第59話 途中で息をして
◇ 客観視点
菊花賞の前日。
京都競馬場の滞在馬房地区にある控室で、朝倉はコース図を広げていた。
京都芝三千メートル。
紙の上を、朝倉の指がなぞる。
スタート。
一度目の淀の坂。
向こう正面。
二度目の淀の坂。
平坦な直線。
線で見れば、ただ長い。
だが、横に置かれた神戸新聞杯の記録が、その長さを別のものに見せていた。
二着。
最後の一追いなし。
鞭、抜かず。
右前、歩様大崩れなし。
美浦騎手は、その紙を見てからコース図へ目を戻した。
「ナガレボシステイヤーは、早めに動くと思います」
「動くな」
朝倉が短く言った。
「向こうが動いても、ですか」
「向こうが動くから、だ」
朝倉は向こう正面を指で叩いた。
「神戸で見ただろう。あの馬は長く脚を使える。そこで付き合えば、二度目の淀の坂で脚を使わされる。平坦な直線まで息が残らん」
三浦さんが右前チェック表を置いた。
朝一歩目。
熱感なし。
腫れなし。
歩様、問題なし。
ただし、無理はさせない。
赤い線が、最後の一行に引かれている。
「勝ちに行く」
朝倉は言った。
「だが、勝ちに行く場所を間違えるな。三千は、先に欲しがった馬から沈む」
美浦は返事をしない。
神戸新聞杯の紙の端を、親指で押さえた。
「勝ちに行くな」
朝倉は続ける。
「結果として勝て」
美浦の親指が、紙の角を少し潰した。
◇ 鈴鹿視点
京都市内の宿で、鈴鹿はスマホの記事を閉じた。
ダービー馬、二冠へ。
距離は持つのか。
神戸新聞杯二着の意味。
折り合いに不安。
どの見出しも、ノゾミノカゼの名前を使っている。
でも、右前の一歩は見ていない。
最後に鞭を抜かなかった美浦騎手の手も見ていない。
「読むんじゃなかった」
鈴鹿はスマホを伏せた。
テーブルには、菊花賞の出走表が置かれている。
宗一郎は畳に杖を横たえ、出走表を黙って見ていた。
ナガレボシステイヤーの名前の横に、小さな丸がある。
「父さん、それ」
「止まらん馬なんだろう」
宗一郎の声は低い。
「朝倉先生がそう言っていた」
春江が湯呑みを置いた。
湯気が、薄く上がる。
「見ないのも仕事よ」
「母さん、見たの?」
「少しだけ」
「不安にならなかった?」
「なったわよ」
春江は湯呑みを鈴鹿の前へ押した。
「だから、閉じたの」
鈴鹿はノートを開いた。
京都三千。
ナガレボシステイヤー。
早めに動く。
追いかけない。
途中で息を入れる。
ペン先が止まる。
息を入れる。
それはレースの話だ。
でも、鈴鹿には兄のことに聞こえた。
請求書を見て休まなかった兄。
父の杖の音を聞くと、先に動いていた兄。
鈴鹿の進路希望用紙を見ると、自分のことを後回しにした兄。
ノゾに直接会いには行けない。
前日の滞在馬房で、馬を騒がせるわけにはいかない。
だから、鈴鹿はスマホを取り直した。
長いからね。
途中でちゃんと息して。
前へ行きたくなっても、少しだけ待って。
勝って。
でも、帰ってきて。
送信の前に、指が止まる。
勝って。
その言葉を消そうとして、消さなかった。
嘘ではない。
勝ってほしい。
でも、それより先に戻ってほしい。
鈴鹿は送信した。
スマホを伏せると、春江の湯呑みの湯気が、さっきより薄くなっていた。
◇ 望視点
京都の滞在馬房は、風見牧場と匂いが違った。
木の匂いも違う。
藁の乾き方も違う。
隣の馬房から聞こえる咀嚼音も、クラウンメアのものではない。
それでも、耳の奥には残っている。
戻れ。
風見牧場で聞いた、母さんの短い声。
俺は水桶に鼻を近づけた。
右前は悪くない。
朝の歩き出しも崩れていない。
だが、体の奥に、明日の距離が置かれている。
三千メートル。
神戸新聞杯より長い。
ダービーより長い。
ナガレボシステイヤーは、たぶん早く動く。
あの馬は派手に切れない。
でも止まらない。
前に出られたら、追いたくなる。
神戸で届かなかった半馬身が、胸の内側を叩くだろう。
その時に、脚を腹の下へ戻せるか。
息を残せるか。
厩務員がスマホを持ってきた。
「鈴鹿ちゃんからだぞ。前日だから、見せるだけだ」
画面が俺の前に向けられる。
長いからね。
途中でちゃんと息して。
前へ行きたくなっても、少しだけ待って。
勝って。
でも、帰ってきて。
俺は耳を止めた。
勝って。
その言葉が、ちゃんとある。
でも、最後は帰ってきて。
鈴鹿らしい。
望だった頃の俺なら、たぶん「勝って」だけで十分だと思っていた。
勝たなければ、牧場を守れない。
結果を出さなければ、鈴鹿を進学させられない。
そう信じていた。
今は違う。
勝つだけでは、鈴鹿は息を吐けない。
壊れずに帰って初めて、あの子は本当の息をする。
俺は右前を一度だけ浮かせた。
静かに下ろす。
床を踏む。
痛みはない。
軽い。
明日は、この脚で行く。
ただし、最後まで残す。
俺は水を飲んだ。
一口目は冷たい。
二口目で、喉の奥が少し緩む。
途中で息して。
鈴鹿の言葉が、胸の奥に落ちた。
◇ 客観視点
夜の京都の滞在馬房は、昼間よりずっと静かだった。
朝倉は馬房の前で、美浦に最後の確認をしている。
「向こう正面でナガレボシステイヤーが動いても、行くな」
「はい」
「美浦」
「はい」
「返事だけなら誰でもできる」
美浦は唇を結んだ。
馬房の中で、ノゾミノカゼの耳が少し動く。
「神戸で、お前は一回残した」
朝倉は言った。
「明日は、残すだけじゃ足りない。残したものを、使う場所まで持っていけ」
美浦はゆっくり息を吸った。
右手を一度開く。
掌に、神戸新聞杯の直線で残した手綱の感触が戻る。
抜かなかった鞭。
戻した親指。
届かなかった半馬身。
それから、美浦は軽く右手を握り直した。
「……場所を間違えるな」
朝倉の言葉を、美浦は自分の声で落とした。
三浦さんが馬房の中の右前を見ていた。
「熱はない」
朝倉が頷く。
「明日の朝も見る」
「分かってます」
美浦は馬房の中を見た。
ノゾミノカゼは、静かな目でこちらを見ていた。
「俺が待つ」
美浦が言った。
「お前も待て」
ノゾミノカゼが、短く鼻を鳴らした。
◇ 望視点
知らない馬の息。
知らない壁の匂い。
知らない場所の夜。
ここにクラウンメアはいない。
風見牧場の古い木もない。
でも、母さんの声は耳の奥に残っている。
戻れ。
俺は右前を腹の下へ戻した。
明日の直線で、前へ出たい脚を止めるために。
明日の坂で、肺を空にしないために。
明日のゴールの先で、鈴鹿の前に戻るために。
鈴鹿の言葉。
――途中でちゃんと息して。
美浦の手。
――俺が待つ。
朝倉の声。
――結果として勝て。
母さんの声。
――戻れ。
それらは、もう別々ではなかった。
右前を置く。
鼻から、深く息を抜く。
肺の奥に、明日のための余白を作る。
ナガレボシステイヤーが動いても、すぐには行かない。
二度目の淀の坂で、脚を使い切らない。
三千の最後まで、この息を残す。
俺は明日、走る。
勝つために。
そして、帰るために。




