表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ノゾミノカゼ -死んだ兄は、馬として家族のもとへ帰ってきた-  作者: ビッグサム


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
54/66

第53話 鈴鹿、金の匂いを知る

 ◇ 鈴鹿視点


 大学の廊下で、鈴鹿は名前を呼ばれた。


「風見さん」


 振り向く前に、周りの視線が少し寄った。


 前は、牧場の話をしても「へえ」で終わっていた。

 今は違う。


 ノゾミノカゼが日本ダービーを勝ってから、鈴鹿の名字まで違う音になった。


「すごいじゃん。ダービー馬の牧場って」


 同じ講義を取っている男子学生が言った。


 悪気はない。


 本当にすごいと思っている顔だった。


 鈴鹿はノートを胸に抱え直した。


「うん。ノゾが頑張ったから」


「これから取材とか来るんでしょ?」


「来てる」


「やっぱり」


 別の学生がスマホを見ながら言った。


「種牡馬になったら、めちゃくちゃ稼げるんでしょ?」


 その一言で、鈴鹿の指が止まった。


 ノートの角が、手のひらに食い込む。


 めちゃくちゃ稼げる。


 たぶん、軽く言っただけだ。


 でも鈴鹿の頭には、昨日の電話メモが浮かんだ。


 共同所有。

 種牡馬権利。

 拡張資金。

 億に届きそうな数字。


 その横に、春江の字で書かれていた。


 乾草代、三十八万。


「……まだ、走ってる馬だから」


 鈴鹿はようやく言った。


 男子学生が少し首を傾げる。


「そっか。まあ、これからもっと稼ぐってことか」


 違う。


 そう言いたかった。


 でも、相手は悪いことを言っていない。


 鈴鹿は笑うふりをして、講義室へ入った。


 ◇ 鈴鹿視点


 その日の講義は、前期の中でも鈴鹿が印をつけていた回だった。


 競走馬の引退後。


 黒板には、白いチョークで短く書かれている。


 競走能力。

 繁殖価値。

 引退後の受け皿。

 馬福祉。


 教授は資料をめくった。


「競走馬の話は、勝ったところで終わりません」


 鈴鹿のシャープペンが止まった。


「成績、血統、繁殖能力、経済価値。もちろん大事です。ただ、それだけで一頭の馬の一生を決めていいのか。そこが難しいところです」


 机の上には、配布資料がある。


 競走馬のセカンドキャリア。


 鈴鹿は紙の端を指で押さえた。


 スマホの画面には、ノゾミノカゼの写真が入っている。


 ダービーのゴール前ではない。


 風見牧場の三番馬房で、水桶に鼻を寄せている写真だ。


 濡れた口元。

 古い馬房札。

 奥に映った雨漏りのバケツ。


 鈴鹿はノートを開いた。


 運動生理学のページの次に、新しい行を作る。


 勝ったあとも、ノゾは水を飲む。

 脚を冷やす。

 眠る。


 書いた文字を、指でなぞった。


 それは講義のまとめではなかった。


 ノゾに向けた約束だった。


 ◇ 鈴鹿視点


 夜、風見牧場の事務所には、大きな封筒が届いていた。


 白く厚い封筒。


 角が折れていない。


 差出人は、昨日電話をしてきた投資会社だった。


 春江は封筒を裏返して置いていた。


 宗一郎は、それを見たまま開けていない。


「開けないの?」


 鈴鹿が聞く。


「開けなきゃ中身は分からん」


 宗一郎はそう言ったが、手は伸びなかった。


 春江が小さく息を吐く。


「見ないで捨てるわけにもいかないわ」


 鈴鹿は封筒を取った。


 紙が重い。


 中には、綺麗な資料が入っていた。


 表紙には、ノゾミノカゼの写真が使われている。


 ダービーの直線で首を伸ばしている写真。


 その横に、大きな文字があった。


 ダービー馬を軸にした牧場ブランド化。


 鈴鹿は一枚めくった。


 種牡馬価値の最大化。


 もう一枚。


 早期権利確保。


 さらに一枚。


 資本提携による安定経営。


 春江が黙っている。


 宗一郎も黙っている。


 事務所の時計の針だけが動いていた。


 鈴鹿は紙をめくる手を止めた。


 写真の中のノゾミノカゼは、走っていた。


 でも、その下に並ぶ言葉は、脚を見ていない。


 呼吸も見ていない。


 右前も、左後ろも、三番馬房で水を飲む姿も見ていない。


「ノゾは、企画書じゃない」


 鈴鹿の声は、自分で思ったより低かった。


 春江が顔を上げる。


 宗一郎は何も言わない。


 鈴鹿は紙束を閉じた。


 叩きつけなかった。


 角を揃えて、机の上に伏せた。


 その上に、大学ノートを置く。


 勝ったあとも、ノゾは水を飲む。

 脚を冷やす。

 眠る。


 春江がその文字を見る。


「それ、今日の講義?」


「うん」


 鈴鹿はノートの端を押さえた。


「でも、たぶん講義だけじゃない」


 宗一郎が杖の先を少し動かした。


「どういう意味だ」


「ノゾは、走ったあともノゾだってこと」


 鈴鹿は資料を見た。


「値段がついても、権利って言われても、ノゾの体は一つしかない。脚も、一つずつしかない」


 春江は、伏せた資料の上に手を置いた。


「お金は要るわ」


「分かってる」


 鈴鹿はすぐに言った。


 今度は目を逸らさなかった。


「だから、見ないふりはしない。でも、急いで決めない」


 宗一郎が鈴鹿を見る。


 その目に、少しだけ驚きがあった。


 鈴鹿は声が震えているのを感じた。


 それでも続けた。


「ノゾが勝ったから来た話なら、ノゾが帰ってきたことを見てから決めたい」


 ◇ 望視点


 その夜、俺は三番馬房にいた。


 水は飲んだ。


 飼葉も食べた。


 脚は冷やされた。


 右前に強い熱はない。


 左後ろも悪くない。


 だが、事務所の方から紙の音がしていた。


 封筒を開ける音。


 紙をめくる音。


 机に置く音。


 人間だった頃なら分かった。


 あれは、金の匂いがする紙だ。


 いい話の顔をして、後から手綱を取ってくる紙だ。


 紙の音なのに、腹帯を締められる時のように体が固くなった。


 でも、全部が悪いわけではない。


 金がなければ、乾草は来ない。


 獣医も呼べない。


 春江が請求書を裏返す夜も減らない。


 分かっている。


 分かっているから、腹の奥が重い。


 隣の馬房から、クラウンメアの声がした。


「坊や」


「母さん」


「眠れ」


 短い声だった。


 俺は耳を倒しかけて、戻した。


「まだ」


 クラウンメアは鼻を鳴らした。


「帰った」


 その言葉で、俺は少し首を下げた。


 帰った。


 そうだ。


 俺はここに帰ってきた。


 走る場所も大事だ。

 勝つことも大事だ。


 でも、帰る場所を奪われたら、俺は何のために走るのか分からなくなる。


 事務所の方で、鈴鹿の声がした。


「ノゾは、企画書じゃない」


 俺は耳を前に向けた。


 言葉の全部は聞こえない。


 でも、鈴鹿の声の硬さは分かった。


 俺は水桶の横で、静かに立った。


 走るのは俺だ。


 でも、守ろうとしているのは、俺だけじゃない。


 ◇ 鈴鹿視点


 翌朝、鈴鹿は投資会社の資料を、事務所の棚にしまった。


 捨てなかった。


 破らなかった。


 でも、机の真ん中には置かなかった。


 棚の下段。


 請求書の隣。


 いつでも見られる場所で、すぐには手に取らない場所。


 春江がそれを見ていた。


「そこに置くの?」


「うん」


「忘れない?」


「忘れない」


 鈴鹿は棚を閉めた。


「でも、最初に見る紙にはしない」


 春江は何か言いかけて、やめた。


 代わりに、湯呑みを鈴鹿の方へ寄せる。


「飲んで」


「母さんも」


「今?」


「今」


 春江は少し笑った。


 湯呑みの底が、机に小さく鳴る。


 鈴鹿はノートを開いた。


 金の話を見る。

 でも、ノゾの脚を先に見る。


 外で、ノゾミノカゼが鼻を鳴らした。


 鈴鹿は顔を上げる。


 馬房の方から、三浦さんの声が聞こえた。


「腫れてはいない。歩様も崩れてない。ただ、右前に少し熱が残ってる」


 鈴鹿の手が止まった。


 湯呑みから、湯気が細く上がる。


 春江も顔を上げる。


 宗一郎の杖の音が、事務所の床を一度叩いた。


 鈴鹿はノートを閉じた。


 金の話より先に、見なければならないものがある。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ