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ノゾミノカゼ -死んだ兄は、馬として家族のもとへ帰ってきた-  作者: ビッグサム


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第55話 菊へ向かう条件

 ◇ 客観視点


 風見牧場の事務所の机に、三枚の紙が置かれていた。


 一枚目は、秋のローテ表。


 二枚目は、右前のチェック表。


 三枚目は、競馬記事の切り抜きだった。


 ローテ表には、レース名が並んでいる。


 神戸新聞杯。

 菊花賞。

 天皇賞・秋。

 ジャパンカップ。


 そのうち、赤丸がついているのは二つだけだ。


 神戸新聞杯。

 菊花賞。


 天皇賞・秋とジャパンカップには、朝倉の字で細い斜線が引かれていた。


「今年は、ここへは行かない」


 電話越しの朝倉の声が、事務所に落ちる。


 春江は電卓を出していたが、まだ触っていない。


 宗一郎はローテ表ではなく、二枚目の紙を見ていた。


 右前チェック表。


 朝の歩き出し。

 熱感。

 冷却後。

 触診反応。


 端には鈴鹿の字で、何度も同じ言葉が書かれている。


 浅い。

 戻る。

 でも、見る。


「神戸新聞杯は使う」


 朝倉が言った。


「ただし、仕上げ切らない。追い切りで右前が熱を持つなら、そこで止める」


 三浦さんが赤ペンを取った。


 神戸新聞杯の横に、小さく書く。


 右前優先。


 鈴鹿はその四文字を見て、息を吸った。


「勝ちに行かないんですか」


 美浦騎手が言った。


 声は抑えていた。


 けれど、机の下で拳が固くなっているのが見えた。


「勝ちに行く」


 朝倉はすぐ返した。


「だが、全部は使わない」


 美浦の拳が、さらに固くなる。


「勝ちに行くのに、全部使わない」


「そうだ」


 朝倉は言った。


「菊で残す脚まで、神戸で使うな」


 美浦は黙った。


 その目が、ローテ表から右前チェック表へ移る。


 赤い字。


 朝一歩目。


 熱感。


 冷却後。


 美浦の拳が、少しだけ緩んだ。


 ◇ 鈴鹿視点


 鈴鹿は、机の端に置かれた競馬記事を見た。


 グランレグルス、秋は天皇賞・秋へ。

 三千メートルではなく、中距離で古馬挑戦。


 記事の写真では、黒鹿毛の馬が首を低くして走っていた。


 皐月賞で届かなかった背中。


 ダービーで、最後に抜いた背中。


 鈴鹿は、菊花賞でもう一度戦うのだと思っていた。


 たぶん、ノゾも。


 美浦騎手が記事を見て、低く言った。


「菊で再戦じゃないんですか」


 朝倉は記事を取らなかった。


 代わりに、右前チェック表を指で叩いた。


「相手は一頭じゃない」


 美浦が顔を上げる。


「三千には、三千の馬がいる」


 その言葉で、事務所の中が少し静かになった。


 三千メートル。


 ノゾの脚が、何度も地面を踏む距離。


 右前も、左後ろも、呼吸も、全部が長く使われる距離。


 鈴鹿はノートを開いた。


 神戸新聞杯。


 勝つための確認。


 書いてから、消した。


 勝つため、だけじゃ足りない。


 鈴鹿はもう一度書く。


 菊へ帰すための確認。


 春江が、その字を見た。


 何も言わず、湯呑みを鈴鹿のそばへ寄せる。


 鈴鹿はペンを握ったまま、ノゾのいる厩舎の方を見た。


「勝ってもいい」


 自分の声が、思ったより小さかった。


 でも、事務所の中ではよく聞こえた。


「でも、帰ってきて」


 美浦騎手が、ゆっくり顔を上げた。


 宗一郎は何も言わない。


 ただ、杖の先を右前チェック表の横に置いた。


 ◇ 望視点


 事務所の声は、途切れ途切れに聞こえた。


 神戸。


 菊。


 右前。


 全部、使うな。


 言葉の全部は分からない。


 だが、秋へ向かう話だということは分かった。


 俺は三番馬房で、右前をそっと地面に置いた。


 痛みはない。


 強い熱もない。


 でも、忘れていい脚ではない。


 蹄の裏に、敷料のやわらかさがある。


 少し体重を乗せる。


 すぐ抜く。


 もう一度、乗せる。


 今度は逃げない。


 美浦の声が聞こえた。


「菊で再戦じゃないんですか」


 グランレグルス。


 その名前は聞こえなかった。


 でも、分かった。


 あの黒い背中だ。


 もう一度、見たい。


 あの馬は、ダービーで抜いたあとも止まっていなかった。


 強かった。


 まだ強い。


 けれど、朝倉さんの声が続いた。


「相手は一頭じゃない。三千には、三千の馬がいる」


 俺は鼻から息を抜いた。


 そうだ。


 競馬は、因縁だけで走るものじゃない。


 距離がある。

 馬場がある。

 脚がある。


 俺の右前も、そこにある。


 その時、鈴鹿の声がした。


「勝ってもいい」


 俺は耳を前に向けた。


 少し間があく。


「でも、帰ってきて」


 俺は右前を、もう一度地面に置いた。


 昔なら、少し物足りなかったかもしれない。


 勝って。


 それだけで言ってほしかったかもしれない。


 でも今は違う。


 鈴鹿は、俺が勝てないと思っているんじゃない。


 勝つところを見ている。


 そのあと、厩舎へ戻るところまで見ている。


 俺は鼻を鳴らした。


 神戸へ行く。


 菊へ向かう。


 その前に、この右前を嘘にしない。


 ◇ 客観視点


 会議が終わる頃、ローテ表よりも右前チェック表の方が、机の真ん中に出ていた。


 神戸新聞杯の欄には、赤い字が増えている。


 追い切り後。

 翌朝一歩目。

 冷却後。

 歩様動画。


 菊花賞の欄には、鈴鹿の字がある。


 壊さず行く。


 春江は投資会社の資料を、机の端から棚へ戻した。


 今日は開かない。


「勝ったら、また電話が増えるわね」


 春江が言った。


 宗一郎は、ローテ表に手を伸ばさなかった。


 右前チェック表を一枚、机の中心へ戻す。


「電話は鳴る」


 宗一郎は言った。


「だが、脚が熱を持ったら終わりだ」


 鈴鹿は頷いた。


 三浦さんが赤ペンを置く。


「出発まで、朝の歩き出しは毎日見る」


「私も見ます」


 鈴鹿が言った。


 三浦さんは鈴鹿を一度だけ見た。


「見えたら、書け」


「はい」


「分からなかったら、分からないと書け」


「はい」


「良く見せるな。悪く見せるな。そのまま書け」


 鈴鹿はノートを開いた。


 神戸新聞杯へ。


 勝ちに行く。

 でも、全部使わない。


 その横に、もう一つ書いた。


 帰ってきて。


 ペン先が、最後の「て」で少し止まった。


 ◇ 望視点


 夜、厩舎が静かになった。


 隣の馬房から、クラウンメアの息が聞こえる。


「坊や」


「母さん」


「行くの」


「行く」


「遠い」


「行く」


 クラウンメアは、少しだけ鼻を鳴らした。


「戻る」


 俺は目を閉じかけて、開いた。


「帰る」


 それだけでよかった。


 勝つ。


 その言葉は、俺の中にある。


 でも、今は母さんに言う言葉ではない。


 俺は右前を敷料の上に置いた。


 痛みはない。


 少しだけ慎重になる。


 それでいい。


 神戸へ行く。


 菊へ向かう。


 勝ちたい気持ちは、胸にある。


 帰る約束は、脚にある。


 俺はそのまま、静かに体重を預けた。

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