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ノゾミノカゼ -死んだ兄は、馬として家族のもとへ帰ってきた-  作者: ビッグサム


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第52話 ダービー馬の家

 ◇ 客観視点


 風見牧場の電話は、朝から鳴り続けていた。


 カチャリ、と春江が受話器を置く。


 指先が湯呑みに届く前に、また鳴る。


 ジリリリ、と古いベルが事務所の壁を叩いた。


「はい。風見牧場です」


 春江の声は、いつもより少し高い。


 喜んでいる声ではない。

 聞き逃さないように、背筋を無理に伸ばしている声だった。


 机の上には、メモ用紙が散っている。


 取材希望。見学希望。繁殖牝馬の預託相談。投資会社。共同所有。将来の種牡馬権利。牧場拡張資金。


 春江は、聞いた言葉をそのまま書いた。


 意味を考える前に、次の言葉が来る。


「はい。主人に確認いたします」


 受話器を置いても、春江はすぐ動かなかった。


 ペン先が紙に触れたまま、黒い点を作っている。


「母さん、水」


 鈴鹿が湯呑みを持って入ってきた。


「そこに置いて」


「飲んで」


「あとで」


「今」


 湯呑みの底が、メモ用紙の端で小さく鳴った。


 春江が顔を上げる。


「……怒ってるの?」


「怒ってない」


 鈴鹿はそう言って、メモを見た。


 知らない会社名。

 知らない肩書。

 億に届きそうな桁の数字。


「これ、全部ノゾの話?」


「そうみたい」


「ノゾ、まだ水も飲んでないのに」


 春江の指が止まった。


 鈴鹿はすぐに目を伏せる。


「ごめん」


「謝らなくていいわ」


 春江は湯呑みに触れた。


 指先が冷えている。


「昨日まで、この電話は支払いの話ばかりだったのにね」


 鈴鹿は返事ができなかった。


 同じ電話機だ。

 同じ事務所だ。


 でも、鳴る音だけが違って聞こえる。


 春江がメモを一枚めくる。


 その下から、古い請求書が出てきた。


 乾草代、三十八万。

 獣医代、十二万。

 輸送費、八万。


 ダービーを勝っても、その数字は消えていなかった。


 ◇ 宗一郎視点


 宗一郎は、受話器を見ていた。


 鳴るたびに、眉間の皺が深くなる。


 電話が来るのはありがたい。


 それは分かっている。


 昨日まで見向きもしなかった人間が、風見牧場の名前を口にしている。


 ノゾミノカゼが勝ったからだ。


 だが、紙に並ぶ言葉は、馬の体より先に金を見ていた。


「共同所有」


 宗一郎は、低く読んだ。


 春江が肩を揺らす。


「将来の種牡馬権利。牧場拡張資金。繁殖牝馬導入支援」


 杖の先が、床を一度叩いた。


「金の匂いがする連中は、馬を見ていない」


「でも」


 春江の声が細くなる。


「見ていなくても、お金は要るわ」


 宗一郎は返せなかった。


 乾草も、敷料も、獣医も、輸送も、ただではない。

 鈴鹿の学費も、消えたわけではない。


 正しい言葉ほど、腹に重い。


「全部断るとは言っとらん」


 宗一郎は帽子を机に置いた。


 昨日、東京競馬場で胸に当てていた帽子だ。

 縁が少し歪んでいる。


「だが、名前より先に権利の話をする相手とは、急がない」


 春江はメモを揃えた。


 端がずれる。


 鈴鹿が黙って、指でその端を直した。


 また電話が鳴る。


 春江が手を伸ばすより早く、宗一郎が受話器を取った。


「風見牧場です」


 声は硬い。


 だが、相手の名を聞いた瞬間、少しだけ変わった。


「……岸部さんですか」


 鈴鹿が顔を上げる。


 宗一郎は椅子に腰を下ろした。


「ありがとうございます」


 その声には、先ほどまでの棘がなかった。


 ◇ 客観視点


 岸部透の声は、受話器の向こうで静かだった。


「おめでとうございます。見事なレースでした」


 宗一郎は黙って聞いた。


「正直に言います。あの時、買えなかったことを本気で悔しがっています」


 嫌味ではなかった。


 買えなかった馬が、ダービーを勝った。

 悔しくないはずがない。


「ただ、うちに来ていたら、昨日の走りはできなかったかもしれません」


 宗一郎の指が止まる。


「どういう意味です」


「あの馬は、自分が誰を見るか選ぶ馬でした。あの日も、鈴鹿さんの横に立っていた」


 鈴鹿は事務所の入口で固まった。


「だから、負け惜しみ込みで言います。風見さんの家に残ったから、ダービー馬になった。私はそう思います」


 宗一郎は帽子の縁を指で押さえた。


「買えなかった馬を、そこまで言いますか」


「悔しいですよ」


 岸部は少し笑った。


「だからこそ、ちゃんと見たいんです。数字だけで片づけたら、もっと悔しくなる」


 少し間があった。


「また伺ってもいいですか。商談ではなく、馬を見に」


 宗一郎は春江を見た。


 春江は何も言わず、メモの上に書いた。


 岸部透様。


 金額は書かなかった。


「落ち着いたら」


 宗一郎は言った。


「その時に、ぜひ」


 ◇ 望視点


 風見牧場に戻ったのは、ダービーから数日後だった。


 競馬場から直接ではない。


 厩舎で脚を診て、数日置いてからの短い放牧。


 朝倉さんが決めたらしい。


 脚を見たい。

 気を抜かせたい。

 人の熱から少し離したい。


 理由は分かる。


 でも、馬運車の扉が開いた瞬間、体の方が先に納得した。


 乾草。

 古い木。

 湿った土。

 クラウンメアの匂い。


 奥の馬房から、短い声がした。


「坊や」


 俺は耳を前に向けた。


「母さん」


 返事は、鼻息になった。


 東京の歓声より小さい。


 でも、こっちの方が胸の奥に残った。


 通路には、春江、鈴鹿、宗一郎がいた。


 三浦さんも、少し離れて立っている。


 前へは出ず、俺の歩様だけを見ていた。

 ここは俺の家で、家族の場所だと分かっているみたいに。


 鈴鹿は走ってこなかった。


 手を伸ばしかけて、止める。


 右前。

 左後ろ。

 歩きのブレ。


 まず、そこを見ていた。


「……ちゃんと歩いてる」


 小さな声だった。


 俺は鼻を鳴らし、少し強く床を踏んだ。


 当たり前だ。


 帰ってきたんだから。


 鈴鹿の手が、ようやく首に触れた。


 指が震えている。


 皐月賞の後とは違う。

 怖さだけではない。


 確かめる手だった。


「おかえり、ノゾ」


 俺は目を細めた。


 ただいま。


 そう言えたら、どれだけよかったか。


 ◇ 客観視点


 ノゾミノカゼは、三番馬房へ入った。


 ダービー馬の馬房。

 そう呼ぶには、古すぎた。


 木の柱には、昔ついた噛み跡が残っている。


 馬房札は日に焼けている。


 天井の隅には、雨漏り用の古いバケツが置いてあった。


 ぽたり。


 水が落ちる。


 鈴鹿が顔を上げた。


「ここ、まだ直ってないんだね」


 春江が苦笑しかけて、やめた。


「ダービーを勝っても、バケツは勝手に直らないわね」


 宗一郎が杖を鳴らす。


「順番に直す」


 ノゾミノカゼは水桶に鼻を寄せていた。


 ゆっくりと水を飲む。


 東京から帰ってきた脚で、三番馬房の古い敷料を踏んでいる。


 その姿を見て、鈴鹿は手元の電話メモを見た。


 億に届きそうな数字が並んでいる。


 共同所有。

 種牡馬権利。

 拡張資金。


 鈴鹿は余白に、強い筆圧で書いた。


 すぐには決めない。


 春江がそれを見る。


「それ、誰の意見?」


「私の意見」


 鈴鹿はノゾの背中を見た。


「……たぶん、ノゾなら急がないと思う。この子は、自分の見る人を選ぶから」


 岸部の名前が書かれたメモは、金額の欄だけ空いたままだった。


 春江はそれを見て、少し目を伏せた。


「そうね」


 宗一郎が馬房の前に一歩進む。


「ノゾ」


 ノゾミノカゼが顔を上げる。


「お前はダービー馬になった」


 濡れた口元が、少し動いた。


「だが、ここはまだ雨漏りする」


 宗一郎は帽子を脱いだ。


 東京の歓声の中で胸に当てていたそれを、今は古びた馬房の柱に軽く触れさせる。


「だから浮かれるな。俺たちも、お前も」


 ノゾミノカゼは小さく鼻を鳴らした。


 ぽたり。


 バケツの底が鳴る。


 事務所の電話が、また遠くで鳴った。


 だが、もう誰も慌てなかった。


 鈴鹿が新しいメモ用紙を引き寄せる。


 宗一郎は、自分の足元を確かめるように杖をついて歩き出す。


 その背中の後ろで、三番馬房のバケツが、もう一度、ぽたりと鳴った。

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