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ノゾミノカゼ -死んだ兄は、馬として家族のもとへ帰ってきた-  作者: ビッグサム


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第57話 負けて整える

 ◇ 客観視点


 厩舎の事務室に、神戸新聞杯の映像が流れていた。


 画面の中で、ノゾミノカゼは最後まで伸びている。


 だが、前には届かない。


 ナガレボシステイヤーの尾が、半馬身先で揺れたまま、白いゴール板を越えていく。


 美浦騎手は、腕を組んだまま画面を見ていた。


 顎が固い。


 机の上には、レース後の歩様チェック表が置かれている。


 右前。

 熱感、軽度。

 腫れなし。

 歩様、大崩れなし。

 冷却後、落ち着く。


 朝倉は映像を巻き戻した。


 画面の中で、直線がもう一度開く。


 ナガレボシステイヤーの尻尾が半馬身前にあり、その後ろでノゾミノカゼの首が伸びる。


 画面の中の美浦の右手が、わずかに動いた。


 鞭を握り直す。


 そこで映像が止まった。


「ここで負けてよかった」


 美浦の眉が動いた。


「よかった、ですか」


「そうだ」


 朝倉は画面を指さした。


「ここで追って勝っていたら、菊では持たない」


 事務室が静かになった。


 美浦は、画面の中の自分の手を見ている。


 鞭を抜きかけて、戻した親指。


「でも、勝てました」


「勝てたかもしれん」


 朝倉は否定しなかった。


「だが、三千では同じことを何度も求められる。行きたいところで行く。追いたいところで追う。それでは最後まで息が残らない」


 三浦さんが、別の紙を机に置いた。


 通過ラップ。

 折り合い。

 仕掛け位置。

 直線の反応。


 赤ペンで、二か所に丸がついていた。


 向こう正面。

 第4コーナー手前。


「ここで、少し息を入れたい」


 朝倉が言った。


「ノゾミノカゼは家族のために走る。だから前が見えると、自分で取りに行こうとする。そこを美点だけで済ませるな」


 美浦は拳を握った。


「……俺が焦らせたってことですか」


「お前も、あの馬も、両方だ」


 朝倉は映像をまた少し戻した。


 画面の中で、ノゾミノカゼの首がわずかに上がる。


「勝ちたい馬と、勝たせたい騎手だ。噛み合えば強い。だが、長い距離では、噛み合いすぎても前へ行く」


 美浦は返事をしなかった。


 ただ、画面の中の自分の右手を見続けていた。


 事務室の外で、飼葉桶が小さく鳴った。


 ◇ 望視点


 俺は馬房で飼葉桶に鼻を寄せていた。


 食べる。


 噛む。


 飲み込む。


 体は疲れている。


 右前は冷やされた。

 腫れてはいない。

 痛みもない。


 でも、体の奥に、昨日の直線が残っている。


 ナガレボシステイヤーの尾。


 届きそうで届かなかった半馬身。


 美浦の手が、鞭を抜かなかった感覚。


 あの一回。


 あれを使っていたら、勝てたかもしれない。


 そう思うたびに、奥歯で飼葉を強く噛んでしまう。


 桶の底が、また小さく鳴った。


 負けた。


 分かっている。


 でも、壊れていない。


 それも分かっている。


 分かっているのに、胸の奥で脚がまだ前へ出たがっていた。


 事務室の方から、人の声が漏れる。


 朝倉さんの声。


 美浦の声。


 映像を止める機械の音。


 全部は聞こえない。


 ただ、同じ言葉だけが何度か来た。


 息。


 待つ。


 三千。


 俺は耳を動かした。


 待つ。


 簡単に言うな。


 待っている間に、前の馬は遠くなる。


 その間に浮かんでしまうのは、鈴鹿がノートを握る手や、春江が水筒の蓋を握る手、そして宗一郎が胸の前で握っていた帽子だった。


 前へ行きたくなる。


 取り返したくなる。


 帰ってきた、と見せたくなる。


 そこへ、厩務員がスマホを持ってきた。


「鈴鹿ちゃんからだぞ。……読めるんだろ、相変わらず」


 半分笑って、半分本気の声だった。


 画面を、俺の前に近づける。


 文字が並んでいた。


 長く走るなら、途中で休んで。

 兄さんも、休むの下手だったから。


 俺は耳を止めた。


 兄さんも。


 休むのが下手。


 画面の端に、指で拭ったような細い跡が残っていた。


 鈴鹿が何度も打ち直したのか。


 画面を拭いたのか。


 そこまでは分からない。


 でも、その一文だけは、蹄の奥まで入ってきた。


 望だった頃から、そうだった。


 請求書を見て、休めなかった。

 父さんの杖を聞いて、休めなかった。

 鈴鹿の進路希望用紙を見て、休めなかった。


 俺はずっと、前へ行くことで守ろうとしていた。


 馬になっても、同じことをしている。


 飼葉桶に鼻を戻す。


 今度は、ゆっくり噛んだ。


 通路の方で、紙の角を折る音がした。


 ◇ 客観視点


 美浦は、馬房の前に立っていた。


 手には、さっきの映像を切り出した紙がある。


 直線で鞭を抜きかけた瞬間。


 親指が戻った瞬間。


 その二枚。


 ノゾミノカゼは、飼葉桶から顔を上げた。


 美浦は頭を下げなかった。


 ただ、折れた紙を握ったまま、馬房の前に立っていた。


「菊は、俺が待つ」


 声は低かった。


 ノゾミノカゼの耳が、少し前へ向く。


「お前も待て」


 短い言葉だった。


 美浦は紙を折った。


 角が少しだけ潰れる。


「昨日、俺は一回残した。次は、残す場所を間違えない」


 ノゾミノカゼが鼻を鳴らした。


 美浦はそれを返事のように聞いた。


 馬房の奥で、飼葉桶が小さく鳴る。


 ノゾミノカゼはまた食べ始めた。


 速くはない。


 急いでもいない。


 ただ、噛んで、飲み込んでいる。


 三浦さんが通路の端から見ていた。


「食ってるなら、悪くない」


 美浦が振り向く。


「それ、慰めですか」


「現場の事実だ」


 三浦さんは歩様チェック表を手に持っていた。


「負けても食える馬は、次へ行ける」


 美浦は、もう一度ノゾミノカゼを見た。


 飼葉を噛む音が、やけにゆっくり聞こえた。


 ◇ 望視点


 美浦の言葉は短かった。


 俺が待つ。

 お前も待て。


 人間の言葉としては乱暴だ。


 でも、手綱より分かりやすかった。


 すぐ前へ出る脚を、一度だけ腹の下へ戻す。


 喉を焼く息を、ひとつ奥へ落とす。


 三千の最後で伸びるなら、途中で空にするな。


 俺は飼葉を噛みながら、昨日の直線を思い出した。


 ナガレボシステイヤーの尾。


 止まらない脚。


 半馬身。


 あの馬は、菊でまた来る。


 今度は、もっと長い距離で。


 俺が前へ行きすぎれば、また届かない。


 美浦が焦れば、また届かない。


 だから、腹の下へ脚を戻す。


 俺は鼻を鳴らした。


 美浦が馬房の前で少しだけ笑う。


「分かった顔するなよ。俺もまだ分かってない」


 それは朝倉さんに言われた言葉に似ていた。


 美浦の口元は笑っていたが、目は笑っていない。


 悔しさが、まだ残っている。


 俺も同じだ。


 でも、昨日の悔しさを、今日の飼葉桶へぶつけない。


 明日の調教へぶつけない。


 菊の直線まで、持っていく。


 厩舎の外で、馬運車の扉を確かめる音がした。


 三浦さんの声がする。


「短期で戻す。風見牧場で一度抜くぞ」


 風見牧場。


 クラウンメア。


 鈴鹿。


 俺は耳を前へ向けた。


 明日、帰る。


 勝って帰る前に。


 負けたまま、一度帰る。


 それでもいい。


 戻って、整えて、また行く。


 飼葉桶の底に鼻が触れた。


 最後の一口を、急がずに噛んだ。


 飲み込む。


 桶の底は、もう鳴らなかった。


 俺は空になった口で、ゆっくり息を吐いた。

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