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ノゾミノカゼ -死んだ兄は、馬として家族のもとへ帰ってきた-  作者: ビッグサム


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第60話 菊花賞・前編/まだ待つ

 ◇ 客観視点


 京都競馬場の空は、高かった。


 芝三千メートル。


 菊花賞。


 その出走馬の中に、ダービー馬ノゾミノカゼの名前があった。


 パドックの外では、新聞を握る手がいくつも揺れている。


 二冠か。


 距離は持つのか。


 神戸新聞杯の二着は、本番へ残した負けだったのか。


 誰もが答えを欲しがっていた。


 だが、装鞍所からパドックへ姿を見せたノゾミノカゼは、拍子抜けするほど静かだった。


 首を上げすぎない。


 踏み込みすぎない。


 右前を置くたび、ほんのわずかに地面を確かめる。


 三浦さんは、その一歩を見る。


「大丈夫そうか」


 美浦騎手が低く聞いた。


「今のところはな」


 三浦さんは短く返す。


「ただ、三千だ。大丈夫そう、で安心する距離じゃない」


 朝倉は黙っていた。


 ただ、コースの方を見ている。


 その目は、勝利より少し先を見ていた。


 無事に戻る場所まで。


 ◇ 鈴鹿視点


 スタンドの席で、鈴鹿はノートを開いていた。


 春江は隣で、水筒を膝の上に置いている。


 宗一郎は帽子を被らず、両手で握っていた。


 京都の歓声は、東京のダービーとは違う。


 広がるというより、長く伸びる。


 三千メートルの先まで、声が糸のように張られている気がした。


 鈴鹿は出走表を見た。


 ノゾミノカゼ。


 ナガレボシステイヤー。


 二つの名前の横に、小さく丸をつけてある。


 神戸新聞杯の時と同じだ。


 でも、今日は違う。


 今日のノゾは、負けを残してここに来た。


 鞭を一回残して。


 右前を壊さずに。


 菊の直線まで息を持っていくために。


「鈴鹿」


 春江が小さく呼んだ。


「うん」


「水筒、持ってて」


 鈴鹿は受け取った。


 手にした瞬間、母の指が少し冷たいことに気づく。


 春江は笑わなかった。


 ただ、コースを見ていた。


 鈴鹿はノートの端に書く。


 途中で息して。


 その下に、もう一行だけ足した。


 最後まで、歩けますように。


 ◇ 望視点


 ゲートの中で、俺は息を細く抜いた。


 京都の匂いは、まだ慣れない。


 芝の乾き方も、風の抜け方も、東京とは違う。


 右前は軽い。


 痛みはない。


 美浦の手も、硬くない。


 だが、背中の奥に熱がある。


 勝ちたい。


 菊花賞を勝ちたい。


 神戸で届かなかった半馬身を、今日ここで取り返したい。


 前扉が開いた。


 一完歩目。


 芝を踏む。


 二完歩目。


 体が浮きすぎない。


 三完歩目。


 前へ行きすぎるな。


 俺は首を少し下げた。


 美浦の手綱が、ほんのわずかに緩む。


 行け、ではない。


 落ち着け、でもない。


 一緒に行こう。


 そのくらいの手だった。


 外から一頭が前へ出る。


 逃げ馬だ。


 脚音が軽い。


 ただ、あれは最後まで持たない。


 俺の前、少し離れたところにナガレボシステイヤーがいる。


 やはり急がない。


 首を高くしない。


 背中の上下も小さい。


 止まらない馬の走りだ。


 追うな。


 俺は右前を腹の下へ戻すように踏んだ。


 まだ、ここじゃない。


 ◇ 客観視点


 一周目のスタンド前。


 歓声が大きくなった。


 鈴鹿の膝の上で、水筒の底が小さく鳴った。


 ノゾミノカゼは、その声の中を通る。


 馬体は前へ行きたがっている。


 だが、美浦の手は動かない。


 スタンドの関係者席で、朝倉は双眼鏡を下ろさなかった。


 大きすぎない。


 詰まりすぎてもいない。


 呼吸も乱れていない。


「今のところは、いい」


 三浦さんが隣で言った。


 朝倉は頷かなかった。


 まだ早い。


 三千メートルの競馬は、良い瞬間を褒めたところで何も終わらない。


 向こう正面に入る。


 逃げ馬が少しだけペースを落とした。


 馬群が、ほんのわずかに詰まる。


 そこで動きたくなる馬が何頭もいた。


 だが、ノゾミノカゼは動かない。


 美浦が、手綱を少しだけ緩めた。


 拳を譲る。


 そのわずかな隙間で、ノゾミノカゼの首が下がった。


 行け、ではない。


 力を抜け。


 その合図を、ノゾミノカゼは間違えなかった。


 息が入る。


 朝倉はそこで、初めて小さく頷いた。


 ◇ 望視点


 息が入った。


 肺の奥に、少しだけ空きができる。


 前の馬の尻尾が近い。


 横の馬の肩が当たりそうになる。


 行ける。


 ここで少し出せば、楽になる。


 前を取れば、包まれない。


 そう体が言う。


 でも、鈴鹿の文字が落ちてきた。


 途中でちゃんと息して。


 俺は鼻から、深く息を抜いた。


 前へ出したい肩を、腹の下へ戻す。


 右前が芝を踏む。


 まだ軽い。


 まだ残っている。


 ナガレボシステイヤーは、少し前で同じリズムを刻んでいた。


 嫌な馬だ。


 焦らない。


 逃げない。


 止まらない。


 神戸新聞杯の半馬身が、また胸の奥を叩く。


 俺はハミを受けた。


 噛みつくようには受けない。


 美浦が譲ってくれた手綱の軽さを、そのまま顎に乗せる。


 引っ張らない。


 持っていかない。


 ただ、美浦の手を待つ。


 まだだ。


 まだ、待てる。


 ◇ 鈴鹿視点


 鈴鹿は、ノートに線を引いた。


 中盤。

 かからない。

 首、下がる。

 息、入ったように見える。


「今、少し楽にした?」


 春江が聞く。


「たぶん」


「たぶん?」


「分かんない。でも、皐月賞の時みたいに前へ行ってない」


 宗一郎が、帽子の縁を親指で押した。


「美浦も、待っているな」


 鈴鹿は頷かなかった。


 頷いたら、何かが崩れそうだった。


 ただ、コースを見る。


 ノゾミノカゼはまだ勝っていない。


 まだ前を捕まえていない。


 でも、今はそれでいい。


 今は、勝つ場所ではない。


 鈴鹿はノートの端に、小さく書いた。


 まだ。


 その字は、少し震えていた。


 ◇ 望視点


 二度目の淀の坂が近づいてくる。


 体が先に分かる。


 芝の下から、じわりと重さが上がってくる。


 逃げ馬の脚音が鈍った。


 前の馬の呼吸が、少しだけ割れる。


 右から、一頭が動く。


 外を回って、じわりと上がっていく。


 ナガレボシステイヤーだ。


 派手な加速ではない。


 でも、止まらない脚が始まった。


 外から、大きな馬体の圧が迫る。


 芝を擦る蹄の音。


 神戸新聞杯で届かなかったあの尾が、俺の視界を斜めに切っていく。


 美浦の指が、ほんの少し動く。


 俺の肩も前へ出かけた。


 行きたい。


 ここで行かなければ、また届かないかもしれない。


 神戸の白いゴール板が、目の奥をかすめる。


 半馬身。


 届かなかった尾。


 俺は首を伸ばしかけた。


 その瞬間、鼻の奥に、冷たい水の匂いが戻った。


 風見牧場の水桶。


 クラウンメアの白い毛。


 戻れ。


 俺は首を下げた。


 美浦の手が止まる。


 右前を腹の下へ戻す。


 まだ早い。


 ここで脚を使い切るな。


 二度目の淀の坂で、全部を置いていくな。


 ナガレボシステイヤーの背中が、半馬身だけ前へ出る。


 見える。


 届く。


 届きそうだ。


 でも、まだ追わない。


 坂の重さが、胸を押しにくる。


 その重さを、母さんの「戻れ」という手のひらみたいに受け止める。


 俺は息を残したまま、二度目の淀の坂へ入った。

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