 だが、朝倉はそこで止めなかった。


「ただし、喜んで忘れていい脚でもない」


 美浦の顔が締まった。


 ◇ 鈴鹿視点


 鈴鹿は、関係者用の柵の内側で立っていた。


 掲示板の一着は見た。


 菊花賞馬という言葉も聞いた。


 でも、まだその言葉を胸に入れる場所がない。


 今、見るべきものは別にある。


 ノゾミノカゼの右前。


 人混みの隙間から、白い鼻先が見えた。


 次に、美浦騎手の勝負服。


 その下で、ノゾの脚が動く。


 一歩。


 置いた。


 次の一歩。


 崩れない。


 鈴鹿は息を吸った。


 けれど、まだ吐けない。


 春江が横で、水筒を両手で持っている。


 水はもう空に近い。


 何度も持ち替えたせいで、カバーの布が少し歪んでいた。


 宗一郎は帽子を胸に当てていた。


 勝利を称えるためではない。


 胸の中の何かを、外へ出さないためみたいに。


「鈴鹿」


 春江が小さく呼ぶ。


「うん」


「見えてる?」


「見えてる」


「歩けてる?」


 鈴鹿は、返事を急がなかった。


 もう一歩。


 ノゾが右前を置く。


 地面を踏む。


 首が大きく沈まない。


「……歩けてる」


 言った瞬間、春江の肩が少しだけ落ちた。


 宗一郎は何も言わなかった。


 ただ、帽子の縁を握る指が少しゆるんだ。


 鈴鹿はノートを開いた。


 人の声がうるさい。


 それでも、書く。


 菊花賞。

 一着。

 右前、引き上げ時大崩れなし。

 呼吸、荒い。

 歩けている。

 夜、熱確認。


 最後の一行を書いた時、ペン先が少し紙に引っかかった。


 鈴鹿は消さなかった。


 表彰と撮影の記憶は、夢の中みたいに遠かった。


 花飾りを掛けたノゾミノカゼは、たしかに菊花賞馬だった。


 けれど、鈴鹿の目は、花より下を見ていた。


 右前。


 また一歩。


 崩れない。


 厩舎側の確認場所へ戻ると、歓声は少し遠くなった。


 代わりに、バケツの水音が聞こえた。


 冷却用の水。


 タオル。


 脚元を拭く布。


 記録用紙。


 華やかな写真より先に、それらがノゾの前に並んでいる。


 朝倉先生は、浮かれていない。


 三浦さんも、浮かれていない。


 美浦騎手も、笑っていない。


 みんな、ノゾの脚を見ている。


 鈴鹿は、そこでようやく少しだけ息を吐いた。


 スタッフに促され、馬の邪魔にならない位置まで近づく。


「ノゾ」


 声をかけると、ノゾミノカゼの耳がこちらを向いた。


 顔を寄せてくる。


 鈴鹿は手を伸ばしかけて、止めた。


 汗が乾ききっていない。


 脚元の処置も終わっていない。


 触りたい。


 抱きつきたい。


 でも、今はその時じゃない。


 鈴鹿は、指先を握った。


「勝ったね」


 ノゾミノカゼが鼻を鳴らした。


「でも、まだ終わってないね」


 その言葉に、春江が後ろで小さく息を吸った。


 宗一郎の杖の先が、床を一度だけ鳴る。


 鈴鹿はノートを閉じた。


 閉じた表紙の端に、爪の跡が残っている。


「帰ろうね」


 ノゾミノカゼは、もう一度、短く鼻を鳴らした。


 鈴鹿は、その音を聞いて右前を見た。


 ◇ 望視点


 花飾りの匂いは、まだ首元に残っていた。


 少し苦い。


 土と、秋の匂い。


 表彰の間、首に掛かっていた重さが、まだ皮膚に残っている。


 東京のダービーの時とは違う重さだった。


 あの時は、届いた一完歩の重さだった。


 今日は、戻って勝った重さだ。


 人の声が多い。


 光も多い。


 俺の周りで、知らない匂いがいくつも跳ねている。


 紙。


 汗。


 機械。


 革靴。


 勝った馬へ向けられる、人間の熱。


 昔の俺なら、きっと分かっていた。


 これがどれほど大きなことか。


 菊花賞。


 二冠。


 風見牧場の名前。


 小さな牧場の馬が、京都の三千を勝った。


 でも、今の俺の意識は、そこに長く留まれない。


 右前。


 ある。


 地面を踏める。


 ただ、深い。


 右回りのコーナーと、二度の下りで何度も支えた右前の奥に、まだ坂の重さが残っている。


 痛みではない。


 でも、何もないわけではない。


 三浦さんの指が、右前に触れる。


 熱いか。


 腫れているか。


 痛むか。


 俺は動かないように立つ。


 ここで嫌がるな。


 見せろ。


 守ってもらうために、見せろ。


 美浦の足音が近い。


 朝倉さんの声が低い。


 鈴鹿の息が、ほんの少しだけ緩む。


 それでいい。


 花は、勝ったことを教えてくれる。


 でも、帰れるかどうかは、右前を置いてみないと分からない。


 俺は右前を少しだけ動かした。


 地面を踏む。


 重い。


 だが、立てる。


 歩ける。


 俺も鼻から長く息を吐いた。


 勝ったぞ。


 でも、まだ帰る途中だ。


 この確認場所から馬運車まで。


 風見牧場まで。


 クラウンメアの声の届く場所まで。


 俺は首元に花の匂いを残したまま、ゆっくり一歩を出した。


 右前は、地面を確かに踏んだ。


 その一歩を、鈴鹿が見ていた。


 ◇ 客観視点


 競馬場の歓声は、まだ外に残っていた。


 だが、確認場所の中では、記録用紙をめくる音の方が大きかった。


 朝倉は右前の記録を見た。


 大きな故障ではない。


 歩様も崩れていない。


 それでも、無視していいものではなかった。


「有馬の話は、まだ出すな」


 三浦が顔を上げる。


「もう出てる」


「新聞か」


「新聞も、テレビも、ネットも。ダービー馬が菊を勝った。次は有馬だってな」


 朝倉は返事をしなかった。


 ただ、ノゾミノカゼの右前を見ていた。


「世間は脚を見ない」


 その声は低かった。


「俺たちは見る」


 記者たちは、まだ通路の向こうで待っていた。


 有馬記念。


 二冠馬。


 風見牧場の奇跡。


 その言葉が、競馬場の外へ広がっていく。


 けれど、ノゾミノカゼの右前には、京都の三千メートルがまだ残っていた。

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