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ノゾミノカゼ -死んだ兄は、馬として家族のもとへ帰ってきた-  作者: ビッグサム


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第56話 神戸新聞杯

 ◇ 客観視点


 神戸新聞杯の出走表に、赤い丸が二つ付いていた。


 ノゾミノカゼ。

 ナガレボシステイヤー。


 鈴鹿は、二つ目の名前を指でなぞった。


 派手な馬ではない。

 ダービーにも出ていない。

 新聞の扱いも、大きくはない。


 それでも、朝倉は赤丸を付けていた。


「この馬、強いんですか」


 朝倉は出走表から目を離さない。


「速いというより、止まらない」


「止まらない?」


「長く脚を使う。三千で出会うと嫌な馬だ」


 美浦騎手が、横から出走表を覗き込んだ。


「今日勝てば、菊でも人気になりますね」


「ノゾで、ここを勝ち切りに行くなよ」


 朝倉が言った。


 美浦の手が止まる。


「勝ちに行かないんですか」


「勝ちには行く」


 朝倉は、出走表の隣に右前チェック表を置いた。


 朝一歩目。

 熱感。

 冷却後。

 追い切り翌朝。


 赤ペンの印が、いくつも残っている。


「だが、菊へ残す脚まで使い切るな」


 美浦は出走表を見た。


 それから、右前チェック表へ目を移す。


 膝の上で握っていた拳が、ほんの少し開いた。


「……勝ちに行って、残す」


「そうだ」


「難しい注文ですね」


「だから騎手が乗る」


 鈴鹿はノートに書いた。


 勝ちに行く。

 でも、全部は使わない。


 その横へ、小さく書き足す。


 右前を、嘘にしない。


 ◇ 望視点


 ゲートの中は、ダービーの時より静かだった。


 歓声はある。


 けれど、耳を伏せるほどではない。


 それでも胸は鳴っている。


 久しぶりの実戦。

 秋へ向かう最初の一歩。


 ここで走りすぎるな。


 でも、手は抜くな。


 手綱の先で、美浦の指は静かだった。


 前扉が開く。


 一完歩目。


 芝を踏む。右前は悪くない。


 二完歩目。


 体が浮きすぎない。


 三完歩目。


 外から一頭が、ふわりと前へ出た。


 ナガレボシステイヤーではない。


 あの馬は、少し前にいる。


 急いでいない。

 首が高くない。

 息も荒くない。


 同じ歩幅で、長く脚を使っている。


 嫌な馬だ。


 強くは見せない。

 でも、止まらない。


 美浦の膝が、一瞬だけ前へ入った。


 俺も行ける。


 今なら、もう少し前につけられる。


 だが、右前が芝に触れた瞬間、鈴鹿のノートの字が浮かんだ気がした。


 朝一歩目。

 熱感。

 冷却後。


 俺は首を下げた。


 行きすぎるな。


 折り合え。


 ここは、菊を壊す場所じゃない。


 ◇ 鈴鹿視点


 スタンドで、鈴鹿はノートを開いていた。


 春江は隣で、水筒の蓋を両手で持っている。


 宗一郎は少し後ろに立ち、帽子を被らず手に握っていた。


 ノゾミノカゼは悪くない。


 かかっていない。

 前へ行きすぎてもいない。

 右前の歩様も、見える範囲では乱れていない。


 でも、ダービーの直線のように、すべてを飲み込む迫力はない。


 じっとしている。


 待っている。


 いや、残している。


「母さん」


「うん」


「今日、勝ちに行ってる」


「そう見えるわ」


「でも、全部は使ってない」


 春江は鈴鹿の横顔を見た。


「そういうの、分かるようになったの?」


「分からない」


 鈴鹿はすぐに否定した。


「でも、皐月賞の時とも、ダービーの最後とも違う。今日は……残してる」


 宗一郎が背後で低く言った。


「見るようになったな」


「まだ全然」


 鈴鹿は短く返し、すぐにコースへ目を戻した。


 第4コーナーが近づく。


 ナガレボシステイヤーが、じわりと動いた。派手さはない。でも、止まらない。


 鈴鹿のペン先が、カリッと紙を削った。


 ◇ 望視点


 第3コーナーを過ぎても、ナガレボシステイヤーの息は乱れなかった。


 前の馬が苦しくなる。

 横の馬の脚音が鈍る。


 だが、あの馬だけは同じ歩幅で進み続ける。


 長い。


 あれは、長い脚だ。


 美浦の指が動く。


 俺の肩が前へ出る。


 右前は大丈夫だ。

 踏める。


 直線に向けば、差せる。


 体がそう言っている。


 第4コーナー。


 視界が開いた。


 ナガレボシステイヤーが前にいる。


 俺は首を伸ばした。


 一完歩。差が詰まる。


 二完歩。まだ詰まる。


 三完歩。


 美浦の右手が動いた。


 鞭を握り直す気配。


 ここで一発入れば、もう半完歩伸びる。


 俺も、それを待った。


 だが、美浦の親指が定位置へ戻った。


 鞭は抜かれない。


 手綱の奥に、ほんの少しだけ引き留める力が残る。


 菊で残す脚まで、神戸で使うな。


 言葉ではない。


 美浦の手が、そう語っていた。


 俺はハミを受けた。


 勝ちたい。


 今すぐ前の馬を捕まえたい。


 でも、右前を嘘にしない。


 壊れるような伸び方はしない。


 最後まで伸びる。


 でも、全部は出さない。


 ナガレボシステイヤーの尻尾が、半馬身先で揺れている。


 届かない。


 もう一つ伸びれば、届くかもしれない。


 その一つを、菊へ残す。


 白いゴール板が流れていった。


 俺は首を伸ばした。


 前には届かない。


 二着。


 負けた。


 美浦の息が、背中で詰まるのが分かった。


 悔しい。


 俺も悔しい。


 でも、右前はしっかりと地面を踏んでいる。


 歩様は崩れていない。


 俺はゴールを過ぎてから、すぐに脚を確かめた。


 右前が踏む。

 左後ろが押す。


 止まれる。


 帰れる。


 ◇ 鈴鹿視点


 掲示板に数字が点灯する前に、鈴鹿のペンは止まっていた。


 着順より先に、ノゾミノカゼの止まり方を見ていた。


 美浦騎手が手綱を抑える。


 ノゾが減速する。


 右前を置く。


 次の一歩も、崩れない。


 鈴鹿はそこで、ようやく長く息を吸い込んだ。


 一着、ナガレボシステイヤー。

 二着、ノゾミノカゼ。


 スタンドがざわついた。


 ダービー馬が敗れた。


 その言葉が、周囲の席からぽつぽつ漏れた。


 春江の手が、水筒の蓋をさらに強く握りしめた。


 宗一郎は掲示板を一瞥したあと、すぐにコースへ目を戻した。


 鈴鹿は泣かなかった。


 悔しくないわけではない。


 胸の奥は熱い。


 でも、ノートを開く手は止めなかった。


 二着。

 最後の一追いなし。

 鞭、抜かず。

 右前、歩様大崩れなし。

 悔しい。

 でも、帰ってきた。


 最後の一行の下に、赤い線を引いた。


 宗一郎は何も言わなかった。


 ただ、鈴鹿のノートを一度だけ見た。


 それだけだった。


 それでも、引かれた赤い線だけは、まっすぐだった。


 ◇ 望視点


 引き上げていく道は、勝った時よりも長く感じた。


 拍手はある。


 でも、どこか戸惑いを含んだ音だった。


 ダービー馬が負けた。


 人間たちは、そう思っているのだろう。


 その通りだ。


 俺は負けた。


 勝てたかもしれないレースだった。


 もう一つ追えば。

 もう半完歩伸ばせば。


 その考えが、胸の内側を何度も叩く。


 美浦の手が、そっと首筋に置かれた。


 指先が、かすかに震えている。


「……鞭、一回だけ残した」


 美浦の声は、喉の奥で一度引っかかった。


 それでいい。


 その一回が、菊にある。


 俺は耳を後ろへ向けた。


 触れている美浦の手が、まだ震えていた。


 悔しいんだな。


 俺もだ。


 でも、その悔しさをここで全部使うな。


 厩務員に引かれて歩く。


 右前。ある。


 左後ろ。押せる。


 呼吸。荒いが、戻る。


 俺は負けた。


 でも、壊れていない。


 右前が地面を踏む。


 左後ろが押す。


 菊へ残した一歩で、俺は引き上げていた。


 遠くで、鈴鹿の声がした気がした。


 聞き取れない。


 でも、俺は首を少しだけ高く上げた。


 帰ってきたぞ。


 そう、伝えるために。

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