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ノゾミノカゼ -死んだ兄は、馬として家族のもとへ帰ってきた-  作者: ビッグサム


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第58話 クラウンメアの声

 ◇ 望視点


 馬運車の床は、行きよりも静かに揺れていた。


 神戸新聞杯へ向かった時は、胸の奥で脚が鳴っていた。


 今は違う。


 負けたまま、風見牧場へ戻っている。


 勝って帰る馬運車ではない。

 整えるために戻る馬運車だ。


 右前は、床のゴムを踏んでいる。


 痛みはない。

 ただ、少し重い。


 冷やされた腱。

 疲れの残った筋肉。

 まだ熱を覚えている皮膚。


 それらを抱えたまま、俺は揺れに合わせて立っていた。


 馬運車が止まる。


 外で、三浦さんの声がした。


「ゆっくり降ろせ。勝った帰りじゃない。休ませに戻したんだ」


 金具が外れる音。


 扉が開く。


 風見牧場の匂いが入ってきた。


 湿った土。

 古い木。

 水桶。

 少し乾いた草。


 そして、奥からクラウンメアの匂い。


 俺は耳を前に向けた。


 帰ってきた。


 負けたままでも。


 ここへは、帰ってこられる。


 ◇ 客観視点


 ノゾミノカゼが馬運車から降りる時、鈴鹿は走らなかった。


 柵のそばに立ったまま、右前だけを見ていた。


 一歩目。


 地面を踏む。


 二歩目。


 少し慎重だが、崩れない。


 三歩目。


 首は下がりすぎていない。


 鈴鹿の指が、観察ノートの端を強く押さえた。


「大丈夫そうか」


 宗一郎が低く聞く。


「まだ分からない」


 鈴鹿は首を振った。


「でも、歩けてる」


 春江は、水桶を両手で持っていた。


 喉が渇いているだろうと用意したものだ。


 それでも、すぐには差し出さない。


 まず歩く。


 まず脚を見る。


 この家は、その順番を覚え始めていた。


 春江が、水桶を少しだけ持ち上げる。


「勝った話は、あとでいいわ。まず、水、飲める?」


 鈴鹿はその言葉に、少しだけ唇を噛んだ。


 三浦さんが右前に目を落とす。


「腫れはない。熱はあとで触る」


「今じゃなくて?」


 鈴鹿が、ノートを胸に寄せたまま食い下がった。


 三浦さんは右前から目を離さない。


「降りた直後だけで決めない。馬房に入れて、落ち着かせてからだ」


 鈴鹿は唇を結び、ノートに書く。


 馬運車から降りる。

 右前、慎重。

 大崩れなし。

 あとで熱確認。

 水、飲めるか。


 厩舎の奥から、低い鼻息が聞こえた。


 クラウンメアだった。


 ◇ 望視点


 母さんは、馬房の奥にいた。


 前より、白い毛が増えていた。


 鼻先の周り。

 目の上。

 首筋の、たてがみの根元。


 昔から白いところはあった。


 でも、今日はそれが朝の霜みたいに見えた。


 クラウンメアは首を上げた。


「坊や」


 短い声。


 それだけで、胸の奥が少し緩む。


「母さん」


 俺は鼻を鳴らした。


 近づこうとして、右前を慎重に置く。


 母さんは、その一歩を見ていた。


 人間ほど細かくは見ない。


 でも、母馬は仔の足音を聞く。


「負けた」


 俺は言った。


 鳴き声にもならない短い音だった。


 クラウンメアは目を細める。


「戻った」


「負けた」


「戻った」


 同じ言葉を、母さんはもう一度返した。


 俺は耳を伏せかけた。


 勝ったと報告したかった。


 でも、俺は二着だった。


 届かなかった。


 ナガレボシステイヤーの尾が、まだ目の奥にある。


「長く走る」


 俺は言った。


「痛い?」


「少し」


 痛い、ではない。

 でも、何もない、でもない。


 クラウンメアは鼻を寄せてきた。


 右前ではなく、胸の前へ。


 レースの匂い。

 汗。

 冷却の水。

 運ばれてきた疲れ。


「戻れ」


 母さんは言った。


 俺は顔を上げる。


「勝つ」


「戻れ」


「菊」


「戻れ」


 それ以上、母さんは何も言わなかった。


 勝てとは言わない。

 強く行けとも言わない。


 ただ、戻れ。


 それだけ。


 俺は返事ができなかった。


 ◇ 鈴鹿視点


 鈴鹿が厩舎に入った時、ノゾミノカゼとクラウンメアは向かい合っていた。


 短い鼻息。


 耳の動き。


 首の角度。


 それだけなのに、少しだけ分かった。


 クラウンメアは、ノゾを責めていない。


 勝てなかったことを怒っていない。


 ただ、帰ってきた仔を確かめている。


 鈴鹿は馬房の前で足を止めた。


 クラウンメアの顔を見る。


 前より白い毛が増えている。


 目の上の毛が、少し薄く見えた。


 草を噛む音も、昔よりゆっくりだ。


 それでも、ノゾミノカゼの横に立つ時だけ、クラウンメアは首を少し高くしていた。


「母さんって、強いね」


 言ってから、鈴鹿は少しだけ目を伏せた。


 自分の母のことなのか。

 クラウンメアのことなのか。


 たぶん、両方だった。


 春江は後ろにいた。


 水桶を持ったまま、声を出さない。


 桶の取っ手を握る指が、少し白くなっていた。けれど、水面はほとんど揺れていない。


 鈴鹿はそれを一瞬だけ見てから、クラウンメアの首筋に手を伸ばした。


 白い毛の混じった首に、そっと触れる。


「ノゾ、負けたよ」


 クラウンメアは動かない。


「でも、帰ってきたよ」


 その言葉を口にした瞬間、鈴鹿の指が少し震えた。


 神戸新聞杯の掲示板。


 二着。

 最後の一追いなし。

 鞭、抜かず。

 右前、歩様大崩れなし。

 悔しい。

 でも、帰ってきた。


 ノートの赤い線が、頭の中に浮かんだ。


 鈴鹿はノゾミノカゼを見る。


「次、菊だね」


 ノゾミノカゼの耳が動く。


「勝ってほしいよ」


 それは嘘ではない。


 勝ってほしい。


 でも、鈴鹿はノゾミノカゼの右前に目を落とした。


「でも、帰ってきて」


 クラウンメアが、短く鼻を鳴らした。


 鈴鹿は、その音を聞いて、もう一度ノゾミノカゼの右前を見た。


 ◇ 望視点


 人間の母さんは、水桶を持っていた。


 馬の母さんは、俺の横にいた。


 鈴鹿は、右前を見ていた。


 父さんは、少し離れた場所で杖に手を置いている。


 誰も、俺に勝てと言わなかった。


 それが、少し苦しい。


 勝ちたい。


 菊花賞は勝ちたい。


 神戸で残した一歩を、今度こそ届かせたい。


 ナガレボシステイヤーの止まらない脚を、三千の最後で捕まえたい。


 でも、母さんの「戻れ」が耳の奥に残っていた。


 戻れ。


 勝つより先に。


 戻れ。


 壊れる前に。


 戻れ。


 鈴鹿の前へ。


 俺は水桶に鼻を近づけた。


 冷たい水の匂いがする。


 飲む前に、右前を少しだけ動かした。


 地面を踏む。


 痛みはない。


 重さはある。


 でも、歩ける。


 俺は水を飲んだ。


 一口。


 もう一口。


 急がない。


 喉を通る冷たさが、胸の奥まで落ちていく。


 クラウンメアが隣で草を噛む。


 昔より遅い音。


 でも、確かな音。


 俺はその音を聞きながら、菊花賞の直線を思った。


 前へ行きたくなるだろう。


 捕まえたくなるだろう。


 勝ちたくなるだろう。


 その時、思い出す。


 鈴鹿のノート。


 美浦の残した鞭。


 母さんの白い毛。


 そして、この声。


「戻れ」


 俺は右前を腹の下へ戻した。


 すぐに前へ出したい脚を、一度だけ止める。


 勝つために、待つ。


 待てるように、今はここで息を戻す。


 母さんの声を、右前を置くたびに思い出す。


 外で、風が放牧地の草を倒した。


 クラウンメアの咀嚼音が、ゆっくり続いている。


 俺は水桶から顔を上げ、鈴鹿の方へ一歩だけ進んだ。


 右前は、地面を確かに踏んだ。


 鈴鹿が、小さく息を吐いた。


 その音だけで、帰ってきた意味が分かった。

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