第54話 夏の違和感
◇ 望視点
夏の放牧地は、朝だけ少し涼しかった。
草の先に水が残っている。
蹄を置くと、地面がやわらかく沈む。
悪くない。
硬すぎない。
深すぎない。
俺は首を下げて、草の匂いを吸った。
ダービーの東京の芝とは違う。
ここは走る場所じゃない。
休む場所だ。
そう分かっているのに、歩き出しの右前だけが、少し遅れた。
痛い、とは違う。
刺すようなものではない。
脚を引きずるほどでもない。
ただ、蹄を置く角度が、いつもより浅い。
体が、半歩だけ用心した。
次の一歩は普通に置ける。
その次も悪くない。
でも、分かる。
朝一番。
体が温まる前。
痛みになる前の、小さな違和感。
ここでごまかす馬がいる。
歩き出せば消える。
走れば気にならない。
時計も出る。
そして、あとで来る。
俺は草を噛んだ。
奥歯に力が入る。
ダービーを勝った脚だ。
鈴鹿のところへ帰った脚だ。
この脚で、まだ走りたい。
秋の前哨戦へ行きたい。
菊へも行きたい。
でも、そのために今は見栄を張らない。
風が吹いた。
たてがみが揺れる。
遠くで車の音がした。
鈴鹿の足音と、上着についた厩舎の匂いが、少し遅れて届いた。
◇ 鈴鹿視点
夏休みに入って最初の日。
ダービーから日数は経っている。
それでも、朝一番の右前だけは、鈴鹿のノートから消えていなかった。
鈴鹿は放牧地の柵の前に立っていた。
手には観察ノート。
表紙の角は、もうかなり丸くなっている。
三浦さんが隣にいた。
腕を組んでいるが、ノゾミノカゼから目を離さない。
「腫れはないですか」
「今のところ、はっきりしたものはない」
「歩様は?」
「大きくは崩れてない」
「大きくは、ですか」
三浦さんはすぐに返事をしなかった。
ノゾミノカゼが草地を歩く。
一歩。
二歩。
三歩。
鈴鹿は息を止めた。
右前。
ほんの少し、置き方が浅い。
次の一歩では戻っている。
見間違いかもしれない。
でも、ノートを持つ指が強くなった。
「今、少し浅かった?」
三浦さんの目が動いた。
「見えたか」
「見えました」
「気にしすぎ、で済ませたいところだけどな」
三浦さんは帽子のつばを指で押した。
「ダービーのあとだ。疲れは残る。腫れがなくても、熱だけ残ることもある。朝一番は固いこともある」
「じゃあ、大丈夫?」
「大丈夫と言い切るのが一番危ない」
鈴鹿はノートを開いた。
日付を書く。
朝。
放牧地。
右前、歩き出し一歩目浅い。
腫れなし。
歩様、大きな乱れなし。
熱感、要確認。
文字が少し曲がった。
三浦さんはそれを見て、何も笑わなかった。
「朝倉先生には?」
「報告する」
「今すぐ?」
「今すぐだ」
三浦さんはノゾミノカゼを見ていた。
「ダービー馬だから走らせるんじゃない。走れる状態だから走らせる。そこを間違えたら、ただの飾りだ」
鈴鹿はノートに書き足した。
走れる状態だから走らせる。
その文字の下に、強く線を引いた。
◇ 客観視点
朝倉への電話は、午前のうちにつながった。
三浦は事実だけを並べた。
「右前。朝の歩き出しで一歩だけ浅いです」
受話器の向こうで、朝倉はすぐに黙った。
「腫れは」
「目立った腫れはありません」
「熱は」
「完全には抜けていません。強い熱ではないです」
「歩様は」
「温まると戻ります」
そこまで聞いても、朝倉は安心した声を出さなかった。
「戻るから怖いんだ」
三浦は返事をしない。
鈴鹿は事務所の端で、ノートを胸に抱えていた。
電話のそばには、投資会社の資料がある。
棚の下段。
請求書の隣。
今は誰もそれを開かなかった。
「調教は急がない」
朝倉の声が受話器から漏れる。
「様子見ですか」
「様子見じゃない。確認だ。歩き出し、熱、触診、冷却後の反応。全部見てからだ」
鈴鹿の肩から、少しだけ力が抜けた。
春江が湯呑みを机に置く。
音は小さい。
でも、鈴鹿にはよく聞こえた。
「先生」
三浦が言った。
「秋は」
「秋の話は、脚が答える」
朝倉はそこで少し息を置いた。
「前哨戦も、本番も同じだ。ダービー馬だから走らせるんじゃない。走れる状態だから走らせる」
鈴鹿はノートの同じ言葉を見た。
三浦さんの言葉と、朝倉先生の言葉が重なった。
◇ 望視点
昼前、俺は洗い場に立っていた。
右前に水が当たる。
冷たい。
痛くはない。
だが、気持ちいい。
つまり、少し熱が残っている。
三浦さんの手が、腱の周りを確かめる。
強くは押さない。
でも、ごまかせない触り方だ。
鈴鹿が横に立っている。
いつもより静かだった。
ノートは持っている。
でも、書くより先に俺の脚を見ている。
「痛い?」
鈴鹿が小さく聞いた。
答えられない。
俺は鼻を鳴らした。
痛い、ではない。
腫れてもいない。
でも、何もない、でもない。
それを人間の言葉にできないのが、もどかしい。
俺は右前を少しだけ上げた。
すぐに下ろす。
鈴鹿の手が止まる。
「……やっぱり、気になるんだ」
三浦さんが低く言った。
「分かりやすい馬だな」
違う。
分かりやすくしているんだ。
強い馬に見せることはできる。
平気な顔で歩くこともできる。
でも、それをしたら、鈴鹿が見落とす。
朝倉さんが急ぐ。
美浦が乗る日が来る。
俺は走ってしまう。
そして、帰れなくなるかもしれない。
それだけは駄目だ。
鈴鹿の指が、俺の膝下に触れた。
熱を確かめる手。
前より少し強くなった手。
「ノゾ」
鈴鹿の声が震えていた。
「走らなくていい、じゃないよ」
俺は耳を向ける。
「走るために、今は休もう」
俺は鼻を鳴らした。
それなら分かる。
勝つために休む。
帰るために休む。
◇ 鈴鹿視点
夕方、鈴鹿は事務所の机でノートを開いた。
投資会社の資料は、棚の下段にある。
今日は開いていない。
机の真ん中にあるのは、ノゾの右前の記録だった。
朝の歩き出し。
熱感。
冷却後。
触診反応。
放牧地での歩幅。
春江が横に座っている。
電卓は出していない。
宗一郎は窓際で、杖に両手を乗せていた。
「金の話は、あとでいいのか」
宗一郎が言った。
鈴鹿はペンを止めない。
「忘れてない」
「ならいい」
「でも、今日はこっちが先」
鈴鹿はノートの一番下に書いた。
秋へ向かう条件。
壊さないこと。
その下に、もう一行足す。
前哨戦も、本番も、脚が答える。
春江が、その文字を見た。
「菊、行くの?」
「行きたい」
鈴鹿は正直に言った。
「でも、脚が駄目なら行かない」
口に出すと、喉が少し痛かった。
でも、言わなければならなかった。
ノゾミノカゼは、勝つために走る。
でも、帰るために休む。
その順番を、もう間違えたくなかった。
外で、ノゾミノカゼが草を噛む音がした。
ゆっくり。
焦らず。
鈴鹿はノートを閉じた。
その上に、手を置く。
「菊へ行くなら、壊さず行く」
宗一郎の杖が、床を一度だけ鳴らした。
「それが条件だな」
窓の外で、ノゾミノカゼが顔を上げた。
右前は、まだ少しだけ慎重に地面を踏んでいた。




