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ノゾミノカゼ -死んだ兄は、馬として家族のもとへ帰ってきた-  作者: ビッグサム


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第61話 菊花賞・後編/戻って勝つ

 ◇ 望視点


 二度目の淀の坂に入った。


 芝の下から、重さがせり上がってくる。


 前脚を置くたび、胸の奥が押される。


 肺の中に残した息が、少しずつ削られていく。


 ナガレボシステイヤーは、半馬身前にいる。


 止まらない。


 坂に入っても、脚音が鈍らない。


 俺の肩は、まだ前へ出たがっている。


 追えば届く。


 今なら届く。


 そう体が言う。


 だが、美浦の手は動かない。


 俺も動かない。


 右前を腹の下へ戻す。


 坂で全部を使うな。


 平坦な直線まで持っていけ。


 鼻から息を抜く。


 喉の奥が熱い。


 それでも、肺の底にはまだ少し余白がある。


 坂の頂に近づく。


 外のナガレボシステイヤーの蹄音が、ほんのわずかに荒くなった。


 嫌な馬だ。


 強い。


 それでも、初めてだ。


 あの止まらない馬の呼吸に、かすかな割れ目が入った。


 美浦の膝が、俺の腹へ静かに触れた。


 まだ強くはない。


 ただ、合図が変わった。


 下りに入る。


 重さが抜ける。


 ここで流されるな。


 下りの勢いに任せて行けば、最後の直線で止まる。


 俺は首を低く保った。


 右前を雑に置かない。


 左後ろで押しすぎない。


 美浦の手が、手綱を逃がしすぎず、閉じすぎず、俺の重心を真ん中に置いてくれる。


 坂を越えた。


 視界が開く。


 平坦な直線。


 ナガレボシステイヤーが前にいる。


 半馬身。


 いや、首ひとつ。


 届く。


 今度こそ届く。


 美浦の右手が動いた。


 神戸新聞杯で抜かなかった鞭。


 残した一回。


 その音が、空気を切った。


 脚の裏から、熱が走った。


 俺は地面を蹴った。


 肺の底に残した息を使い、一完歩、二完歩と馬体を弾ませるたび、ナガレボシステイヤーの尾が近づく。


 三完歩目。


 相手の肩が、俺の横に並んだ。


 ナガレボシステイヤーの息が聞こえる。


 荒い。


 それでも止まらない。


 こいつは、まだ走っている。


 なら、俺も止まれない。


 右前が芝を踏む。


 痛みはない。


 左後ろが押す。


 まだ行ける。


 美浦の体が、俺の首筋に低く沈む。


 手綱は邪魔しない。


 鞭はもういらない。


 今は、俺の脚で行く。


 鈴鹿の文字が、胸の奥で小さく光った。


 途中でちゃんと息して。


 してきた。


 だから、今、使える。


 クラウンメアの声が、耳の奥に残る。


 戻れ。


 戻る。


 勝って、戻る。


 ナガレボシステイヤーの鼻先が、少し後ろへ沈んだ。


 俺は首を伸ばす。


 もう一完歩。


 神戸で届かなかった距離。


 今度は、残した息で詰める。


 白いゴール板が迫る。


 美浦の息が、背中の上で止まった。


 俺は最後の一歩を、前へ突き出した。


 板が過ぎる。


 一瞬、風の音まで消えた。


 次の瞬間、歓声が遅れて割れた。


 勝ったのか。


 まだ分からない。


 でも、右前はある。


 左後ろも押せる。


 息は荒いが、戻ってくる。


 美浦が手綱をゆっくり引いた。


 俺は減速する。


 止まれる。


 歩ける。


 帰れる。


 その事実が、勝ったかどうかより先に、体の中へ落ちた。


 ◇ 鈴鹿視点


 鈴鹿は、声を出せなかった。


 宗一郎の馬主記章を確認した係員に案内され、風見家は関係者用の区画にいた。


 一般席の歓声は、背中の向こうでうねっている。


 それでも鈴鹿の目は、ゴール板の向こうから戻ってくるノゾミノカゼだけを追っていた。


 直線でノゾミノカゼが並んだ瞬間、叫ぼうとした。


 でも、喉が動かない。


 水筒を握る手に、母の冷たさが残っている。


 隣で春江が、両手を胸の前で固めていた。


 宗一郎は帽子を握ったまま、まばたきもしない。


 ナガレボシステイヤーは止まらない。


 ノゾミノカゼも止まらない。


 二頭の鼻先が、白い線へ向かって伸びる。


「帰ってきて」


 叫んだつもりだった。


 声になったかどうか、自分でも分からない。


 最後の一完歩。


 鈴鹿は、自分の膝の上でノートがずれていくのにも気づかなかった。


 掲示板が変わる。


 一着。


 ノゾミノカゼ。


 その文字を見た瞬間、春江の息が崩れた。


「あ……」


 短い声だけだった。


 宗一郎の帽子の縁が、ぐしゃりと曲がる。


 鈴鹿は泣かなかった。


 まだ泣けなかった。


 勝った。


 菊花賞を勝った。


 でも、今見るのはそこじゃない。


 美浦騎手が、手綱を抑える。


 ノゾが減速する。


 右前を置く。


 次の一歩。


 崩れない。


 もう一歩。


 歩けている。


 鈴鹿はそこで、ようやく息を吸った。


 肩から力が抜けた瞬間、膝の上のノートの文字がふいにぼやけた。


「帰ってくる」


 誰に言ったのか分からない。


 でも、春江が小さく頷いた。


 宗一郎は、帽子を胸に当てた。


「……勝ったな」


 その声は、かすれていた。


 鈴鹿はノートを拾い上げた。


 手が震えて、字がまっすぐ書けない。


 それでも書いた。


 菊花賞。

 一着。

 直線、鞭一回。

 右前、減速後も崩れなし。

 息、戻る。

 帰ってくる。


 最後の一行だけ、強く線を引いた。


 その時、朝倉厩舎のスタッフが関係者通路から近づいてきた。


「風見さん、こちらです。ただ、今は右前の確認が先です。先生の確認が終わってからお願いします」


 鈴鹿は立ち上がりかけていた足を止めた。


 行きたい。


 首に触れたい。


 おかえり、と言いたい。


 でも、今ここで邪魔をするわけにはいかない。


 通路の先で、美浦騎手が後検量へ向かうのが見えた。


 ノゾミノカゼは厩舎スタッフに引かれ、呼吸を整えながら戻っていく。


 係員も、少し遅れて声をかけた。


「風見様、口取りと表彰式のご案内です」


 春江が水筒を持ち直す。


 宗一郎は、掲示板ではなく、まだノゾミノカゼの右前を見ていた。


「脚が先です」


 低い声だった。


 係員は一度頷いた。


「確認後に、あらためてご案内します」


 鈴鹿は袖を握った。


 レイも、表彰台も、あとでいい。


 今は、ノゾがちゃんと戻ってくるのを待つ。


 ◇ 望視点


 引き上げる道で、美浦の手が俺の首に触れた。


 叩くでも、撫でるでもない。


 ただ、そこに置かれている。


 その手が少し震えていた。


「……場所、間違えなかったな」


 小さな声だった。


 俺は耳を後ろへ向けた。


 間違えなかった。


 神戸で残した一回。


 鈴鹿の言葉。


 母さんの声。


 どれも、直線まで残っていた。


 歓声は大きい。


 だが、俺が聞いていたのは、自分の脚音だった。


 右前。


 ある。


 神戸で使い切らなかった分が、今もここに残っている。


 左後ろ。


 押せる。


 呼吸。


 戻る。


 勝った。


 菊花賞を勝った。


 でも、それより先に、俺はまだ歩いている。


 人の声が近づいて、また離れていく。


 何の順番かまでは分からない。


 ただ、脚を見られていることだけは分かった。


 右前。


 腱の上。


 冷たい水の気配。


 俺は鼻から、長く息を吐いた。


 勝って、戻る。


 今度は、その順番を間違えなかった。


 ◇ 客観視点


 歓声は、まだ競馬場の屋根を揺らしていた。


 係員は表彰式の段取りを確認している。


 記者たちは、美浦騎手と朝倉調教師が戻る通路へ集まり始めていた。


 その中で、朝倉だけはノゾミノカゼの右前を見続けていた。


 一歩。


 もう一歩。


 勝った馬の首ではなく、地面に置かれる脚を見ていた。


 三浦が隣で息を潜める。


「先生」


「明日の朝まで見る」


 朝倉は短く言った。


「勝ったことは、そのあとだ」

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